第四十六話 「静かな罅」
朝。
目が覚めたとき、最初に感じたのは。
──ちゃんと、眠れたはずなのに。
という違和感だった。
身体は重くない。
頭も痛くない。
夢も、覚えていない。
なのに。
胸の奥に、ざらりとしたものが残っている。
「……」
天井を見つめたまま、動けなかった。
何かがおかしい。
でも、それが何か分からない。
分からないのに、確かに“ある”。
「……兄さん」
小さく呼ぶ。
すぐ隣で、兄さんが目を覚ました。
「ん……トール?」
「……ん」
「どうしたの?」
少し迷ってから口を開く。
「なんか……変なんだ」
「変?」
「うまく言えないけど……」
胸のあたりをぎゅっと掴む。
「ここが、変な感じがする」
兄さんはすぐには何も言わなかった。
ただ、じっと僕を見る。
優しいのに、どこか鋭い視線。
「……そっか」
やがて、静かに言った。
そして。
そっと僕の手に、自分の手を重ねる。
「大丈夫」
ゆっくりと、言葉を選ぶみたいに。
「僕がいるから」
「……うん」
頷く。
それだけで、少しだけ楽になれた気がした。
──気がした、だけだった。
◇
朝食の席。
みんな、いつも通りだった。
「トール!ちゃんと食べなさいよ!」
「メリア、押し付けすぎ」
「フレイは細かいのよ!」
「そういう問題じゃないと思うけど……」
笑い声。
いつものやり取り。
変わらない日常。
「トール、これも食べる?」
母さんが、皿を差し出してくる。
……なんだろう、これ。
マグマみたいにぶくぶくしている黄土色でペースト状の何か。
でも。
「……うん」
頷いて、口に入れる。
「……」
「どう?特製マッシュポテト」
「ママ!?それマッシュポテトなの!?」
「あら、他の何に見えるの?メリアったら、もうっ!」
母さんの優しい顔と姉さんの驚愕の声、これもいつも通り。
「……おいしい」
少しだけ、間ができてしまった。
自分でも分かった。
でも、母さんは満足そうに笑う。
父さんは何も言わない。
ただ。
一瞬だけ。
じっと、僕を見ていた。
その視線が、少しだけ怖かった。
◇
昼。
庭に出た。
風が気持ちいい。
空もどこまでも広くて青い。
何も変わらない。
何も、おかしくない。
はずなのに。
「……っ」
僕の足元の影が、ゆらりと揺れた。
一瞬だった。
本当に、一瞬。
「……今の」
目を凝らす。
でも、何もない。
ただの影。
ただの暗い形。
「……気のせい、だよね」
小さく呟く。
そうじゃないと、困る。
そうじゃないと。
──怖い。
◇
廊下の角。
兄さんがこっちを見ていた。
今まで気づかなかった。
ずっと、見られてたんだろうか。
「……兄さん?」
声をかけると、兄さんは少しだけ笑った。
「なんでもないよ」
そう言って、近づいてくる。
兄さんの手が、頭に触れる。
優しい手。
「大丈夫」
また、その言葉。
「……うん」
頷く。
でも。
本当に?
◇
夜。
中々寝付けなくてベッドの上に膝を抱えて座る。
昼の違和感が消えない。
それどころか。
じわじわと、広がっている気がする。
「……っ」
胸を押さえる。
息が少し苦しい。
鼓動がうるさい。
その時。
カーテンの隙間から差し込む月明かりで照らされている僕の影が、ゆらりと揺れた。
今度は、はっきりと。
「……!」
息が止まる。
影が、動いた。
ほんの少しだけ。
でも、確かに。
『……まだだ』
頭の奥で、声がした。
低く。
静かに。
『まだ、絶望も恐怖も足りぬ』
「……やめて」
小さく呟く。
でも、止まらない。
『愛など、脆い』
『いずれ、崩れる』
ぞくり、と背筋が震える。
「ちがう……」
否定する。
でも、弱い。
昼のことが頭をよぎる。
兄さんの手。
母さんの笑顔。
みんなの声。
──本当にそんなにも脆いものなの?
『……試してみるか?』
その一声で。
空気が、ガラリと変わった。
「……っ!」
影が、ゆっくりと広がる。
ベッドから床を這うように。
じわじわと。
静かに。
まるで。
何かを確かめるみたいに。
動けない。
目を逸らせない。
ただ、見ていることしかできない。
『お前が壊れるか』
声が、頭の中で低く響く。
『──それとも、周りが壊れるか』
「……やめて……!」
声が震える。
でも。
影は止まらない。
胸の奥で。
何かが、軋む。
小さな罅が。
静かに、広がっていくみたいに。




