第二十四話 「その子だけは、怖がらなかった。」
昼休みの終わり。
あのあと、空気はなんとなく重かった。
さっきまでトールの周りにいた人たちも、少し距離を取っている。
誰も、悪気があるわけじゃない。
でも。
無意識に、一歩。
ほんの少しだけ、離れる。
「……」
トールは、何も言わなかった。
黒猫を抱いたまま、静かに窓の外を見ている。
いつもと変わらない顔。
……でも。
僕には、分かる。
少しだけ。
ほんの少しだけ、傷ついてる。
「トール」
「……兄さん」
「放課後、一緒に帰ろう」
「うん」
小さく笑う。
その笑顔に、少しだけ安心した。
──その時だった。
「失礼」
静かな声。
振り向く。
教室の入口に、一人の男子生徒が立っていた。
知らない顔だ。
淡い銀の髪。
胸元の校章は、一年。
でも、見覚えがある。
「あ」
メリアが、小さく声を上げた。
「生徒会補佐の……」
「ユリウス・アインズワースです」
男子生徒は、ぺこりと頭を下げた。
「会長に頼まれて、入学者名簿を届けに来ました」
「……ああ、あなたね」
メリアが頷く。
たしか。
最近、生徒会の雑務を手伝ってくれている一年生だ。
成績優秀。
でも、人付き合いはあまり得意じゃないって聞いた。
「机に置いておいて」
「はい」
ユリウスは、静かに教室に入ってくる。
そのまま。
まっすぐ、トールの前を通った。
……止まらない。
距離も取らない。
何も変わらない。
それだけで、僕は少し驚いた。
メリアも、同じだったらしい。
「……あれ」
「?」
「あなた、怖くないの?」
思わず、メリアが聞いた。
ユリウスは、きょとんとした。
「何がですか?」
「え」
「……?」
本当に、分かっていない顔。
トールも、少しだけ目を丸くしている。
ユリウスは、首を傾げたまま、トールを見た。
「……猫」
「え?」
「その子、可愛いですね」
黒猫に向かって、そっと手を伸ばす。
いつもなら。
この黒猫は、トール以外には近づかない。
メリアが触ろうとした時なんて、三メートルくらい逃げたのに。
でも。
黒猫は、逃げなかった。
「……にゃ」
むしろ。
自分から、ユリウスの指に額を擦り寄せた。
「はぁ!?」
メリアが叫ぶ。
「なんで!?」
「……?」
ユリウスは、本気で不思議そうだった。
「懐っこい子ですね」
「懐っこくない!!」
メリアが机を叩く。
「私、嫌われ続けてるんだけど!?」
「姉さん、うるさい」
「うるさくない!!」
珍しく。
トールが、少しだけ笑った。
その顔を見て。
胸の奥が少しだけ軽くなる。
「……兄さん」
「ん?」
「この人、変」
「えっ」
ユリウスが固まった。
「トール!?」
「だって、怖くないみたい」
まっすぐな声。
ユリウスは、ぱちぱちと瞬きをしたあと。
少しだけ、困ったように笑った。
「……すみません。昔から、そういうの鈍いんです」
「そういうの?」
「人が怖がってるとか、嫌がってるとか。あまり、分からなくて」
さらり、と。
でも。
その言葉に、僕は引っかかった。
違う。
この人は“鈍い”んじゃない。
多分。
トールの中にある何かを。
感じ取れない。
……いや。
もしかしたら。
感じ取っても、怖くならない人なのかもしれない。
「……兄さん?」
「なんでもない」
考えすぎだ。
そう、自分に言い聞かせる。
でも。
トールの顔は、さっきまでより少しだけ明るかった。
「……ユリウス」
「はい?」
「また、来て」
ぽつり。
トールが言った。
教室が、静かになる。
トールから、自分で誰かにそう言うなんて、珍しい。
ユリウスも、少し驚いたみたいだった。
でも。
「はい」
優しく笑う。
「また来ます」
その瞬間。
トールが、ほんの少しだけ。
嬉しそうに笑った。
……ああ。
駄目だ。
そんな顔、されたら。
僕まで、嬉しくなってしまう。
たとえ。
この出会いが、後から何かを変えるものだったとしても。
この時の僕は、まだ。
その意味を、知らなかった。




