第三十八話 「離さない」
喫茶店を出る頃には、空はもう茜色に染まっていた。
王都の街並みに夕暮れの光が落ちて、石畳に長い影が伸びている。
トールは俺とミレイユの間を歩いている。
さっきまでより少しだけ表情は柔らかい。
アイリーンやミレイユの言葉で、ほんの少しだけ安心できたのだろう。さっきまで強張っていた肩からも力が抜けている。
それでも。
俺はトールの手を離せなかった。
細くて、小さな手。
昔はこちらの手を引っ張ってすぐにどこかへ行ってしまうような子だった。迷子になるのは大抵ミレイユの方だったが……。
その手が、今は少しだけ冷たい。
「……父さん?」
不思議そうに見上げてくる。
「ああ、悪い」
「……別に、いい」
そう言って、トールは少しだけ俺の手を握り返した。
きゅ、と。
その小さな力に胸が痛くなる。
まだ、こんなに子供なのに。
「……眠そうね」
アイリーンがちらりとトールを見る。
「……ねむい」
色々ありすぎた。昨夜はほとんど眠れていないし、朝から無理に笑っていた。
限界なのだろう。
「なら俺が抱いて歩いてやろう」
「え」
レオンの唐突な言葉にトールがぴたりと止まる。
「……や」
「何故だ!?」
「レオンおじちゃん、かたい」
「硬い?」
「ごつごつしてる」
レオンが固まる。
アイリーンが吹き出した。
「ふふっ……だってレオン、鎧みたいだもの」
「日々鍛えているだけだ!」
「抱っこなら、父さんの方がいい」
ぽつり、と。
トールは当たり前みたいに言った。
レオンが膝をつく勢いで落ち込む。
「俺は……ルシアンにはなれない……」
「当たり前でしょう」
アイリーンは容赦がない。
そのやり取りにトールが小さく笑った。
「……あははっ」
よかった。
その笑顔を見た瞬間、少しだけ肩の力が抜ける。
まだ、大丈夫かもしれない。
まだ、こうして笑えるなら。
──その時だった。
握っていたトールの手から、急に力が抜けた。
「トール?」
身体がぐらりと傾く。
慌てて支える。
だが、その瞬間。
ゾワッと空気が、冷えた。
背筋を、何か冷たいものが撫でた気がした。
「……っ」
トールが苦しそうに息を呑む。
その足元。
石畳に落ちた影が、じわりと膨らんだ。
黒い。
闇を凝縮したような、黒。
夕暮れの影より、もっと濃く、もっと深い。
生き物みたいに、ゆっくりと石畳を這っていく。
「ルシアン!」
アイリーンの声。
ミレイユがすぐにトールの肩を抱いた。
「トール、大丈夫よ」
「母さん……」
だが、トールは震えていた。
俺の服を掴む手が、痛いほど強くなる。
「やだ」
小さな声。
「やだ、やだ……っ」
怯えている。
壊そうとしているのはこの子じゃない。
この子自身が、一番怯えている。
その瞬間。
影が、トールの足元から伸びた。
細く、鋭く。
まるで爪のように。
近くの壁へ──
ガンッ!!
鈍く大きな音。
石壁が、大きく抉れた。
ばらばらと石片が落ちる。
「……っ!」
レオンが即座に前へ出た。
誰かが来たらまずい。
このままでは、トールが何者なのか知られてしまうかもしれない。
レオンの剣が抜かれる。
だが、その切っ先はトールへ向いてはいなかった。
周囲を警戒し、誰も近づけないように立っている。
それだけで、少しだけ息ができた。
「アイリーン!」
「分かってる!」
紫の魔法陣が広がる。
アイリーンの拘束魔法だ。
幾重にも重なった魔法陣が影を包み込もうとする。
だが。
光に触れた瞬間、影がぐにゃりと形を変えた。
まるで嫌がるように。
そして……怒っているかのように。
「……拒絶してる」
アイリーンが低く呟く。
「やっぱり…… “中”にいるんじゃない」
アメジストの瞳が、険しく細められる。
「魂そのものに混ざってる」
心臓が、重く沈んだ。
“中に何かがいる”ならまだよかった。
切り離せるかもしれない。
救えるかもしれない。
だが、違う。
トールの魂そのものが、魔王なんだ。
闇の魂と、優しいトール。
切り離せない。
黒と白、分けられない。
「トール!」
俺が呼ぶと、トールの肩がびくりと震えた。
黒い瞳が揺れる。
その奥で一瞬だけ。
紅が、滲んだ。
ぞくりとした。
知らない目だった。
だが、逸らせるわけがない。
「俺を見ろ」
トールの前にしゃがみ込む。
「父さん……」
泣きそうな声だった。
「僕、やだ……っ」
「分かってる」
一番怖いのは、この子だ。
自分の中に、自分じゃない何かがいる。
壊したいと笑うものがいる。
そんなの、怖くないわけがない。
「答えろ……」
トールの頬に手を添える。
冷たく震えている。
「お前は、誰だ」
唇が、震える。
「……僕」
「もう一度」
影が揺れる。
黒いものが足元から這い上がろうとする。
ミレイユが癒しの光を強くする。
淡い金色の光が、トールを包む。
「大丈夫よ」
震える声。
「貴方は、トール」
「私の、大事な息子よ」
トールの瞳から、ぽろりと涙が零れる。
「僕は……」
苦しそうに息を吸う。
「僕は、トール」
その瞬間。
ぴたり、と。
影の動きが止まった。
空気が戻る。
石畳に広がっていた黒が、ゆっくりと縮んでいく。
何事もなかったみたいに。
トールの身体から力が抜けた。
「っ、と」
慌てて抱き留める。
トールは俺の服をぎゅっと掴んでいる。
「……父さん」
「ああ」
「……こわかった」
「大丈夫だ」
抱きしめる。
絶対に、離さないように。
「お前は、お前だ」
「俺の息子だ」
何があっても。
どんなものを抱えていても。
それだけは、変わらない。
ミレイユがそっとトールの背中を撫でる。
癒しの光が優しく揺れる。
その手は少しだけ、震えていた。
「……ごめんね」
トールが、小さく呟く。
「僕、また……」
「謝らないで」
ミレイユがすぐに言った。
「貴方は何も悪くないわ」
「でも……」
「悪くない」
優しい声だった。
けれど、その声は少しだけ掠れていた。
母親なのだ。
平気なはずがない。
「……ねぇ、ルシアン」
アイリーンが、低い声で言う。
「なんだ」
「これ、多分」
一度、言葉を切る。
「次は、もっと長くなるわ」
心が重く沈む。
トールは、俺の腕の中にいる。
小さくて、震えていて、泣きそうに。
もう、時間がないのだと。
嫌というほど、分かってしまった。




