第二十話 「嫌われたわけじゃない。」
──トールが学院に来てから、まだ半日も経っていない。
なのに、もう学院中がざわついていた。
「見た? 生徒会長の弟」
「副会長の弟でもあるんでしょ?」
「黒髪って珍しいよね……」
「すごく綺麗な顔してた……」
廊下ですれ違うたびに、ひそひそと声が聞こえる。
トール本人は、たぶん全然気づいていない。
いや、気づいていても、気にしていない。
昔からそうだ。
人にどう思われるかなんて、あまり気にしない。
マイペースで。
眠そうで。
お腹が空くと、ちょっと不機嫌になって。
家族といる時だけ、よく笑う。
そんな、僕の弟。
「……兄さん」
不意に、袖を引かれた。
「なに?」
「……おなかすいた」
「さっき食べたよね?」
「売店のパン、小さかった」
隣で聞いていたメリアが、呆れたようにため息をつく。
「トール、あんたねぇ……」
「だって、朝ごはん少なかった」
「母さんのお弁当が原因でしょ」
「……紫だった」
「だから何で食べたのよ!!」
メリアが頭を抱える。
それを見て、トールがちょっとだけ首をすくめた。
「……兄さん」
「うん?」
「姉さん、今日ずっと怒ってる」
「誰のせいだと思ってるの」
「……母さん?」
「半分正解」
思わず笑ってしまう。
その瞬間だけ、不安とか違和感とか、全部忘れられた。
やっぱり、トールはトールだ。
昔と変わらない。
そう思った。
……思おうとした。
「きゃあっ!?」
突然、悲鳴が響いた。
びくりとして振り向く。
学院の中庭には、小さな魔獣や使い魔が何匹か放し飼いにされている。
その中でも特に人気なのが、“セラフィル”と呼ばれる白い使い魔鳥だ。
ふわふわした白い羽に、金色の小さなくちばし。
人に慣れていて、普段は生徒に撫でられて喜んでいるような、おとなしい鳥。
初等部の頃は、メリアなんて「かわいいー!」と抱きつこうとして逃げられていたし、僕も何度か餌をあげたことがある。
そのセラフィルが。
トールを見た瞬間。
ばさっ──!!
羽を逆立てた。
「……え?」
トールが、立ち止まる。
セラフィルは、明らかに怯えていた。
細い足を震わせて、後ずさる。
それでも目だけは、トールから逸らせないみたいに、じっと見ていた。
まるで。
何か、とんでもないものを見るみたいに。
「どうしたの、あの子……」
「セラフィルが怯えてる……?」
「珍しい」
「いつもおとなしいのに」
周囲がざわつく。
でも、誰も理由なんて分からない。
分かるはずがない。
僕だけだ。
あの日。
空を覆ったナイトレイヴンたち。
黒い羽。
逃げていく影。
そして──
小さな手が空へ伸びた瞬間。
──逃げていた。
あれも。
今も。
「……っ」
息が詰まる。
嫌な汗が、背中を伝った。
その時。
ばさばさばさっ!!
セラフィルが、悲鳴みたいな声を上げて飛び去った。
ものすごい勢いで。
逃げるみたいに。
中庭の向こうへ。
「…………」
トールが、何も言わずに立ち尽くしている。
黒い瞳が、飛んでいったセラフィルを見つめていた。
「……嫌われた?」
ぽつり。
小さな声だった。
その顔が、少しだけ寂しそうで。
胸が痛くなる。
違う。
違うんだ。
嫌われたわけじゃない。
でも。
じゃあ、何だっていうんだ。
「違うわよ!!」
メリアが、勢いよくトールの肩を抱き寄せた。
「あいつがおかしいの! トールは悪くない!」
「……でも」
「でもじゃない!」
メリアは本気で怒っていた。
セラフィルに。
いや、トールをそんな顔にさせたもの全部に。
「見る目ないわね! あんな鳥!」
「メリア、落ち着いて」
「落ち着けるわけないでしょ!?」
そんなメリアに、トールは少しだけ笑った。
「……姉さん、変」
「うるさい!」
「ふふ」
いつものやり取り。
いつもの空気。
なのに。
僕だけが、笑えなかった。
だって、分かってしまったから。
あれは、嫌っていたんじゃない。
怖がっていた。
十一年前のナイトレイヴンたちと同じように。
トールは何も知らずに笑っている。
自分が何を怯えさせたのかも。
どうしてみんなが、自分を見てざわつくのかも。
きっと、何も知らない。
でも。
いつまで、本当に知らないままでいられるんだろう。
「……兄さん?」
不意に、トールが振り向く。
黒い瞳が、まっすぐ僕を見る。
どきり、とした。
何かを見透かされた気がした。
「……どうしたの?」
「……なんでもない」
まただ。
また、笑って誤魔化す。
昔から、ずっと。
六歳の頃から。
僕は、そうやってきた。
でも。
いつか。
きっと。
誤魔化せなくなる日が来る。
そんな気がしていた。




