第十九話 「気づいた時にはもう、みんな知っていた。」
──時間が経つのは、あっという間だ。
気づけば、僕は学院の廊下を全力で走っていた。
「フレイ! 遅刻するわよ!」
前を走るメリア──いや、王立エリュシオン学院生徒会長様が、長い髪を翻して振り返る。
十七歳になった今でも、メリアは昔と何も変わらない。
よく笑って、よく怒って、よく目立つ。
ただ、変わったことがあるとすれば。
その剣も、風魔法も、誰もが認めるくらい強くなったことと──本人が、ものすごく偉くなってしまったことくらいだ。
「ごめん、ちょっと準備が……!」
「また魔法でしょ」
「……うん」
即答すると、メリアが盛大にため息をついた。
「はぁ……ほんと、副会長がそれでいいの?」
「メリアだって会長でしょ……」
「私は余裕あるの。違う?」
ぐうの音も出なかった。
王立エリュシオン学院。
王国中から優秀な人間だけが集められる場所。
その中でも、生徒会は選ばれた人間しか入れない。
僕とメリアは、その生徒会に所属している。
……いや、“所属している”なんて言い方じゃ足りない。
会長と副会長。
気づいた時には、そうなっていた。
最初は、メリアだけが目立っていた。
剣も魔法も飛び抜けていて、誰とでもすぐ仲良くなって、気づけばみんなの中心にいる。
僕は、その隣にいただけだ。
そう思っていた。
でも、気づいたら周りが勝手に「副会長はフレイしかいない」なんて言い出して、逃げる間もなく今に至る。
……納得いってない。
絶対、向いてない。
「ほら、急ぐわよ」
メリアが先に行く。
その背中を追いかけようとして──
ふと、足が止まった。
ざわり、と。
空気が揺れた気がした。
肌に触れる空気が、ほんの少しだけ冷たくなる。
周囲も、同じように何かを感じたのかもしれない。
ざわざわと、人の声が広がった。
「……ねえ、あれ」
「黒……?」
「まさか……」
「うそ、今年の新入生?」
「でも、あの色……」
視線が、一斉にある一点へ集まる。
その先に、いた。
黒い髪。
黒い瞳。
見慣れている。
ずっと、見てきた。
……見慣れているはずなのに。
胸の奥が、ざわついた。
「……トール」
気づけば、名前を呼んでいた。
トールが、ゆっくり振り向く。
少し背が伸びた。
昔みたいに、僕の腕の中にすっぽり収まるような小ささじゃない。
でも、まだあどけなさは残っている。
柔らかそうな黒髪も、眠そうに見える目元も、笑うと少しだけ幼く見えるところも。
ちゃんと、僕の弟だった。
そして。
「兄さん」
トールが、いつも通りの声で笑った。
その一言で。
空気が変わった。
「兄さん……?」
「え、じゃあ……」
「アークライト家の……?」
「副会長の弟!?」
「ってことは、生徒会長とも姉弟!?」
ざわめきが、一気に大きくなる。
トールは、そんなこと気にしていない。
周囲の視線なんて、最初から存在していないみたいに、まっすぐこっちへ歩いてくる。
普通に。
本当に、普通に。
なのに。
なんで、こんなに目が離せないんだろう。
歩き方。
呼吸。
視線。
全部を、無意識に追ってしまう。
あの日を思い出す。
空を覆った魔物の群れ。
黒い羽。
逃げていく影。
そして──
小さな手が、空へ伸びた瞬間。
「フレイ?」
メリアの声で、我に返る。
「……なんでもない」
言えるわけがない。
今さら。
十一年も経った今でも、僕はまだ、あの日のことを覚えている。
トールが、何かをしたこと。
そして、僕がそれを見てしまったこと。
誰にも言えないまま、ずっと抱えてきた。
「トール」
メリアが、一歩前に出た。
周囲の視線を遮るみたいに、トールの前に立つ。
トールは、きょとんと首をかしげた。
それから。
「……おなかすいた」
ぽつりと呟く。
「は?」
「母さん、変なの作った」
……ああ。
その瞬間、頭の中に嫌な予感がよぎった。
「ちょっと待ちなさい」
メリアが、こめかみを押さえる。
「今日のお弁当、何入ってたの」
「……紫の、やつ」
「アウトね!!」
即答だった。
さすがメリア。
「フレイ!」
「うん、アウトだね……」
経験が語っている。
昔から、母さんの料理には何度も命を脅かされてきた。
紫。
それはもう、完全に危険信号だ。
「ちょっとトール、こっち来なさい!」
メリアが、ぐいっとトールの腕を引く。
「売店でなんか買うわよ!」
「……うん」
トールは素直に頷いた。
その様子は、どこまでも普通だった。
少し眠そうで。
少しマイペースで。
お腹が空くと、すぐ不機嫌になる。
昔から変わらない、僕の弟。
……普通、なのに。
違和感が、消えない。
僕は、どうしても目を離せなかった。
歩き方。
呼吸。
気配。
全部、見てしまう。
昔みたいな、不自然さはない。
影も遅れない。
突然消えたりもしない。
空を飛んだり、落ちなかったりもしない。
……少なくとも、人前では。
「……やっぱり」
小さく呟く。
あの時と同じだ。
変わっていない。
いや──
“馴染んでる”。
昔は、違和感だった。
隠しきれていなかった。
でも今は違う。
まるで最初からそうだったみたいに、トールの中に溶け込んでいる。
だから余計に、怖い。
「フレイ?」
「……なんでもないよ」
笑う。
いつも通りに。
昔から得意だった。
本当のことを隠して、笑うのは。
だって。
言ったって、どうにもならない。
誰にも説明できない。
トールは、僕の弟だ。
それは間違いない。
かわいくて。
優しくて。
大好きで。
……でも、それだけじゃない。
(ちゃんと見なきゃ)
心の中で、繰り返す。
六歳の頃から、ずっと。
目を逸らさない。
どんなに、怖くても。
その時。
トールが、ふと振り向いた。
黒い瞳が、まっすぐ僕を見る。
どきり、とした。
── 一瞬だけ。
その瞳に、赤が混じった気がした。
「……っ」
息が詰まる。
瞬きをする。
もう、いつもの黒に戻っていた。
「兄さん?」
不思議そうに、トールが首をかしげる。
「……いま行くよ」
頷く。
大丈夫。
まだ、何も起きていない。
……そうだ。
まだ。
きっと、まだ。




