最終話 「黒と白、分けられない者。」
ミレイユが空へ向かう。
淡い光の足場を、一歩ずつ踏みしめながら。
黒い影が何度もその行く手を阻もうとした。
「通すぞ!!」
レオンの剣が、影を叩き落とす。
「邪魔はさせない」
俺は風を纏わせた刃で影の流れを裂いた。
アイリーンの魔法陣が空間を支える。
フレイの光が王都全域の結界へ繋がる。
メリアは震える手で剣を握っていた。
誰も退かない。
誰も諦めない。
ただ一人の大切なトールを取り戻すために。
「……来るな」
トールの声で、“それ”が言った。
黒い影が牙を剥く。
だが、ミレイユは止まらない。
「トール」
優しく、名を呼ぶ。
「迎えに来たわ」
その瞬間。
紅い瞳が、わずかに揺れた。
その時だった。
夜空を裂くように、小さな銀白色の影が飛んできた。
「ノクス!?」
フレイが叫ぶ。
月羽鳥。
学院の森でトールの肩に止まった、小さな魔鳥。
誰よりも早く、トールの本質を見抜いた子。
ノクスは迷わなかった。
小さな翼で黒い影へ飛び込み、トールの肩に止まろうとする。
「……邪魔だ」
低い声。
影が、ノクスを弾き飛ばした。
「ノクス!!」
その小さな身体を、地上で受け止めたのは──ユリウスだった。
「ノクス……!」
ユリウスは青ざめながらも、腕の中の小さなノクスを抱きしめる。
ノクスは震えながら、それでも鳴いた。
細く。
必死に。
トールを呼ぶように。
「トール!」
ユリウスが叫んだ。
「聞こえてるなら、戻ってきて!」
その声に、黒い影が揺れる。
トールの中で、何かが動いた。
ミレイユはその一瞬を逃さなかった。
そして。
今まで国家規模の魔法すら無詠唱で発動してきた聖女とすら謳われる彼女が。
静かに、両手を胸の前で組んだ。
祈るように。
抱きしめるように。
「──天上に座す光よ」
声が響く。
澄んで。
強くて。
けれど、どこまでも暖かい声だった。
「──清き白銀の息吹よ。穢れを焼くのではなく、迷える魂を照らしなさい」
眩い光がミレイユの足元から広がる。
王都を覆う結界が呼応するように輝いた。
「──闇を裁くためではなく」
ミレイユの瞳が、トールを見つめる。
「──この子を、我が元に還すために」
影が暴れる。
黒い腕が、何本もミレイユへ伸びる。
「させるかあああ!!」
俺の声とともに風が走る。
レオンの剣が俺の風に乗る。
アイリーンの術式が影を縛る。
フレイの光が結界をさらに強める。
メリアが泣きながら叫ぶ。
「トール!!帰ってきなさいよ!!」
ミレイユは詠唱を止めない。
「──黒き魂よ。嘆きより生まれし古の王よ」
その声は魔王へ向けられていた。
だが、憎しみはない。
「貴方を否定はしない」
全員が息を呑む。
「けれど、この子の明日を奪うことは許さない」
光が、さらに強まる。
「この子は、貴方ではない」
ミレイユの声が、震えた。
だが、折れなかった。
「この子はトール。私の子」
黒い影の中心で、紅い瞳が大きく揺れる。
「笑って、お菓子を食べて、姉と兄に甘えて、友達と並んで歩く──ただの、優しい子」
光が、トールの胸へ届く。
影の中から、黒と白が入り混じった何かが浮かび上がった。
魂の奥底。
魔王として刻まれた闇。
そして、それに飲まれまいと必死にしがみつく、小さなトールの光。
「トール」
ミレイユが囁く。
「もう大丈夫」
その声は、聖女ではなく、母親のものだった。
「母さんが、迎えに来たわ」
光が弾けた。
黒い影が悲鳴のように震える。
「やめろ……!」
魔王の声。
トールの声で。
けれど、もうそこに支配の余裕はなかった。
ミレイユは手を伸ばす。
「──聖なる光よ、境界を示せ」
光が線になる。
黒と白を、乱暴に裂くのではなく。
絡まった糸をほどくように。
慎重に。
優しく。
「──奪わず、滅ぼさず、ただ在るべき場所へ」
黒い魂の欠片が、トールの胸からゆっくりと引き離されていく。
同時に、ミレイユの身体が大きく揺れた。
「ミレイユ!!」
思わず叫ぶ。
脳裏に、禁書領域で聞いた言葉が蘇る。
──失敗すれば、トールの魂は完全に魔王に飲み込まれる。
──それだけじゃない。
──ミレイユの魂すらも取り込まれて、魂を失った肉体は滅びるわ。
怖かった。
ずっと。
息子を失うことも。
妻を失うことも。
その両方を、同時に失うことも。
それでも、ミレイユは一度も迷わなかった。
「……絶対に、失敗するな」
俺は剣を握りしめる。
祈るように。
縋るように。
叫ぶ代わりに、前を向いた。
影が最後の抵抗を見せる。
影槍がミレイユへ殺到する。
「レオンっ!!」
「任せろルシアン!!」
レオンと同時に踏み込む。
レオンが叩き潰し、俺が剣技に風を纏わせて裂く。
アイリーンが最後の術式を重ねる。
「ミレイユ!!今よ!!」
ミレイユが、涙を浮かべながら微笑んだ。
「トール」
最後の言葉。
最後の祈り。
「おかえりなさい」
黒い魂の欠片が完全にトールから切り離される。
それは空中で震え、逃げようと蠢いた。
だが、ミレイユの光が包み込む。
「──封じよ」
透明な結晶が生まれる。
黒い靄を内に閉じ込めた、美しくも禍々しい結晶。
魔王の魂の残滓。
トールを苦しめていたもの。
それが、静かにミレイユの掌へ落ちた。
同時に。
トールの身体が力を失って落ちる。
「トール!!」
俺は風を蹴った。
間に合え。
間に合え。
腕を伸ばす。
小さな身体を抱きとめた。
軽い。
温かい。
生きている。
「……っ」
トールの睫毛が震える。
ゆっくりと、黒い瞳が開いた。
「……父、さん」
俺は息を呑んだ。
その声は。
間違いなく。
「……ただいま」
俺は何も言えないまま、ただ抱きしめた。
強く。
強く。
壊さないように。
でも、二度と離さないように。
「おかえり、トール」
ミレイユが隣に降り立つ。
少しふらついていたが、笑っていた。
俺は彼女も抱き寄せる。
「……無事か」
「ええ」
「本当に?」
「ええ」
「本当の本当にか?」
「ルシアン、しつこいわ」
その声を聞いて涙が出そうになった。
レオンが大きく息を吐く。
「……終わったか」
アイリーンが結晶を見つめる。
「油断はできないわ。厳重保管ね」
「ああ」
俺は頷く。
「王立騎士団本部の魔力遮断室に封印する。俺が責任を持って守る」
これは、終わりではない。
でも。
トールは戻ってきた。
それだけで今は十分だった。
◇
数日後。
アークライト邸修繕の間、間借りしているレオンの屋敷であるヴァーノン邸の朝は、信じられないほど騒がしかった。
「トール!朝ごはんよ!」
ミレイユが満面の笑みで皿を置く。
皿の上には、灰色と紫が混ざった謎の薄っぺらい塊。
「……母さん、これは?」
「特製ふわふわパンケーキよ」
「パンケーキって灰色になるの!?」
メリアが叫ぶ。
「愛情を込めたらこうなったの」
「愛情どこで化学反応起こしたの!?」
フレイが静かに紅茶を置く。
「トール、こっちに普通のパンもあるよ」
「ありがとう、兄さん」
「待て待て、トールが食べるなら父さんも毒見を──いや愛情確認を」
「ルシアン、毒見って言った?」
「言ってない、愛してる」
「返答がおかしいのよ」
いつもの朝。
騒がしくて。
暖かくて。
求めていた空間。
玄関の方から控えめな声がした。
「……おはよう、トール」
「ユリウス!」
そこにはユリウスが立っていた。
肩には少し包帯を巻かれたノクス。
「学院、遅れるよ。一緒に行こう」
トールは少しだけ目を潤ませて。
それから笑った。
「うん!」
外へ出ると、門のそばにレオンがいた。
「途中まで一緒に行くか」
「レオンおじちゃん!」
「護衛だ護衛」
そこへ、アイリーンが現れる。
「まあ、ただ子供たちと歩きたいだけでしょ?」
「むっ……違う!」
「顔に書いてあるわよ」
「書いてない!」
「はいはい、おじちゃん」
「おじちゃん言うな!」
メリアが笑い、フレイが小さく肩を揺らす。
ユリウスも、少しだけ笑った。
ノクスがトールの肩へ飛び移る。
小さく鳴いた。
まるで、おかえりと言うみたいに。
トールはそっと、その羽を撫でる。
「行ってきます!」
その声にミレイユが手を振った。
「行ってらっしゃい」
俺も隣に立つ。
「寄り道するなよ」
「パパが一番しそう」
「メリア!?」
「ルシアン、貴方もレオンと一緒に早く仕事行ってらっしゃい」
「ああ、そうだな。行ってくる」
「メリアとフレイもよ!」
「はーい!」
「行ってきます」
笑い声が朝の光に溶けていく。
黒と白。
分けられないものは、確かにあるのかもしれない。
トールの髪も瞳も漆黒のままだ。
けれど。
抱えて、選んで、守り抜いて。
その先に、こんな朝があるのなら。
きっと。
この騒がしい日常こそが、俺たちの奇跡なんだ。




