16. 理力の核
捕虜の意識が戻ったのは、翌日の早朝だった。
留置室に駆けつけると、総督とダリオがすでにいた。そしてもう一人、見覚えのない初老の男が立っていた。
「外務書記官のハインツ・ベッカーだ。ダルムスト公国との交渉に長年携わっている。公国語に最も通じた人間だ」
総督が紹介した。ハインツは痩せ型で、眼鏡のような器具を鼻にかけた知的な風貌の男だった。軽く会釈し、それ以上は何も言わなかった。機密を扱い慣れた文官の沈黙だ。
レントはこの場にいなかった。当然だ。捕虜が何を話すか分からない以上、機密に触れる可能性のある尋問に一介の商人を同席させるわけにはいかない。もっとも、落ち人である俺も一介の民間人に過ぎないのだが、総督の軍事顧問という立場がかろうじてこの席を許しているのだろう。
留置室は総督府の地下にあった。石壁に囲まれた狭い部屋で、窓はない。松明の光だけが揺れていた。
捕虜は木製の椅子に縛りつけられていた。小柄な男だった。丘陵で俺が選んだ通り、六人の中で最も身体が小さい。二十歳前後に見えた。顔は蒼白で、目は怯えていたが、意識ははっきりしていた。
総督が椅子に座り、捕虜の正面に位置した。俺は総督の横、ダリオは扉の脇。ハインツが通訳として捕虜の斜め前に立った。
ハインツがまずゼーラ語で話しかけた。
「名前は」
捕虜は口を開かなかった。唇を固く結び、視線を床に落としている。
ハインツがダルムスト公国の言語に切り替えた。滑らかな発音だった。長年の外交実務で磨いた語学力なのだろう。
捕虜の目が動いた。言葉が通じている。だが、やはり答えない。
総督が口を開いた。
「お前の認識票はすでに確認した。ダルムスト公国の所属であることは分かっている。名前を名乗ろうが名乗るまいが、事実は変わらん」
ハインツが翻訳した。
捕虜の顔に、わずかな動揺が走った。認識票を取られていたことに、今初めて気づいたのだろう。
「お前個人を罰するつもりはない。兵は命令に従っただけだ。私が知りたいのは、お前に命令を下した人間と、その目的だ」
総督の声は威圧的ではなかった。低く、落ち着いていて、理性的だった。だが、その奥にある重みは、この部屋にいる全員に伝わっていた。
捕虜はしばらく黙っていた。
そして、ぽつりと口を開いた。ダルムスト公国の言語だった。
ハインツが翻訳する。
「……ヴォルク。名は、ヴォルク」
「ヴォルク。所属は」
「……第三遊撃隊。ダルムスト公国辺境軍の、第三遊撃隊」
辺境軍。正規軍ではないが、公国の軍事組織の一部だ。
「第三遊撃隊の任務は何だ」
ヴォルクの口が再び閉じた。ここからが核心だと分かっているのだろう。
沈黙が続いた。
俺は一歩前に出た。
「ヴォルク」
ゼーラ語で呼びかけた。通じるかどうか分からなかったが、名前には反応するだろう。
ヴォルクが顔を上げ、俺を見た。怯えた目だった。
「お前たちが丘陵で何をしていたかは、すでに把握している。アスファの城壁を監視し、防衛態勢を偵察していた。六十から九十人の部隊が谷間に駐留していたことも知っている」
ハインツが翻訳した。ヴォルクの顔から、さらに血の気が引いた。
「俺が知りたいのは、偵察の先にある目的だ。アスファを攻めるつもりなのか」
ヴォルクは唇を震わせた。何かを言いかけ、飲み込み、そしてまた口を開いた。
長い沈黙の後、ヴォルクが話し始めた。断片的に、だが確実に。
ハインツが翻訳する声が、留置室の石壁に反響した。
「……攻め落とすのではない。目的は、別にある」
「別の目的とは」
「核だ。理力の核を……奪うことが、任務だ」
理力の核。
俺は聞いたことのない言葉だった。総督を見た。
総督の顔が、石のように固まっていた。
ダリオも同じだった。扉の横で腕を組んでいた姿勢が崩れ、一歩前に出ていた。
「閣下」
ダリオの声が緊張を帯びていた。
「……続けさせろ」
総督の声は低く、抑制されていたが、その奥に怒りとも焦りともつかない感情が渦巻いていた。
「ヴォルク、理力の核とは何だ。詳しく話せ」
ハインツが翻訳した。ハインツ自身も「理力の核」という言葉に眉をひそめていた。外務書記官にも初耳の言葉らしい。
ヴォルクが話し続けた。
「アスファの地下深くに、理力の核と呼ばれるものがある。大きな石だと聞いた。それがアスファの防御の要になっている。核が機能している限り、アスファの城壁は理力で強化されていて、通常の攻城兵器では崩せない。核を取り除けば、城壁はただの石積みに戻る」
俺は城壁を思い出した。十メートル以上の高さ。あれだけの石積みが、数百年にわたって崩れずに維持されている。補修の跡はあったが、根本的な崩壊は見られなかった。
理力で強化されていたのか。
「核を奪えば、アスファは無防備になる。それだけではない。核を我が国に持ち帰れば、公国の防御に転用できる。ダルムストの城壁を理力で強化し、この国からの攻撃を永久に防ぐことができる」
攻め落とすのではなく、守りを無効化する。そして、奪った守りを自国に移す。
単なる侵略ではない。もっと狡猾な、もっと根本的な企てだった。
「偵察の目的は、核の正確な位置と、それを守る警備の配置を把握することだった。核がどこにあるか、どうやって取り出すか。それを調べるために、俺たちは送り込まれた」
「核の場所は分かったのか」
「……分からなかった。総督府の地下にあるらしいということまでは掴んだが、正確な位置は分からなかった。だから、長期の偵察が必要だった」
「この作戦を命じたのは誰だ。ダルムスト公国の誰が、この偵察を指揮している」
ヴォルクの目に恐怖が浮かんだ。名前を出すことへの恐怖。裏切りへの恐怖。
「……辺境軍の司令官。ブレンダ・ダルムスト」
「ダルムスト。公爵家の人間か」
「公爵の弟だ。辺境軍を統括している」
公爵の弟。つまり、国家の中枢に近い人間が直接指揮を執っている。一部勢力の独断ではない。公国の上層部が関与した作戦だ。
「この計画を知っている人間は、公国内にどれだけいる」
「分からない。俺は末端の兵だ。遊撃隊の隊長から命令を受けただけで、全体像は知らない。ただ……」
「ただ?」
「……隊長は、これは公国の存亡をかけた作戦だと言っていた。成功すれば、公国は二度とこの国に脅かされることはなくなると」
ヴォルクの証言は、ここで途切れた。それ以上のことは知らないようだった。
だが、俺の頭の中では、別の警報が鳴り始めていた。
尋問を終え、総督の執務室に移動したのは俺、総督、ダリオの三人だった。ハインツは口外無用を言い渡された上で退室した。
総督は机に着くなり、重い溜息をついた。俺がこの男の溜息を聞いたのは初めてだった。
「閣下、理力の核について説明していただく前に、ひとつ進言があります」
俺が切り出すと、総督は少し意外そうな顔をした。核の説明を求められると思っていたのだろう。
「言ってみろ」
「あの捕虜の証言を、そのまま信じるのは危険です」
総督とダリオの目が俺に集中した。
「根拠は」
「三つあります。まず、あの男は末端の一兵卒です。遊撃隊の最下級の兵が、作戦の核心――理力の核の存在、その機能、奪取という最終目的、さらには作戦を指揮する人間の名前まで知っている。これは異常です」
総督が眉を寄せた。
「一兵卒にそこまでの機密を共有する軍はない。仮に士気を高めるために作戦の目的を大まかに伝えることはあっても、核の機能や指揮系統の詳細まで教える理由がない」
「つまり、嘘をついていると?」
「嘘ではないと思います。あの男は自分が知っていることを話した。問題は、なぜあの男がそれを知っていたかです」
俺は一拍置いた。
「知らされていたのではないか。捕まった場合に話すことを前提として、意図的に情報を与えられていた可能性があります」
ダリオが腕を組み直した。
「わざと喋らせるために、か」
「ああ。考えてみてください。もしこれが公国の存亡をかけた最高機密の作戦なら、末端の兵には徹底した緘口令を敷くはずです。万が一捕虜になった場合に備えて、家族を人質に取るなどの保険もかける。だが、あの男にはそういった圧力の痕跡がなかった。怯えていたのは尋問への恐怖であって、口を割ったことへの恐怖ではなかった」
総督の目が鋭くなった。この男は軍人出身だ。俺の言わんとすることを、察し始めている。
「カズマ、お前の読みを聞かせろ。敵は何を狙っている」
「理力の核の情報を意図的に流し、俺たちを動揺させようとしている可能性があります。目的は二つ考えられる」
俺は指を立てた。
「ひとつ。核の情報を聞いた俺たちが慌てて核の警備を強化する。そうすれば、警備の動きから核の正確な位置が特定できる。兵が集中する場所、警備が厳重になる区画、総督や要人が頻繁に出入りする地下の入り口。偵察隊は撤退したが、街の中に別の目がある可能性がある」
「街の中に……間者がいると」
「丘陵の偵察隊は、外からアスファを監視していた。だが、核の正確な位置は外からでは分からないとヴォルクは言った。正確な位置を知るには、中からの情報が必要です。つまり――」
「アスファの内部に、すでに人間を送り込んでいる可能性がある」
ダリオが低い声で言った。
「その通りです。丘陵の部隊はあくまで外郭の偵察。本命は内部の協力者か間者だ。そして俺たちが核の情報に反応して動けば、内部の間者がその動きを観察し、核の位置を割り出す」
沈黙が落ちた。
総督は太い指で机の縁を叩いていた。考え込む癖だ。
「もうひとつの可能性は」
「撹乱です。理力の核の話そのものが、部分的にでっち上げかもしれない。核の存在は事実だとしても、敵がそこまで正確な情報を持っているかどうかは分からない。断片的な情報をもとにもっともらしい話を作り上げ、捕虜に吹き込んだ可能性もある。俺たちが核の防御に注力すれば、別の方面が手薄になる。その隙を突くつもりかもしれない」
総督はしばらく無言で俺を見つめていた。
「……お前の分析は的を射ている。少なくとも、可能性としては十分にあり得る」
「ですから、核の警備強化は必要ですが、やり方を間違えてはなりません。あからさまに兵を動かせば、相手の思惑通りになる。核の位置を知っている人間だけが、目立たない形で対応すべきです」
総督は頷いた。そして、ようやく口を開いた。
「理力の核について話す。この部屋の三人と、タケダ殿以外には知られていない情報だ」
「理力の核は、この国の最高機密のひとつだ。知っている人間は、この都市でも十人に満たない。私と、衛兵隊の最上層、そしてタケダ殿だけだ」
「武田嗣久が関わっているのですか」
「核の管理を任されている。いや、正確に言えば、核を最も深く理解しているのがタケダ殿だ。核そのものはこの都市が建設される以前から存在していた。だが、それを都市の防御システムとして応用する仕組みを考案し、作り上げたのはタケダ殿だ」
総督は俺をまっすぐに見た。
「理力の核は、直径およそ一メートルの球体だ。素材は不明。この世界のどの鉱物とも異なる。内部に膨大な理力が封じ込められており、その理力が城壁全体に流れている。城壁の石材に理力が浸透し、通常の石の数倍の強度を与えている」
「それが失われると」
「城壁は数年のうちに劣化し始める。理力による補強がなくなれば、数百年前に積まれた石壁は自重と風化に耐えられなくなる。攻城兵器による攻撃にも耐えられなくなる」
「この国の他の主要都市にも、同様の核があるのですか」
「ある。首都にも、北方の要塞都市にも。核の理力は互いに連動している。ひとつが失われると、他の核にも影響が出る」
連動するシステム。都市単体ではなく、国全体の防御網として機能している。捕虜の証言の中で、この部分は事実だったわけだ。
「カズマ、お前にタケダ殿のところに行ってもらいたい。核の現状を確認し、タケダ殿の見解を聞いてきてくれ。特に、捕虜の証言が敵の情報操作である可能性について、タケダ殿がどう判断するかを聞きたい。ダリオも同行させる」
「俺もですか」
ダリオが少し驚いた顔を見せた。
「核の防衛は衛兵隊の管轄だ。タケダ殿の見解を直接聞いておく必要がある。それに、カズマ一人に任せきりでは、こちらの当事者意識が問われる」
「承知しました」
ダリオが頷いた。総督の判断は合理的だった。核を守る立場の人間が、核を管理する武田嗣久と直接話をする。当然のことだ。
「核の警備については、お前の進言を踏まえる。あからさまな強化はしない。ダリオ、通常の東壁警備強化は予定通り進めろ。それとは別に、総督府地下の巡回を密かに増やせ。お前が信頼する衛兵を二人だけ選んで、理由は伝えるな。定期巡回の一環として処理しろ」
「承知しました」
「この件を知るのは、この部屋の三人とタケダ殿だけだ。ハインツには核の名前は伝わったが、詳細は知らない。エルティアにも、レントにも言うな」
全員が頷いた。
「タケダ殿との面会は明日にしろ。今日は捕虜の証言を整理し、お前の仮説を文書にまとめてくれ。明日の夕方までに、二人でタケダ殿の見解を持って戻ってきてくれ」
「分かりました」
執務室を出た廊下で、俺は一人で考えを整理した。
捕虜の証言。理力の核。ダルムスト公国の企て。
そして、俺自身の推理。
捕虜が喋りすぎている。末端の兵にしては知りすぎている。それは事実だ。
だが、もうひとつの可能性も排除できない。
ヴォルクの証言がすべて真実である可能性だ。公国側の情報管理がずさんだっただけ。隊長が士気を上げるために機密を漏らした。あり得ない話ではない。
どちらの可能性が正しいかは、今の時点では判断できない。
だからこそ、武田嗣久に会う必要がある。三百年をこの世界で生きた男の眼と知恵が、今ほど必要なときはない。
俺は足元の石床を見下ろした。
この下のどこかに、理力の核がある。
この都市を、この国を守っている力の源。
それを奪おうとする者がいるのか。それとも、そう思わせようとする者がいるのか。
いずれにせよ、敵は有能だ。丘陵の偵察部隊を一晩で撤退させた指揮官。そして今、情報戦を仕掛けてきている可能性がある知略。
501特戦の任務でも、ここまで重い案件は滅多になかった。
だが、やるしかない。
この街を守ると約束した。その約束の重さが、また一段と増していた。




