第十三話「一歳の息子の影が遅れて動いた」
――人は、見たいものしか見ない。
……なんて、誰が言ったんだったか。
「パパー!トールがまた逃げたー!」
朝から元気な声が響く。
ああ、いつも通りだ。
実に、いつも通りの我が家だ。
「逃げた、じゃないでしょメリア。探そうよ」
「だってトールすばしっこいんだもん!」
「一歳児に言う台詞か?」
思わずツッコミを入れながら、立ち上がる。
「トールー?」
軽く名を呼ぶ。
返事はない。
……まあ、これも珍しいことじゃない。
あいつは妙に移動が速い。
いや、“速い”というより――
(……やめよう)
思考を切る。
「フレイ、そっちは?」
「うーん、いない……あ」
フレイが、廊下の奥を指さした。
「パパとママの部屋、開いてる」
全員、同時に顔を見合わせた。
そして――走った。
「トール!!」
扉を開け放つ。
「あいっ!」
ベッドの上で、ぴょんぴょんと跳ねるトールと、
「……何してるの?」
呆然と立ち尽くすミレイユ。
「いや、それはこっちの台詞だ」
室内を見回す。
荒れているわけではない。
危険なものも……ない。
……ただ一つを除いて。
「……それ、どうした?」
トールの手の中。
それは、ミレイユの魔道具――
本来なら、厳重に保管されているはずのものだった。
「え?」
ミレイユが目を瞬く。
「それ、鍵付きの箱に入れてたはず……」
「ままぁー!」
トールが笑う。
楽しそうに。
まるで、“ただのおもちゃ”を手に入れたかのように。
「トール、それ貸してくれるか?」
できるだけ穏やかに声をかける。
きょとん、とこちらを見る。
――次の瞬間。
「……っ」
視界から、“消えた”。
「な――」
違う。
消えたんじゃない。
「パパ後ろぉ!」
メリアの声。
振り向く。
そこに、いる。
トールが、立っていた。
「……いつの間に」
よちよち歩きじゃない……今のは……
“移動”だった。
「トール」
一歩、近づく。
トールは、笑っている。
その手の中で。
魔道具が――
“軋んだ”。
「――離しなさい」
ぴたり、とトールの動きが止まる。
「……」
見つめ合う。
一秒。
二秒。
――三秒目で。
ぽろり、と。
魔道具が床に落ちた。
「うわっ危な――」
メリアが飛び込んで受け止めた。
「トール、大丈夫?」
フレイが駆け寄る。
トールは――
「……」
笑っていなかった。
ぼんやりと。
まるで、何かが抜け落ちたような顔で。
そして。
「……う?」
いつもの声に戻る。
「あー、もう!びっくりした!」
メリアがため息をつく。
「ほんと心臓に悪いって!」
「ねー、トールもびっくりしたよね?」
フレイが優しく頭を撫でる。
「にぃに!」
――笑った。
いつも通りに。
「……はぁ」
ミレイユが肩を落とす。
「鍵、強化しないと……」
「そうだな」
短く、答える。
誰も、何も言わない。
……言えない。
だが。
全員が、分かっている。
今のは。
“ただの出来事”じゃない。
「ルシアン」
ミレイユが、静かに呼ぶ。
「ああ」
言葉は、それだけで十分だった。
その夜。
「……起きてるんだろ」
小さなベッドの横で、呟く。
「……」
返事はない。
だが。
分かる。
「トール」
そっと、頭に手を置く。
温かい。
いつも通りの体温。
「お前は――」
言葉が、詰まる。
(何なんだ)
問いは、飲み込んだ。
「……守るからな」
それだけを、残して。
部屋を出た。
廊下の闇が、やけに深く見えた。
そして。
その奥で。
一瞬だけ。
“赤い光”が、揺れた気がした……




