第三十七話 「優しい子だから」
──放課後。
朝食の場に現れたアイリーンに「ルシアン、ミレイユ。今日の夕方、トールと一緒にここに来なさい。その時間なら学院も終わってんでしょ」と言われ、俺たちは学院近くの喫茶店に来ていた。
俺とミレイユ、トール。そしてアイリーンと、何故かレオン。
「……何故俺まで来ているんだ」
席につくなり、レオンが不満そうに言う。
「私が来なさいって言ったからよ」
アイリーンは涼しい顔で紅茶を飲んでいた。
「だからといって、朝から人の屋敷に押しかけた上に、連れ回す必要はないだろう!?」
「必要あるわよ。護衛兼、荷物持ち」
「俺は騎士団長だぞ!?」
「知ってるわ」
全く気にしていないアイリーン。
レオンはどこか嬉しそうな不服そうな複雑極まりない表情で大きな紙袋を机に置いた。
「……それは?」
ミレイユが首を傾げる。
「アイリーンが買った菓子だ」
「途中で潰したら許さないと言われた」
「言ったわね」
「しかも、“落としたら殺す”とも言われた」
「言ったわね」
「だから今朝と同じようにずっとこの体勢で……!」
「レオンおじちゃん、腕ぷるぷるしてる」
トールがぽつりと呟く。
「うるさい!」
レオンが顔を赤くして怒鳴った。
だが、紙袋は絶対に傾けない。
その様子に、トールが小さく笑う。
……よかった。
ちゃんと笑えている。
朝より少しだけ柔らかくなった表情に、胸の奥が微かに軽くなる。
「はい、トール」
アイリーンが、トールの前に皿を並べていく。
クッキーに、スコーンに、小さなタルト。蜂蜜たっぷりのパウンドケーキまである。どれもこの店の名物メニューだ。
「好きなだけ食べなさい。この紙袋のお菓子は帰ってから食べたら良いわ」
トールの目が、分かりやすく輝く。
「……いいの?」
「ええ」
遠慮がちにトールがクッキーを口に運んだ。
「……おいしい」
「そう。よかった」
アイリーンが笑った。
その横で、ミレイユもほっとしたように目を細める。
今朝もトールはどこか無理をしていたようだった。
当然だろう。
昨夜、自分の中にあるものを見てしまったのだから。
「ねぇ、トール」
アイリーンが静かに呼ぶ。
トールの肩がぴくりと揺れた。
「昨日のこと、覚えてる?」
持っていたクッキーが、止まる。
「……覚えてる」
「どこまで?」
少しだけ、間。
そして。
「……黒いのが、いた」
小さな声だった。
「僕の後ろに」
思わず、ミレイユの手を握る。
彼女の指先も、少し冷たかった。
「……笑ってた」
トールが俯く。
「僕のこと見て、“お前は我だ”って」
胸が痛む。
そんなことを。
そんなことを、この子に言わせたくなかった。
「……違う」
トールが、ぽつりと呟く。
「あんなの、僕じゃない」
俯いたまま、続ける。
「僕、父さんも、母さんも、兄さんも、姉さんも大好きだし」
「アイリーンさんも、レオンおじちゃんも、ユリウスも、ノクスも大好き」
「だから……」
ぎゅっと、服の裾を握る。
「あんなの、僕じゃない」
今にも泣きそうな声だった。
ミレイユがそっとトールの頭を撫でる。
優しい手つきだった。
「ええ」
静かな声。
「違うわ」
トールがゆっくり顔を上げる。
「母さん……」
「貴方は、優しい子よ」
ミレイユは迷いなく言った。
「誰かを傷つけたくないって思える」
「怖いって、苦しいって、ちゃんと思える」
「それは、とても優しいことよ」
「……でも」
トールの瞳が揺れる。
「でも、僕の中にいる」
小さく震える声。
「僕じゃないのに、いる」
ミレイユが目を伏せた。
ほんの一瞬だけ。
聖女とさえ謳われる特級治癒魔術師として、多くの者を救ってきた彼女が。
何も出来ないと自分を責める母親の顔をした。
だが、次の瞬間には真っ直ぐトールを見ていた。
「ええ」
「貴方の中にいるのは、事実」
トールの肩が、びくりと震える。
「……っ」
「でも」
ミレイユの指が、そっとトールの頬に触れる。
「それは、貴方そのものじゃない」
「貴方は、ちゃんとトールよ」
聖女のような力を持つ、優しい母の声だった。
断言するように。
祈るように。
「貴方がどんなものを抱えていても」
「どんなに苦しくても」
「私たちは、貴方を間違えない」
トールの目に、涙が滲む。
「……ほんと?」
「ああ」
俺は、迷わず答えた。
「お前は、お前だ」
「俺の息子だ」
それだけは、絶対に変わらない。
トールが唇を噛む。
「……僕」
ぽろっ、と。
涙が落ちた。
「僕、ちゃんと僕でいられる?」
十二歳の子供の、不安そうな声。
逃げるわけにはいかない。
「いられるわ」
答えたのはアイリーンだった。
アメジストの瞳が真っ直ぐトールを見る。
「貴方が例え諦めてしまったとしても、私たちは貴方を誰にも奪わせない」
「ルシアンも、ミレイユも、メリアも、フレイも」
「……そして私も」
トールがゆっくりとアイリーンを見る。
「……アイリーンさんも?」
「もちろん」
「……レオンおじちゃんも?」
「なぜ俺に振る!?」
いきなり話を振られてびくりと肩を震わせたレオンをトールがじっと見つめる。
しばらく黙っていたレオンは、やがて深く息を吐いた。
「……離さん」
短い声だった。
「俺は騎士だからな」
「守ると決めたものは守る」
トールが、小さく笑う。
「……うん」
その笑顔に少しだけ安堵する。
まだ、大丈夫だと。
そう思いたかった。
けれど。
ふと。
隣に座るミレイユの肩が僅かに強張った。
「……ミレイユ?」
呼ぶと、彼女はすぐにいつもの顔に戻る。
「何でもない」
嘘だ。
長年一緒にいれば分かる。
俺と同じものを見たのだ。
トールの足元。
夕暮れに伸びる影が、一瞬だけ。
笑った気がしたことを。




