第四十九話 「守るための戦い」
──最悪の想定が、現実になった。
俺達がトールの部屋に駆け付けると、そこはもう“部屋”の形状を成してはいなかった。
黒い影が膨れ上がり、天井を押し上げ、壁を軋ませ、床を割り、空間そのものをねじ曲げている。
息が詰まる。
魔力の密度が異常だ。
これはもう、ただの暴走じゃない。
(……トール)
歯を食いしばる。
視界の中心にいるのは、紛れもなく末息子の姿。
だが、そこにいる“何か”は、トールとは完全に別物だった。
「……狭いな」
低い声が落ちた。
その瞬間、背筋に冷たいものが走る。
来る──
「全員、伏せろ!!」
そう叫んだ次の瞬間。
ドォンッ!!!!
屋敷が、内側から弾け飛んだ。
爆風が身体を叩きつける。
瓦礫が舞い、視界が白く染まる。
咄嗟に剣を床だったその場所に突き立て、衝撃を殺す。
そのまま顔を上げた。
夜空。
屋根は、もうない。
黒い影が噴き上がっている。
そして──
トールの身体がゆっくりと浮かび上がった。
瓦礫を越え、庭を越え、屋敷の上空へ。
王都を見下ろす位置まで。
「……ハッ」
声が落ちる。
「ようやく、呼吸ができた」
その声音に、わずかに混じる愉悦。
ぞっとする。
あれはもう、子どものものじゃない。
(……ふざけるな)
拳を握る。
だが、怒りで斬れるものじゃないことも分かっている。
あれは──
斬れば終わる敵じゃない。
影が動いた。
上空から降ってくる。
槍のように。
無数に。
「っ……!」
フレイが障壁を展開する。
メリアが剣を構える。
だが──間に合わない。
その時。
──ギィンッ!!!
鋭い一閃が、影の槍をまとめて弾き飛ばした。
「……ったく」
低い声。
「好き勝手やってくれたな」
振り返ると、そこにはレオンが立っていた。
いつも通りの、腕っぷしだけの男の顔じゃない。
王立騎士団長の顔だ。
「遅くなったな」
隣に並ぶ。
言葉はそれだけでいい。
「ああ。最悪のタイミングでな」
レオンが笑う。
いつもより、少しだけ鋭い。
「いいだろう?派手で」
その一言に、わずかに息が抜けた。
この男はこういう時に絶対に折れない。
それだけで、どれほど救われるか。
「ルシアン!」
「ああ!」
同時に動く。
合図はいらない。
これまで幾度となく共に戦ってきた。
動きも、呼吸も、体で覚えている。
レオンが前に出る。
踏み込み。
地面が砕ける。
重い一撃が、影を叩き潰す。
その瞬間。
俺はレオンの横を抜ける。
風を纏い、最短距離で降り注ぐ影槍の中心へ。
「──そこだ」
斬る。
流れを読む。
魔力の偏りを捉える。
最も薄い一点を切り裂く。
影が削れた。
「チッ……硬いな」
「だが、通る」
風を重ねる。
斬撃の速度と精度を上げる。
レオンが叩き。
俺が裂く。
完璧な連携。
だが──
「……面白い」
上空の“それ”が笑う。
影が膨れ上がる。
一瞬で。
王都の空を覆うほどに。
「チッ……!」
嫌な感覚だ。
規模が違う。
完全に、街を──いや、世界を飲み込む気だ。
その瞬間。
王都全体に光が走った。
結界。
十一年前にミレイユとフレイが張った、王都全域の守り。
影がそれにぶつかる。
バチィッ!!
光が軋む。
「長くはもたないわよ!」
アイリーンの声。
「分かってる!」
フレイが歯を食いしばる。
「……補強する!」
光を繋ぐ。
震えている。
それでも、逃げない。
(……強くなったな)
一瞬だけ、そう思った。
だが、今はそれどころじゃない。
上を見上げるとトールがいる。
(トール……)
胸の奥が、きしむ。
影槍を斬るたびに分かる。
あれは敵じゃない。
俺の息子だ。
だからこそ、止めなければならない。
「止めるぞ、レオン!」
「言われるまでもない!!」
レオンが笑う。
「泣いているトールを残して引けるか!!」
その言葉に、ほんの一瞬だけ救われる。
そうだ。
泣いてる。
あいつは、きっと。
あの中で。
俺は踏み込み、風を爆ぜさせる。
一気に距離を詰める。
だが──
「……無駄だ」
低い声。
影が、爆発的に膨れ上がる。
ドォンッ!!!
「っ──!!」
身体が弾かれる。
踏ん張る。
崩れない。
崩れるわけにはいかない。
「……はは」
上空から声が落ちてくる。
「その程度か」
影が収束する。
槍の形に。
今までで最大。
王都の中心部へ向けて──
「やらせないわよ」
アイリーンの声。
魔法陣が展開されて空間が歪む。
軌道が逸れる。
「今よ!!」
レオンと同時に動く。
叩く。
裂く。
削る。
だが、完全には止めきれない。
結界に突き刺さる。
バチィィッ!!
光が大きく震えた。
「っ……!」
フレイの膝が揺れる。
「まだ……!」
メリアが支える。
あいつらも、限界だ。
(間に合え……!)
その時だった。
「……トール」
静かな声。
振り返る。
ミレイユが前へ出ていた。
止めるべきだ。
分かっている。
でも──
足が動かなかった。
あの顔を見たら。
止められるわけがない。
母親の顔だった。
「来るな」
低い声が落ちる。
影が牙を剥く。
だが。
「通すぞ!」
レオンが斬り払う。
「邪魔させるか!」
俺が風で裂く。
道を開く。
何があっても。
あいつを、あそこまで行かせる。
それが、今の俺の役目だ。
ミレイユが進む。
一歩。
また一歩。
空へと伸びる光の足場を踏みしめながら。
黒い影の中心へ。
あと少し。
届く距離。
「トール」
優しく、呼ぶ。
その声に。
上空の影が、わずかに揺れた。
(……頼む)
剣を握りながら、願う。
(戻ってこい)
声には出さない。
出せない。
だが。
その瞬間。
紅い瞳が──
一瞬だけ──
あれは間違いなくトールの目だった。




