第二十九話 「それは、初めての“怒り”だった。」
──昼休み。
中庭のベンチには、いつもの四人がいた。
メリアは生徒会の書類を広げながら「なんで会長がこんな量やるのよ……!」と騒ぎ、僕はその隣で手伝っている。
少し離れた場所では、トールとユリウスが並んで本を読んでいた。
トールの肩には、小さな銀白色の鳥が止まっている。
月羽鳥。
月明かりの下で生まれると言われる、小さな魔鳥だ。
魔力に敏感で、人の“本質”を見抜く。
気性は荒く、警戒心も強い。
少しでも禍々しいものや、恐ろしいものを感じれば、すぐに逃げる。
──なのに。
その子は、初めて会った時からずっとトールのそばにいた。
まだトールとユリウスが仲良くなったばかりの頃。
学院の森で見つけたその鳥は、誰にも懐かないことで有名だった。
先生ですら近寄れなくて、捕まえようとした上級生を盛大につついて泣かせたくらいだ。
なのに、その子は。
「……?」
木の下にしゃがみ込んでいたトールの肩に、自分からひらりと止まった。
あの時のことを僕は今でも覚えている。
「えっ」
「ええっ!?」
「なんでよ!!」
僕とメリアが叫んで、ユリウスだけが静かに「そういうこともあります」と言った。
全然、そういうことじゃなかった。
月羽鳥は人を選ぶ。
しかも、本質を見抜いて。
トールは、優しい。
家族が好きで、ユリウスが好きで、ノクスのことだって、誰より大事にしている。
──でも
時々、ほんの一瞬だけ。
トールの奥に、“何か別のもの”がいる気がする。
ノクスだけは。
その“何か”ごと、最初から受け入れているみたいだった。
「……ノクス」
トールが、小さく呼ぶ。
ノクス──それが、その子の名前だ。
ユリウスが付けた。
『古い言葉で、“夜”です』
そう言って。
トールは嬉しそうにその名前を呼ぶようになった。
「ぴぃ」
ノクスがトールの肩の上で鳴く。
トールは少しだけ笑った。
……その笑顔が、好きだ。
ユリウスといる時も。
ノクスといる時も。
トールは安心した顔をする。
だから。
今日も、いつも通りだと思っていた。
「──ねぇ」
不意に、メリアが顔を上げる。
「トール、今日は静かすぎない?」
「え?」
言われて、そちらを見る。
トールは本を閉じたまま、じっと一点を見ていた。
視線の先。
そこには、学院の裏庭へ続く石畳の道。
そして──
「……あ」
小さく、声が漏れる。
一年の男子生徒だ。
その子がノクスを追い回していた。
「待てって!」
「ぴぃっ!」
ぱたぱたと羽ばたいて逃げる。
でも、相手は面白がっているだけだった。
「変な鳥だな!」
「やめなさい!」
メリアが立ち上がる。
でも。
「……だめ」
その前に、トールが立ち上がった。
僕は息を呑む。
普段、トールは怒らない。
怒る時だって、困ったみたいに眉を下げるだけで。
こんなふうに低い声を出したことなんて、一度もなかった。
「……返して」
静かな声。
男子生徒が振り返る。
いつの間にかノクスは捕まっていた。
小さな身体を乱暴に掴まれて、苦しそうに羽をばたつかせている。
「やだよ。だって、こいつお前のだろ?」
「……」
「お前も、この鳥も、なんか気味悪いし」
その瞬間。
ぞわり、と。
空気が、冷えた。
「……っ」
思わず背筋が震える。
見ればメリアも顔を強張らせていた。
ユリウスだけが、静かに目を細める。
トールが、俯いている。
黒い前髪の奥で、表情が見えない。
「……トール」
呼ぶ。
でも。
返事は、なかった。
代わりに。
「返して」
もう一度。
さっきより、低い声。
びくり、と男子生徒の肩が跳ねる。
「な、なんだよ……!」
その時だった。
ばちんっ!!
男子生徒の手からノクスが逃げ出した。
「うわっ!?」
何かに弾かれたみたいに、その手が大きく後ろへ振られる。
でも。
誰も、動いていない。
僕も、メリアも。
ユリウスも。
そして、トールも。
ノクスは一直線にトールのところへ飛んでいく。
「ぴぃ……」
「……ごめん」
トールがそっと抱きしめる。
震えていた。
ノクスも。
……トールも。
「……トール?」
近づく。
その肩が、小さく震えている。
「……僕の、大事な子なのに」
ぽつり。
「なんで」
ぎゅ、と。
ノクスを抱く腕に力が入る。
「なんで、そんなことするの」
その声は、怒っているというより。
傷ついていた。
泣きそうなくらい。
「トール……」
「だって」
顔を上げる。
黒い瞳。
その奥に。
一瞬だけ。
紅が、揺れた。
「……っ!」
僕の心臓がどくんと鳴る。
でも。
次の瞬間には、消えていた。
いつもの黒い瞳。
トールは何も気づいていないみたいに、ぎゅっとノクスを抱きしめている。
「……お前、なに今の……」
男子生徒が怯えた顔で後ずさる。
「行くわよ」
メリアが冷たく言った。
「二度とトールにも、ノクスにも近づかないで」
「ひっ……」
男子生徒は逃げるように走っていく。
静かになる。
風が吹く。
トールはまだノクスを抱いたままだった。
「……ノクス」
「ぴぃ」
小さく鳴いて、ノクスがトールの頬に頭を擦り寄せる。
トールが、少しだけ目を丸くする。
「……僕、怖くない?」
ぽつり、と。
小さな声。
胸が痛くなる。
でも。
ノクスは迷わなかった。
「ぴぃ!」
まるで怒るみたいに鳴いて、トールの肩によじ登る。
それから、黒い髪に頭をぐりぐり押しつけた。
「……ふふ」
トールが少しだけ笑う。
「……そっか」
その顔は。
少しだけ、泣きそうだった。
……やっぱり。
ノクスだけは。
最初からずっと。
トールを怖がってはいないんだ。




