第三十六話 「眠れない夜のあとで」
その夜、結局ほとんど誰も眠れなかった。
トールは俺とミレイユの寝室へ連れて行った。自分の部屋に戻す気にはとてもなれなかったからだ。最初は「大丈夫」と遠慮していたが、ベッドの端に腰掛けたまま小さく震えているのを見てしまえば、そんな言葉を聞き入れる親がどこにいる。
「大丈夫じゃない時に、大丈夫なんて言わなくていい」
そう言って隣へ呼ぶと、トールは少しだけ目を伏せて、それからおずおずとベッドに上がってきた。
昔みたいに、眠れない夜は両親の間に潜り込んできた頃と何も変わらない仕草だった。
けれど今はその小さな背中の奥に、俺の知らない暗がりがある。
ミレイユはトールの髪を梳きながらずっと治癒魔法を流していた。
傷を治すような強いものではなく、心を落ち着かせるための、とても柔らかな暖かい光。トールはしばらく目を開けたまま天井を見ていたが、やがて俺の服の裾を少しだけ掴んでようやく眠りに落ちた。
眠ってからも、何度か眉を寄せていた。
そのたびにミレイユの指先が止まる。
「……ねぇ、ルシアン」
「ん?」
「私、怖いわ」
珍しい言葉だった。
ミレイユは基本的に、自分が怖いと思ったことを人に言わない。怖くても前に出るし、笑って誤魔化す。
そういう女性だ。
だからこそ胸に重く落ちた。
「俺もだ」
隠す意味はないと思った。
「……でも」
眠るトールを挟んだ向こう側で、ミレイユが小さく息を吐く。
「それ以上に、この子が怖がってるのが……嫌」
「……ああ」
俺たちが怖いかどうかなんて、二の次でいい。
一番怖いのはきっとトールだ。
自分の中で、自分じゃない何かが笑う。
その気配を、この子はもう感じ始めている。
だからこそ、「僕じゃない」と言ったのだろう。
「絶対に、独りにしない」
暗闇の中で呟く。
「ええ」
ミレイユの声は静かだった。
「絶対に」
翌朝、トールは何事もなかったような顔をして起きてきた。
「おはよう。父さん、母さん」
いつもの声。
いつもの顔。
黒い瞳も、普段通りだ。
朝食の席では、メリアとフレイが露骨にそわそわしていた。
二人とも、トールの顔色を窺っている。昨夜のことを聞きたいのだろう。
だがトールがあまりに普通にパンをちぎってスープに浸しているものだから、逆にどう切り出していいか分からないらしい。
「……トール」
最初に口を開いたのはフレイだった。
「なに、兄さん」
「その……昨日は」
言いかけて、詰まる。
トールは少しだけ首を傾げた。
「……ごめん」
その一言で食卓の空気が止まった。
「僕、また迷惑かけた」
「迷惑なんかじゃない!!」
真っ先に叫んだのはメリアだ。
椅子を蹴る勢いで立ち上がる。
「あんたねぇ、そういうとこよ! なんでまず謝るの!?」
「姉さん、声大きい」
「大きくもなるわよ!!」
トールは困ったように目を逸らした。だが、その口元がほんの少しだけ緩む。メリアの騒がしさは、こういう時に救いになる。
「迷惑じゃない」
フレイも続けた。
「昨日、怖かったのは分かる。でも……一人で抱えないで」
優しい声だ。責める色は少しもない。
トールはしばらく黙っていた。
それからパンを皿に戻して小さく言う。
「……分かった」
完全に納得した顔ではなかったが、それでも拒むよりはずっと良い。
その時、屋敷の外で転移魔法の気配がした。
次の瞬間食堂の扉が開く。
「朝から重い顔してるわねぇ」
アイリーンだ。
そして、その後ろには──
「……何故俺まで来ているんだ」
レオンがいた。
「私が来なさいって言ったからよ」
「だからといって、朝から人の屋敷に押しかける必要はないだろう!?」
「必要あるわよ。荷物持ちとして」
「俺は騎士団長だぞ!?」
「知ってるわ」
レオンは満更でも無いような、だけど少し不満そうな複雑な顔で眉を寄せている。
だがその両手にはしっかりと大きな籠が抱えられていた。
「……何だそれ」
俺が聞くと、レオンはむすっとした顔のまま答える。
「アイリーンが焼いた菓子だ。 途中で落としたら許さないって言われた」
「言ったわね」
「しかも“傾けたら殺す”とも言われた」
「言ったわね」
「だから、ずっとこの体勢で……!」
「レオンおじちゃん、腕ぷるぷるしてる」
メリアが指差した。
「うるさい!」
顔を赤くして怒鳴る。
だが、籠は絶対に傾けない。
その様子に、トールが少しだけ目を丸くした。
「……レオンおじみゃん」
「な、何だトール」
「それ、重い?」
「重くはない!」
即答だった。
だが。
ぷるぷるしている。
「じゃあなんで、そんな顔してるの?」
「……これは、その……」
「アイリーンさんが怖いから?」
フレイが、ぽつりと言った。
一瞬、静寂。
「ぶっ」
メリアが吹き出した。
「ち、違う!!」
レオンが真っ赤になる。
「俺は別にアイリーンが怖いわけでは……!」
「へぇ?」
アイリーンがにっこりと笑った。
「次から荷物持ち頼むのやめようかしら」
「それはダメだ!!俺の役目だ!!」
食い気味だった。
全員が黙る。
「……」
「……」
「……あ」
レオン自身も気づいたらしい。
耳まで真っ赤になっている。
「……っ、違う! 今のはだな!」
「何が違うの?」
アイリーンが楽しそうに首を傾げる。
完全に遊んでいる顔だ。
「いや、その、お前が困るだろう! 一人では大変だ!」
「優しいのねぇ」
「そういう意味ではない!!」
レオンの声が裏返った。
トールが小さく笑う。
「……ふふ」
その声に、レオンがぴたりと止まる。
「……トール?」
「レオンおじちゃん、顔まっか」
「なっ……!」
「かわいい」
「かわっ……!?」
騎士団長が絶句した。
メリアが机に突っ伏して笑い出す。
「だめ、無理、レオンおじちゃん可愛すぎる……!」
「おじちゃん言うな!!」
「トール、よく見ておきなさい」
アイリーンが涼しい顔で紅茶を飲む。
「これが、“好きな女の前だと急に駄目になる男”よ」
「アイリーン!!!!!」
レオンの悲鳴が響いた。
さっきまで重かった空気が少しだけ和らぐ。
メリアは笑っている。
フレイも呆れたみたいに小さく肩を震わせていた。
そして、トールも。
ほんの少しだけ、安心したみたいに笑っていた。
アイリーンはその笑顔を見て、そっと目を細める。
「……よし」
誰にも聞こえないくらい小さな声だった。
けれど、その瞳は笑っていなかった。
トールの奥にあるものを、見ている。
まだ、何も終わっていない。
でも。
それでも今だけは。
この子が笑えているなら、それで良い。




