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2

 馬車の前で待っていた人物。

 先生はその人物の特徴については何も教えてくれなかった。

 だからその姿を目にした時、思わず息を飲み、足を止めてしまった。


 待っていたのはふたりだ。

 小柄で顔がやや赤い、飄々とした男。

 恐らく、彼が先生に私を連れてくるように頼んだのだろう。


 いや、間違いない。先生と話したのはこの人だと、確信できた。


 なぜなら、先生と話したのがもうひとりの人物なら、きっと先生は私にこう言っただろう。


「美しい女性が君を呼んでいるよ」


 などと言葉に装飾を付けたはずだ。


 それほどまでにもうひとりの人物は目に見えて美しい。

 人の容姿に感動するのは久方ぶりだ。


 普段人を見た目で判断するなと子供達に言っているが、目の前の麗人に、出来心が芽生えたのを否定できなかった。 


 目を合わせようにも、恐れ多くて背けてしまう。

 近づこうにも、その美しさをさらに感じる事を恐れてしまう。


 こんな感覚は初めてだ。


 叶うことなら、あの方との仲を深めていきたい。 

 そう願いながら、私の足は無自覚にふたりの元へ向かっていた。


「おお、あなたが先程の紳士が仰っていた方ですね」


「え、ええ⋯⋯」


 ふたりに近づいていくと、小柄な男の方が歩み寄り、軽く頭を下げた。

 するとそれに続いて、あの美しい人もやってきた。


 一歩進むだけで、長く艶やかな髪が何も無い空間に彩りを与え、風を切るようにたなびいた。

 一歩近づくだけで、その瞳は私の意識を吸い込み、脳裏にその姿を深く強く刻み込まれていく。 

 彼女が足を止めると、急に空気の流れが止まり、大地が静まり返った。


 いや、そんなはずは無い。

 今も変わらず、この城の中では人々が活動しているはずだ。

 だが私の耳には、何も聞こえてこない。

 この無音を作り出しているのは、私自身なのだろう。

 私の全身の全てが、目の前の彼女を一心不乱に注視しているのだ。


 私は、目の前の麗人が口を開くのを、今か今かと待ちわびた。

 一言一句、母音すらも聴き逃してはいけないと、神経が集中している。

 すると、彼女の桜色の唇がおもむろに開き、私は固唾を飲んだ。


「はじめましてで申し訳ない。あなたには迷惑をかける」


 想像よりも中性的で、身体の裏側にまで透き通る様なその声は、よく耳を通り、頭の中で反響した。

 

「いえ、無知な私がお役に立てるかどうか」


 挨拶として頭を下げながら、彼女の全身に目を通す。

 女性用の生糸で編まれたであろう鼈甲色の衣と裳は皺なくピンと整えられ、しなやかで細い腰には剣を帯びている。

 この人達の地域では、女性も常に帯刀しているのか、それとも旅の護身用として腰に差しているのか、それは分からない。


「私はアルバ。こっちの男はモルト。よろしくたのむ」


「セシルです。セシル・グリヴァン」


 彼女⋯⋯アルバが差し出してきた手に、服で汗を脱ぐって恐る恐る手を伸ばした。

 手を握った瞬間、彼女の手の触感が伝わる。

 細くしなやかな指だが、普段仕事か何かで酷使しているのか、指や手のひらが硬く、力強さを感じさせる。


 ほとんど身長が変わらないおかげか、ただ前を向くだけで目が合う。

 私は男としては小柄な方だが、彼女は女性としてはやや大きな部類だろう。

 

 目を合わせたまま、何故かお互い手を離せずにいた。

 彼女は何を考えているのか分からないが、私は魅入られて閉まったかのように視線が動かず、手もまるで操られているかのように、動きを封じられている。


「あの、おふたりさん。いつまで見つめ合ってるおつもりですか」


 固く握りしめた私達の手の上に、ひょっこりとモルトという男性の顔が現れた。

 彼は私と彼女に何度も目を向けながら、からかうような目つきと綻んだ口元で言った。


 その声に解かれるように、私達の手は離れた。

 惜しい気もした。もう少し、彼女の手のひらを味わっていたかった気がしなくもない。


 だがいつまでも名残惜しく思っていても仕方がない。それより本題に入るべきだと、大きく深呼吸をした。


「それでなんですけど、薬のことを聞きたいとかなんとか⋯⋯仰られたんですよね?」


 ふたりが顔を見合わせると、モルトという男性の方が口を開いた。


「ええ、ご存知ないでしょうか。飲めば忽ちに風邪など直してしまうような薬草を。この地域にあると有難いのですが」


「はぁ⋯⋯実際どうなのかは置いといて、そんなふうに言われている薬草ならたしか⋯⋯」


「あるのですか?」


 男が食い気味に目を見開いた。

 余程具合の悪い身内でもいるのだろうか。

 たとえば⋯⋯このふたりの⋯⋯。 


 嫌な想像をしてしまいそうになり、頭を振って雑念を捨てた。

 もし仮にそうだとしても、困っているなら助けてあげなければならない。

 でなければ子供達に示しがつかない。


「ええ⋯⋯ですが薬草の取れる森までは遠いですし、薬自体希少な物ですので、今日から探しにいくのは少し⋯⋯」


「なら明日の朝僕達で向かうので、特徴を教えていただけませんか」


「え、えぇっ」


 それほどに切羽詰まっているのだろうか。

 ついつい声が漏れ出てしまう。

 この方々の求める薬草は、たしかに存在してはいる。

 ただ結局のところ、それが本当に効果があるのかは不明だ。

 そもそも自生している数も少ないその薬草の事は、伝聞と極一部の経験談でしか知らないのだ。

 簡素な絵図を見た記憶があるが、それを説明する自信が無く、何故か説明したいと思わない。


 これは、私信でしかないが、今しがた出会った彼女との縁が切れる気がして、それが非常に残念至極でならないのだ。


「あの、明日でよろしければ私が森を案内し、共に探します。どうやらお急ぎのようですし。その方が早く見つかるかと」


 躊躇しつつ、軽くお辞儀をしながら言うと、男の口角が微かに上がった。


「いえ、急ぐ訳ではないんですよ。ただ早く見つけてここでのんびりしたいだけで」


「へっ?」


 また気の抜けた声が漏出してしまう。

 彼女の前で、恥ずかしいところは見せたくないという自尊心が、余計に身体を固くしているのだろう。


「え⋯⋯急病人がいらっしゃるのではないのですか?」


「えっ⋯⋯ああいや、ここには療養目的で来てはいるのですが、薬草はついでみたいなもので、まあ見つからないと困るのですが」


 男が頭を掻き出すと、言葉の最後には顔に陰りが見えた。

 やはり何か事情があるようだが、いまいち内容が掴めない。


「急病人が居るというわけではないのですね?」


「はい。それは間違いなく。ここにいるのは僕とアルバ様だけですから」


 男はそう言いながら、彼女の方へ首を捻った。

 私と男のやり取りをじっと眺めていた彼女は、視線に反応すると顎をクイッと突き出した。

 すると男はため息を吐き、頭を左右に振った。

 そして苦笑いしながらまた私の方を向いた。


「では明日、お願いしてもよろしいですか」


「ええ、微力ながら」


 このふたりは夫婦か何かだと思っていたが、彼が彼女を様付けで呼んだことや、今の風景からしてその可能性は若干低下した。

 ただの恐妻家かもしれないが、だとしても様付けはやりすぎな気がする。

 だとしたら私も少し怖い。

 

 だが夫婦でないなら、私にもお近付きになれる機会はあっても問題は無い。

 女性の口説き方も喜ばせ方も知らない、むしろ最近女性に愛想つかされたばかりだが、ここは喉元から勇気を振り絞るしかない。


「おふたりとも、もしよろしければ、今日は我が家で旅の疲れを癒しませんか。その馬車の馬も我が家で世話できますし。寝床と食事も用意できます」


 私の提案に、ふたりは大きく瞬きをして反応した。

 また男が答えるかと思いきや、彼女の唇が動いた。


「迷惑ではないか? いきなり私とこの者がお邪魔などしては」


 丁重に断ろうとしているものの、拒絶している雰囲気ではない。

 そしてやはり、呼び方からしてふたりは夫婦や情人ではなさそうだ。

 従者と主人という可能性が大いに高い。

 姉弟である可能性はほとんどない。


「お気になさらず、私も話し相手が欲しいのでぜひ。心配せずとも、アルバさんの部屋も用意できますし、我が家の女中も喜ぶはずです。普段同姓と語る機会もないでしょうし」


 なにか言葉を選び間違ったのだろうか。

 彼女はあんぐりと口を開け、呆然としている。

 鼻は呼吸を続け、目は瞬きしているが、その淑やかな四肢や髪はまるで時が止まったかのように静止していた。

 そして男の方は、何やら険しい目つきをしながら口を手で覆い、彼女を見守っている。


「も、申し訳ない」


 か細い声で彼女が呟く。

 その目は地面に向けられ、心地悪さが表情から滲んでいる。


「ど、どうされました? 今のはひとつの提案でさので、もちろんお断りしていただいても」


「違う⋯⋯そうじゃないんだ⋯⋯」


 彼女は言うと、口を噤んだ。

 なにか考え事をしているのか、目を閉じたと思いきや、数秒後には目を開き、顔を上げた。

 たったの数秒で、顔から迷いのようなものが消え、神妙な面持ちから、凛とした風貌が垣間見える。


「気遣いは無用だ。男なのだ。私は」


「⋯⋯本当ですか?」


 一瞬、頭の中が真っ白になり、気がついた時には疑問を投げかけていた。


「ああ⋯⋯こんな身なりだからよく勘違いされるんだが、正真正銘の男だ」


 本人はそう言っているが、顕になっている身体の部位に、男としての特徴といえるものがない。

 髪以外の体毛も無ければ、喉仏も無い。

 なにより声はやや高く、男とも女とも取れる声をしている。


「アルバ様の話していることは誠です。彼はれっきとした男です」


 いつの間にか口元の手を下ろしていた男は、困り顔とも言えるような顔で笑っている。


「なんなら試してもらってもいい」


「いえ⋯⋯大丈夫です⋯⋯ていうか何を?」


 信じられない。これほどの麗人が男であるとは。

 だが、ふたりが私を騙す理由も無いし、なにより偽ったところで、判別させようと思えば容易いことだ。


 心の中で城が崩れ落ちる音がした。

 ほんの少し前に組み立てられた砂の城の壁がまず削れ、中の全てがその土砂によって飲み込まれていった。


 だが形を失ったものもあれば、たしかに残っているものもある。

 彼女⋯⋯アルバに対する興味は微塵も薄れてはいない。

 奇妙なことではあるが、ただひとつの景色が失われただけで、彼を想う心にそれほど変化はないのだ。


「なら尚更我が家へ来ませんか。正直なところ、この城には商人が寝泊まりするための宿屋しかなく、療養に向いた店はありませんし」


 実際、この地に彼らのような余所者が来ること自体ほとんど無い。

 この城に僅かばかり存在する宿は常に部屋が空いているし、泊まるのは国境を越えて来た商人くらいだ。

 だからろくな宿屋は無く、料理も出ない。

 宿自体を生業としている人など存在しない。

 皆宿を営んでいる理由は決まっている。ただ空き部屋があるから。それだけだ。


 目配せをしたふたりは、同時に頷いた。


「ならよいか。あなたの世話になっても」


 彼、アルバの出した答えに、私は自然に破顔した。


 多分これは一目惚れに近い。最初にその姿を拝見した時の感覚とは違う、仲良くなりたい、願わくば友人になりたい。

 恋人が親友に入れ替わっただけなのだ。


「はい。ぜひに。ではこちらに」


 お辞儀をすると、ふたりも頭を下げ、モルトという人は軽く駆け出し、壁際で待機していた馬を撫でて引いた。

 白い布で屋根が覆われた馬車は、恐らく詰めれば10人ほど乗れるだろう。

 こんな馬車、ふたりで乗れるこの人達は、いったいどんな身分なのだろうか。


 アルバの身なりからして、私のような平民とは違うことは間違いない。

 だがそれほど位が高い貴族や役人という訳でもないだろう。

 それなら、もう少し護衛がいるはずだ。


 馬を引くモルトが近づくのを確認し、先行して家に向かう。

 そのすぐ隣を、アルバが並んでいる。

 今彼に聞けば、その身分は明らかになるかもしれないが、緊張して上手く口が開かない。

 後ろからは、馬車の車輪が地面に擦れる音が聞こえる。

 美青年と大きな馬車を引く青年といることで、周囲の人物の注目が集まっている。 


「えっと⋯⋯セシル⋯⋯でいいか?」


 私より先に、彼が口を開いた。

 振り向くと、アルバは興味深そうに顎を上げ、この城の中を見渡していた。


「どうされました?」


「ああいや、君は普段何をしているのかと思ってな」


 返事をすると、アルバは慌てて顔を私に向けた。

 その際、ふわりと髪が舞い、その奥から香木の香りが漂った。


「私は今は、学校の先生を」


「そうか。立派な人だな」


 前を向きながら、アルバは頷いた。


「あの、アルバさんの職業も伺っても?」


 失礼のないように伺うと、アルバは再度こちらに顔を向けたが、こちらに向くまでの一瞬、視線が落ちた気がした。


「私か? 私は一応⋯⋯軍人なんだ。といっても、ただの一兵卒だが」


「軍の方でしたか」


「ん? ああ、意外かな?」


「意外と考えれば意外です」


「まあ、その反応は正常だろうな。ああそうだ、さん付けはやめてほしい。背中がかゆくなる。呼び捨てが落ち着くんだ」


「そ、そうですか⋯⋯わかりました」




 微笑んだアルバに、私は無言で首を振ることで返事をした。

 なるほど、手の豆は武器を持ってできた物だったのだろう。

 しかし、これほどまでに可憐な人が戦場に立っているかもしれないとは、なんとも信じ難い。


 いや、私はひとり、可憐に鉾を振るう武人を知っている。

 あの人が本当に女性だとするならば、このアルバよりも凄まじい事実だ。 


「さあ、こちらです」


 我が家の前に到着し、玄関へ足を踏み入れる。

 モルトに庭の方向を指し示し、戻ってくるのを待った。


「立派な家だな。家族はいるのか」


「ええ、寝たきりの母が」


「⋯⋯世話になって大丈夫だろうか?」


「構いませんよ。人が増えても母は気にもしません。というか気づかないかもしれません」 


 目を丸くして尻込むアルバに、私は微笑みを返した。


「騒がなければ大丈夫です」


「それは大丈夫だ。安心してほしい」


 何気ない会話に、つい笑い声が出た。

 見た目からして、アルバとあのモルトという男は、私と歳が近い。

 歳が近い男とこうして話すのは、いつ以来だろう。


 早足で戻ってきたモルトを確認し、玄関の扉を開ける。


「あらセシル様、おかえりなさ⋯⋯」


 母の所へ薬でも運ぶ最中だったのか、黒い盆に漆塗りの椀を乗せて運ぶユイが足を踏み出したまま、動かなくなった。

 いや、足は動いている。というより震えている。

 産まれたての子牛のように、膝から下を振動させながら、真顔で私達を見つめている。


「せ、セシル様が我が家に女性を⋯⋯」


「あー違う違う。彼は男だよユイ」


 案の定の勘違いに、すかさず訂正を入れる。


「え⋯⋯だ、男性ですか⋯⋯」


 顔をひきつらせたユイは、眼球だけをアルバへ向けた。


「はじめまして。お邪魔します」


 爽やかに微笑みながら言うアルバに、思わず胸が高鳴った。


「は、はじめまして」


 ユイの頬が桜色に染まり始めたと思いきや、ずっと動かなかった足を動かし、歩行を再開した。


「セシル様、私は奥様のところへいきますので。何かあればタオさんに」


「よろしく頼むよ。あ、そうそう、今夜おふたりを止めるから、食事の用意をよろしく頼むよ」


「かしこまりました。おっと」


 椀の中の煎じ薬が零れそうになったのか、慌てて体勢を整えながら、ユイは行ってしまった。


「ではどうぞおふたりとも中へ」


 まず玄関をあがり、ふたりに上がるように促す。

 とりあえずとして、ふたりを囲炉裏のある居間へ案内し、腰を下ろした。


「いやぁ、アルバ様だけならともかく、僕まですみません」


 正座をしながら、モルトは申し訳なさそうに苦笑いして言った。


「お気になさらずに、どうぞ寛いでください」


「ではご遠慮なく」


 そう言うと、モルトは身体を倒し、床の上に大の字になった。


「はぁぁぁ。なんだか開放的です」


 満足そうにだらしがない声と息を吐いた。

 馬車の旅は窮屈だったのだろうか。

 そういえば、馬の餌も用意しなくてはならない。


「すまん⋯⋯こういうヤツなんだ」


 なんだか申し訳なさそうに、アルバはモルトを睨みつけた。

 その視線など存在しないかのように、モルトの顔は蕩けている。


「失礼します」


 寛いでいるふたりを眺めていると、木戸が開かれ、茶を盆に載せたタオが入ってきた。

 タオは目でふたりを確認し、頷くように会釈をすると、木戸の前に盆を置いて去っていった。

 まだほんのりと湯気が立つ、その場に残された茶を、私がふたりの前まで運んだ。


「すみません。彼は少々人見知りですので」


 謝りながら茶を差し出す。

 寝転がっていたモルトも慌てて座り直し、両手で湯呑みを握った。


「気にしないでくれ。お邪魔してるのは私達なのだから」


「案外、アルバ様に驚いたのかも知れませんよ」


 そんな軽口を叩きながら、モルトはおもむろに茶を啜った。

 本人は冗談のつもりで言ったのかもしれないが、その可能性は十分ある。

 後でモルトにも伝えなければならない。


 一時の静寂が流れ、私の瞼が重たくなり、ウトウトとしていた。

 いつの間にかモルトはまた寝転がり、目を閉じて寝息を立てていた。


 私は部屋を出て寝室に向かい、1枚毛布を持って戻ってきた。

 もうすぐ6月といっても、身1つで眠れば、寝冷えしてしまう可能性がある。

 毛布をモルトに掛けてあげると、アルバが本人に変わって礼を言った。


「すまん。こんな奴のためにわざわざ⋯⋯」


 随分言い方に刺があるが、それも愛情故のものだろう。

 顔を顰めてはいるが、モルトを見る目は優しい。


「いえ、薬草を探しに来て、風邪をひいては元も子もありませんから」


 アルバの口から、微かな笑い声が漏れる。

 やはり、彼の姿は秀麗そのものだ。

 ひとつひとつの仕草や表情が絵になり、全てを絵画や詩として残しておきたい。

 だが、私には絵と文の才能なんてないので、そんなことはできない。


「ん? どうしたんだ」


 つい彼を凝視してしまい、不審に思われてしまった。


「いえ、ぼーっとしてただけです。すみません」


「そうか⋯⋯」


 このまま、ここで彼と色々語り合いたい。

 語り合わなくても、同じこの空間で過ごしたい。

 だが、どうしても外へ出なければならない理由が、彼らに協力すると決めたことによって、発生してしまった。


 立ち上がって首を回すと、ポキッと鳴った。


「すみませんアルバ、用事を済ませてきますので、自由に寛いでいてください」


「あ、ああ。わかった」


「何かあればユイかタオにお申し付けください」


 一礼して部屋を出ると、盆を持って母のところから戻ってくるユイに遭遇した。

 ユイが運んでいた煎じ薬の中身が、少し残っている。母は随分と飲めたようだ。


「私は少し出るから、ふたりの世話も頼むよ」


「はい。お気をつけて」


 外に出ると、風が少し吹いていた。

 風は袖から侵入し、背中を冷やした。

 だが寒くはない。むしろ心地よい冷たさだ。

 知らないうちに身体が火照っていたのだろうか。

 顔に手を当てると、ほんのりと熱を帯びていた。


「おかしい⋯⋯あの人は男ですよ⋯⋯」


 自分に言い聞かせるように言いながら、私は学校へ向かって歩き出した。

 用事というのは、先生に明日休むと伝えることである。

 森へ薬草を探しに行くとなると、一日仕事となる。

 子供達には申し訳ないが、むしろ困っている人を助けるという、模範を示す事になるので良しとしよう。

 決して、私欲で動くわけではない。そう思いたい。


 学校に到着したものの、先生がここにいるとは限らない。

 あちこちから雨漏りし、老朽化し朽ちかけた壁から風が吹き込むこの校舎に、果たしていつまでも居るだろうか。


 立て付けが悪い引き戸を力任せに開け、先生を呼ぶ。


「あのー、先生いますか⋯⋯」


 学校は、玄関を入れば、廊下が正面と左側に伸び、左側は中庭を通って厠へ繋がり、正面には、既に見えているが、あの薄暗い教室がある。


 その教室の前の席に、大人の背中が見えた。

 先生と別れてから時間が経っていたが、どうやらまだここに居たようだ。

 まあ、鍵が掛けられてなかった時点で、ここに居ることは想定していた。


「おや、戻ってきたんだね」


 振り返った先生はそう言って手招きをした。

 私は先生の隣に行き、腰を下ろした。


「ずっとここに居らしたのですか」


「ああ、色々考え事をしててね。で、尋ね人はどうなった?」


「明日彼らと森へ薬草を探しに行くとこになりました。なので明日は休ませていただきたいとお願いに」


 先生は目尻に皺を作りながら微笑むと、ゆっくりと何度か頷いた。


「ええ。わかりました。では明日は久しぶりに私が教卓に立ちましょう」


 既にやる気なのか、顎を撫でながら私を見て更に口角を上げた。


「ふふっ。私が授業を受けたいくらいです」


「懐かしい⋯⋯君達に教えていたあの頃が⋯⋯」


 そう言うと、先生の口元が引き締まった。


「色々ありましたけど、私は今君や、教え子達がどこかで元気に過ごしているなら、それで満足だよ」


「先生⋯⋯」


 先生はレナンのことを覚えていた。

 なぜ私は少しでも、先生を疑うような事を考えたのだろう。

 先生が私達のことを忘れるはずがないのに。


「では先生、今日は失礼します」


「ああ、気をつけて帰るんだよ」


「⋯⋯ふふ。先生、私はもう大人ですよ」


 先生は笑顔で黙っていた。

 学校を出ても、その静かな笑顔が頭にこびりついて離れない。

 

 私はふと右手を顔の前まで上げ、手を握った。

 あれは昔、あの教室に通っていた頃の私達に向けられていた笑顔そっくりだった。


「先生さようなら」


「ああ、気をつけて帰るんだよ」


 毎日同じ笑顔と挨拶を交わし、その後はいつもレナンに手を引かれて帰った。

 帰るというより、遊びに行くという方が正しかっただろうか。

 レナンと、今どこで何をしているのか分からない、もうひとりの学友と共に、毎日のように城の中を遊び回ったものだ。  

 彼は今どこで何をしているのか。

 気がついた時には、彼は私の元から離れていた。

 不真面目だが要領のよかった彼のことだ。

 きっと今もどこかで自分らしく暮らしていることだろう。


 想い出に浸っていると昨日と同じ笛の演奏がどこからが聞こえてきた。

 不思議なことに、音は四方から私を包むように聞こえてくる。

 そんなことは無いはずだが、本当にそのように聞こえてきた。

 耳を凝らして探ってみても、音の出処を掴むことが出来ない。


 このような音の聞こえ方は、笛吹の技能なのだろうか。

 それさえ知らない無知な私にとって、この耳を支配する音色は、心地よくも不気味なものに感じられた。


 落ち着いて待ち行く人々を観察すると、時々足を止めて東の方向へ顔を向けている人達がいた。

 きっと、演奏は東で行われているのだろう。

 他の方向へ意識を向けている人はいない。

 あとはただ歩く人達がいるだけだ。

 ではなぜ、私には発生源が分からなかったのか。

 皆にはなぜ演奏者の居場所が分かるのか。


 私の凡庸な頭では、城主の屋敷へ着くまで、その答えを見つけることが出来なかった。


「どうも」


 屋敷の衛兵が私に挨拶をした。

 

 本当なら、家へ帰るはずだったのに、どうしてここに来てしまったのだろうか。

 私は立ち尽くしながら、瀟洒な屋敷の屋根を眺めていた。

 屋根に何かある訳では無い。

 ただ何となく、思考を止めないようにしようと、一点を見ていただけだ。


 そんな私を不審に思ってか、衛兵はじっと私のことを伺っている。

 その目から逃げるように、私は城主の屋敷へ入っていった。


 入ったからには、あの地下室に行くべきだろう。

 今すぐ帰っても、余計疑惑を生むだけだ。


 突然私が来たところで、驚いたり呼び止めたりする人は、今この屋敷にはいない。

 平然と庭や廊下で仕事をこなしている人達の間を抜け、蔵の梯子を下って地下に入る。


 地下はやはり、地上よりも冷たい。

 ここは夏でも涼しい。ある意味、私だけの避暑地である。

 人が集う避暑地にはできなくても、ここに古文書を解読できる学者が集まれば、随分楽に解読出来るのだが、残念ながらこの城にそんな学者は存在しない。


 書庫に入り、蝋燭に火を灯す。

 攻城兵器を見つけてから、また有益な情報を見つけられずにいる。

 やはり、この文書が(したた)められたのが、随分と古い時代だからだろう。

 今の時代にも通じる事が書かれていることはあるが、所詮それだけだ。

 発展に繋がるような記述は見つからない。

 この部屋の書物の1割もまだ読み終えていない。

 正直途方もない作業だが、秘密裏に行われている国家事業とも言える仕事なので、途中で辞めることは許されない。


 それに今の私には、この作業が心地よかった。

 昨日の事、今日のこと、昔のこと。

 ここにある書物は、それらのことを一時的にでも忘れさせてくれた。


 だが何故か、全てを払拭して集中しようにも、アルバの姿だけは、常に頭や視界のどこかに現れていた。


  

 


 


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