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家主であるセシルは出かけ、付き人であるモルトが隣でいびきをたてて眠っていることによって、アルバは酷く退屈していた。
部屋を見渡しても、荷物も少なく簡素な内装のここでは、板張りの床の模様を目でなぞるくらいしか、退屈しのぎの方法は見つからなかった。
アルバは壁にもたれかかって腕を組みながら、この家の主であるセシルについて考えた。
なぜ彼は、いきなり呼び出し、頼み事をした自分達にここまで厚意を持って接してくれるのか。
今までも、自分に優しい人間は数えられないほどいた。
だがそれらの殆どは、アルバを女性と勘違いしての下心を含んだ親切だ。
セシルにはすでに、自分が男だと言うことは伝えている。
(そういえば⋯⋯これも初めてだな)
生まれてから今の今まで、人に自分を男だと告げたことはなかった。
そんな場面が来るとも思っていなかったし、なにより、どこで話していても、王の耳に入る可能性を拭いきれなかった。
辺境の地とはいえ、この城も王の支配下である。
もしセシルが誰かに自分の事を語り、それが風聞となって都まで届けば、王を惑わした狐としてこの首と胴は離れ離れになることだろう。
残虐で猜疑心が強い王を説得するような巧みな弁舌など、当然持ち合わせていない。
初めての経験は迂闊だったと反省しながらも、後悔の念は抱かなかった。
セシルの人となりが自分の心を動かしたのか。
自らそれを考えても、答えなんて出ない。
深い心中が解答することを拒絶していることが感覚的にわかった。
「すみません。今よろしいでしょうか」
木戸の向こう側から、女の声が聞こえた。
「あ、ああ。どうぞお入りを」
その声の主が、この家の女中であることを思い出し、変人した。
エマは両手で慎重に木戸を開くと、アルバの方を向いて一礼した。
つられてアルバも頭を下げると、エマの足元に榧の木で作られた碁盤と、碁盤の上に木目と漆の艶が美しい、桑で作られた碁笥が置いてあった。
「退屈だと思いましてこちらを」
エマは説明しながら、腰を曲げて碁盤に手をかけようとした。
アルバは慌てて立ち上がると、大股でエマの前まで進み、碁盤を軽々と持ち上げた。
「あ、あの⋯⋯」
突然アルバが接近したことに驚き、エマは頬を紅潮させながらアルバを見上げた。
心臓が締まるような、久しく華やぐ事のなかった心が、突然蕾から花開いた。
「ありがとう。これは私が運ぼう」
碁盤を部屋の中央部に置くと、エマは一礼して去った。
せっかく囲碁ができるようになったが、唯一この部屋にいる人間が寝ている以上、どうしようも無い。
ひとりで練習するほど、囲碁への意気込みもない。
足でモルトを起こしてやろうとも思ったが、それをするには、モルトの寝顔はあまりにも幸福感が溢れすぎていた。
「はあ⋯⋯」
やむことのない溜息を吐きながら、モルトのそばに腰を下ろす。
「よく人の家でこんなにも眠れるなほんと⋯⋯」
聞いているだけで心地が良くなる寝息をたてる従者の頬を突くと、ぴくぴくと口元を痙攣させた。
さらに、口元から涎が零れ落ちそうになり、アルバは慌ててモルトの首元を引っ張って着物で拭った。
「恐ろしい奴だ全く」
このまま寝かせていては部屋を汚してしまうと確信し、モルトの頬を何度も叩いた。
「んっ⋯⋯どうしましたアルバ様⋯⋯敵襲ですか」
「何寝ぼけてるんだ全く。ここをどこだと思っている⋯⋯」
夢現でぼんやりとした目つきのモルトにあきれながら、部屋を見ろと顎で示す。
「あ、そうでした。確かセシルさんって人の家にお邪魔していたんでしたね」
状況を把握し、目をこすって大きく背中を反らすと、モルトは上体を起こして胡坐をかいた。
「そうだ⋯⋯それなのにお前は図々しく眠りこけていたんだ」
「あはは、しょうがないじゃないですか。なんかこの部屋安心できるんですよ。実家よりも」
「親が泣くぞ⋯⋯」
「はは、いいんですいいんです。両親からはアルバ様の場所を自分の家だと心得よと言われていたので」
「なら今は私が非難されているのか、我が家は落ち着けないと」
アルバが眼光鋭くモルトを睨みつけると、従者はバツが悪そうに眼を逸らして苦笑いした。
「そこはまあ、否定しかねます。なにしろ都はどこに敵が潜んでいるのかわからないので」
「そういう意味ならいいんだ。そういう意味なら⋯⋯」
「あ、意外に気にするんですね。そういうところ」
温和な顔に戻りかけていたアルバだが、その一言でまた険しい顔つきになった。
だがまともに相手していても疲れるだけだとわかっているので、それ以上口を開こうとしない。
そんなアルバの内心を察しているモルトは、主人の怒り名で気にも留めず、首筋を掻いた。すると、着物が若干湿っていることに気づいた。
「あれ、なんでちょっと濡れてるんだろ」
モルトは天井を見上げた。だが雨漏りなんてしていないし、外も今は晴れている。
「それお前の涎だ。落ちそうだったから拭いてやった」
「ああ、なるほど。ありがとうございます」
礼を言うと、モルトは手のひらで冷たい床を撫で、万が一こぼれていないか確かめた。
「お前、私以外にはちゃんと気配りできるんだよな。まあ普通は寝たりしないが」
「えっ、ああ、それは当然人として。でもアルバ様にもちゃんと接してますけどね」
「どこがだ⋯⋯私が王ならお前はとっくの昔に烏の餌だぞ」
「あの方と自分を比べないでくださいよ。あの方は特別器の小さい異常者なんですから」
王の臣下としては、今の発言をとがめる必要があったのかもしれない。
しかしアルバ自身。王に対してそこまでの義理もなく、何より事実を封殺する気になれない。
「別にあの方をどう思ってようがお前の自由だが、私の前以外では言うなよ」
「わかってますよ。そもそも僕は偉い人に謁見できる立場ではないので、アルバ様以外の家臣の耳には届きませんから」
「そういう問題か? まあいい」
人の家で暗い話ばかりしていても気が滅入るだけなので、強引に話を切り上げ、立ち上がる。
先ほどエマが持ってきた碁盤を持ち上げ、何も言わずにモルトの前に置いた。
モルトは少し碁盤を眺め、顔を上げた。アルバは静かにモルトを見下ろしながら、向かい合うように座った。
「退屈しのぎだ。せっかくの厚意に甘えてやるぞ」
「あ、強制ですか。わかりました」
モルトは碁笥をひとつ寄せ、蓋を開いて白い碁石を手に取った。
「手加減しませんからね」
「そういうのは一度でいいから私に勝ってから言うんだな」
――――
「あー! また負けたあ」
十度目の敗北を喫し、モルトは両手で頭を抱える。
勝利の盤面を見つめながら、アルバはふっと微笑した。
「進歩がないんだよ進歩が。お前はもう少し盤面全体に目を向けろ」
「そんなこと言われましても⋯⋯苦手なんですよねそういうの。つい一点に集中しちゃうというかなんというか」
「そんなこと言ってたらいつまでも進歩しないぞ」
アルバが自分の黒い碁石を片付けながら言うと、モルトは頬を膨らませた。
「別にいいんですよ。短所を直すよりも長所を伸ばせって偉い人が言ってたので」
「後で彼が帰ってきたら教えてもらえ、その言葉は短所を放置していいという意味ではないと」
「そういえばセシルさん、学校の先生だとおっしゃってましたね」
モルトも同じく碁石を片付けていく。気が付くと、部屋の外からいい匂いが漂っている。
モルトは軽く腹を鳴らしながら、匂いの方向へ目を向けた。
「しかしいいんでしょうか、食事まで世話してもらって」
片付け終えたアルバは、ゆっくりと音を鳴らさないように碁笥の蓋を閉じた。
米を炊く匂いと、魚の焼ける匂いがふたりの尾行をくすぐる。
そういえば腹が減ったなと、アルバは腹部を撫でた。
「まあ、できる限りの礼はしよう。帰った後に我が家の金貨でも届けにこようか」
アルバがつぶやくと、モルトはにやにやとしながら、主人の課を眺めていた。
「なんだ⋯⋯」
ろくなことを考えてないと理解しつつも、念のため従者の腹立たしい表情の理由を尋ねる。
「いえ別に⋯⋯ただアルバ様が直接支払えばいいのにと。体で」
人を小ばかにするような従者の軽口と笑い声によって、アルバの脳内で何かがはじけ飛んだ。
アルバはおもむろに立ち上がると、首を前に傾け、顔を長い髪で覆った。
「モルト⋯⋯」
「な、なんでしょう」
アルバの異様な雰囲気と声色に、たじろぎながら後退する。
アルバは碁盤を避けてモルトに向かって足を踏み出した。モルトがさらに足と手を使って下がると、壁にぶつかった。
アルバの両手がモルトの首へ向けて伸びる。
神の隙間から見える憤怒の眼光に、モルトは背中を縮こまらせた。
「ま、待ってください⋯⋯所、冗談ですよアルバ様。だからその手引っ込めてください⋯⋯」
引き笑いするモルトの首にアルバの手が触れる。切実な願いは届かなかった。
「冗談でも言っていいことと悪いことがあるんだ。よかったな、死ぬ前にひとつ賢くなれて。生まれ変わっても忘れずにいるんだぞ」
「輪廻転生確定させないでくださいよ⋯⋯僕はそういうの信じてないんです」
「そうか⋯⋯でも死ね」
「慈悲は無しですか!?」
アルバの両手をつかんで引きはがそうとするが、如何せんアルバの力が強い。
喉元にアルバの指が食い込む。力の入れ加減からみて、本気で怒っているわけではないとわかっていても、いかんせん顔と雰囲気が怖い。
アルバが腰を下ろし背を丸め、壁にもたれるモルトにゆっくりと体重をかけ始めると、足音が迫り、部屋の戸が開かれた。
「すみません留守にして⋯⋯って、何してるんですか!?」
地下室から戻ってくるなり、客人ふたりがもみ合っている光景を見て、セシルはその場で硬直した。
「ん? なにって仕置きだよ。この愚かな従者が考えられない失言をしたのでな」
アルバは髪を片手でかき上げると、目を丸くして戸惑うアルバに説明した。
首を絞める手が片手になった瞬間に、モルトは慌てて手を引きはがしたが、いまだ目の前にはアルバがいた。
すがるような目つきでこの家の家主に助けを求めるが、セシルは顎に手を当てると、アルバの説明に納得してうんうんと頷いた。
「な、なるほど⋯⋯ほどほどに。後で夕食を届けますから」
そう言って、セシルは戸を閉めて立ち去っていった。
いったい何があったというのだろう。客人をいつまでも待たせてはいけないと急いで帰ってくると、アルバが従者にのしかかり、首を絞めていた。
一瞬痴情のもつれではないかと考えそうになったが、アルバは男だった。
今も木戸の向こうでは取っ組み合いをしているのだろうか。アルバの顔はよく見えなかったが、従者の彼の顔は若干綻んでいたし、大事には至らないと思うが、やはり気になってしまう。
ゆっくりと音をたてないように木戸をほんの少しだけ開き、隙間から中を覗くと、状況が悪化していた。
「あ、アルバ!?」
いつの間にか完全にアルバが馬乗りになっている。
ただ首を絞めるのはやめたのか、モルトの両頬を掴んで引っ張っている。
従者の頬っぺたは捏ねてからしばらく寝かせた小麦の生地のように伸びていることから、かなりの力が加えられていることがわかる。
「あ、あゆばひゃま⋯⋯ゆるひて⋯⋯」
「あー? 誰だそれは。私はそんな名前じゃないからわからないなあ」
垂れ下がった髪の毛の向こう側に、皮肉めいた笑い顔を浮かべるアルバの姿が見える。
まるで子供同士が兄弟げんかをしていて、兄のほうが弟を痛めつけるのに愉悦を感じているような、そんな微笑ましい光景だ。
子供たちのじゃれあいを見ているようで楽しいが、モルトは半分笑顔になりながらも、双眸に涙が溜まり始めているし、大体こういうのは時間がたつとじゃれあいから本気の喧嘩に発展してしまうので、仲裁することにした。
「さ、アルバ。そろそろおひらきにしましょう」
彼らに近づき、従者に馬乗りになっている男の肩をポンっと叩く。叩かれた彼は振り向きながら手で髪の毛をかき分けた。
やはり起こっている時でもその容姿は美しく、目を奪われてしまう。
「セシル⋯⋯待ってくれ、もう少し、こいつが2、3日は口がきけないようにするから」
話している内容は恐ろしいが、口ぶりは完全に駄々をこねる子供そのものだ。
もっと冷静な人だと思っていたが、案外子供っぽいところがあるのだろうか。
いつか私にもそんな内面を向けてほしいと切に思う。
「そんなこと言わないでください。さ、離れて離れて」
彼の両脇に手を入れ、体を持ち上げて移動させると、見た目より重く感じた。
やはり軍人というだけあって鍛えられているのだろうか。
「さ、大丈夫ですか」
アルバを従者からおろし、今度は寝転がっている彼に手を伸ばす。
彼の頬はかなり赤くなっていて、先ほど溜まっていた涙が滴っている。
「あ、ありがとうございます」
モルトは私の手を取ると、グッと手尾引きながら起き上がっって両手でほほを撫で始めた。
「ありがとうございます。ほんとに⋯⋯アルバ様は怒りっぽくて、セシルさんが来てくれなきゃ頬っぺた引きちぎられてましたよ」
「お前が悪いんだろ⋯⋯」
ふくれっ面でムッとしながら不満を漏らすモルトと、呆れたようにため息をつくアルバ。
「あの⋯⋯彼はいったい何をしたんですか」
アルバに尋ねると、何故かモルトが不機嫌になった。
「なんでアルバ様が被害者前提なんですか」
「いやだって、あれはどう見てもモルトさんが余計なことをしたか言ったかの構図でしたし」
それに何より、この従者が人を怒らせるところは容易に想像できるが、アルバが怒りを買う姿は想像ができない。
やはり私の思った通りだったのか、モルトは苦笑いしながら目を逸らした。
まったく、仲がよさそうで非常にうらやましい。ただ友達がいない身として。それ以上の意味はない。
「で、アルバ。なんとなくでいいので教えてくれませんか」
乱れた髪を整える所作は、女性らしいといえば女性らしい。近くにいるとなんだか気がおかしくなりそうな、そんな芳香をアルバは放っている。
「君が気にすることじゃない。あまり人に聞かせていい内容ではないのでな」
「⋯⋯はあ、なるほど」
俯いて頬を桜色に染める姿を見れば、なんとなく何を言ったのか推測できる。
振り返って、また慌てて目を逸らしながら、何かをごまかすようにわざとらしく口笛を吹き始める従者を見れば、もう確信できてしまう。
きっとアルバは昔から、この女性としか思えない要望や雰囲気をからかわれているのだろう。
「さ、もうじき食事ですから、おふたりともとりあえず仲直りしててくださいね」
「子供か私達は⋯⋯」
アルバがぽつんとつぶやく。申し訳ないが、状況から察するにふたりとも大きな子供だ。
なんだか陽子からは想像できない内面がおかしく、吹き出しそうになって口元を袖で覆った。
「では私は食事の様子を見てきますので、しばらくお待ちを。ふふふ」
急いで立ち上がると同時に、こらえきれず笑い声をこぼしてしまい、足早に部屋から立ち去って、台所のほうへ向かった。
台所では、ユイが釜の様子を眺め、タオが青菜をちぎっては鍋に投入して炒めている。
「どうされました?」
私に気づいたユイが振り返る。なぜか口をあけながら何度も瞬きをしながら小首をかしげた。
「ただ様子を見に来ただけだけど、お邪魔だったかな」
「いえ、ただずいぶんとご機嫌そうなので⋯⋯どうしたのかなと。さっきものおとがしてましたけど関係してますか」
「そんな風に見える? ちなみにそれは関係してないよ」
「はい、とっても。ねえタオ」
ユイが賛同を求めると、タオは私を見ながら静かにうなずいた。
ここに来るまでに笑いは治まっていたと思っていたのだが、まだ残り香があったのか。初めての客人ということもあって、ずっと高揚しているのかもしれない。
「まあいいです⋯⋯出来上がったら先にふたりへ出してあげてください」
「あ、待ってください」
それだけ伝えて立ち去ろうとすると、ユイに呼び止められる。
ユイは釜之前から離れると、木の台においてあった盆を手に取った。盆の上には陶器の深い丸皿と木のスプーンが乗っていて、若干不気味なうぐいす色の液体が見える。
「これを奥様に届けていただけませんか。なんだかセシル様に会いたそうにしていらっしゃったので」
「あ、ああ⋯⋯わかったよ」
ユイから盆を受け取る。ほんのりとした熱気が器の中の煎じ薬から伝わる。
正直なところ、今母と会うのは決まずい。
勝手に客人を招いたことについて何を言われるか分かったものではない。
まあもっとも、小言を言う元気があるならそれに越したことはないのだが。
盆を持って廊下を進む。ふたりのいる部屋の前を通るが、ずいぶんと静かになっている。
廊下を進み、薄暗い部屋の前に立つ。戸を叩いてもどうせ母の応答は聞こえないので、そのまま扉をひらく。
やはり母は仰向けに静かに寝ていた。深い呼吸をしながら、瘦せた体が伸縮している。
完全に眠っているのか、枕元に立っても目を開ける様子がない。
薬だけベッドのそばの台に置いて母の顔のよく除く。
元々は血色がいい人だったのに、今は常に青白い肌をしてる。
まるで体そのものが黄泉の国へ旅立つ準備をしているかのように、自ら体全体を市に装束で整え始めているようだ。
「母さん⋯⋯」
起こさないようにそっと指を頬に触れさせる。
「冷たい」
まだ死者の体温までは到達していないが、それでもその冷気は母がもうじきそちらへ行ってしまうものだと、私に考えさせるには十分すぎるものだ。
もう二度と、母のぬくもりなんてものは味わえないのだろう。
大人のくせに何を言っているんだと思われそうだが、二度と感じることができないとわかってしまうからこそ、急に惜しく、愛おしくなってしまう。
死期が近いせいか、起きていても母の言うことといえば、やれ一族の再興だなんだと、億劫な話ばかりだ。
私はそんなことに興味ないし、この国から離れてかつての王国を再興したいなんて考えたこともない。
そもそも再興するとして、200年以上前に滅びた国の復活を望む人間なんてどこにいるというのか。
自分たちこそ絶対だと考える王や官僚たちがいるこの国が存在するのに、再興したところで維持できると思っているのか。
いや、そんなこと母だってわかってるはずだ。
ただ国が滅びてから何代にもわたって繰り返されてきた大望が、今では呪いの言葉として母や先祖たちを苦しめているだけだ。
幸い私は一人息子で、その王家の血を継ぐ親族なんてどこにいるかも知らない。
誰か私以外の血筋の人間がくだらない梅物語をかなえようとする可能性はあるが、少なくとも私なら、母や祖父母からつながる呪いを断ち切ることができる。
大それたことは必要ない。ただ下の世代に同じことを言わなければいいだけだ。
「いつか国を再興させる」
たったこれだけの言葉を封印してしまえば、それですべては断ち切れる。
不孝の息子になってしまうが、それは致し方ない。
「では母さん。また来ます」
眠り続ける母の髪をなで、部屋から退出する。
ただ様子を見に来ただけなのに、感情が暗い海底に沈むように、涙が零れ落ちる。
昔はそうでもなかった。
昔から時々、「あなたには王家の血が」とか「いつか立派な人になって国を」などと語っていたが、それはあくまでも私が立派な人間になるための教訓のようなもので、臥せるようになってから、まるで脅迫するように言うようになった言葉とは、まるで中身が違っていた。
時間がないから焦っているのだろうか。本当ならば幼いころに病死した私の父と何人も子をなし、皆に同じことを伝えるつもりだったのだろう。
だが子が私一人で、その私は全く自分の言うことを理解しようとしないので、今になって焦っているのだろう。
⋯⋯もし私が、必ずや国を再興し先祖代々の宿願を果たすとでも言えば、母は安心して旅立ってしまうのだろうか。
このまま未来を憂いて死んでいくのと、偽りでも安心して死んでいくのなら、いったいどっちが母にとっては幸せなのだろうか。
歴史書は読めても、一番身近な人の心を読むことができない自分が情けない。
いや、これは心が読めないせいじゃない。
私が母や先祖を恨んでいるせいだ。
くだらない妄言を後世に残し続ける愚かで哀れな彼女たちのことを。
廊下を歩きながら、しばらく母には合わなくていいと、悠長なことを考えていた。
客間になっている部屋の様子を見にいくと、アルバとモルトは仲良く行儀よく食事をとっていた。
「おお、すまないが先にいただいているぞ」
茶碗と箸を持ったままアルバが言う。
「いえ、客人ですので、私のことなどお気になさらずくつろいでいてください」
「ほんとうに⋯⋯何から何まで世話になる」
「私たちからしても客人なんて新鮮で楽しいものですから。お気になさらずに」
それだけ言って木戸を閉める。タオとユイはきっといつもの部屋で食事をとっているか、それともユイは先に母の様子を見に行くかもしれない。
そう思って部屋に行こうと振り向くと、すぐそばに膳をふたつ持ったタオが立っていた。
タオはなぜか私の前で立ち止まり、じっと三白眼で見つめている。
タオが三白眼になるときは、なにか私に伝えたい時だ。
「どうしました?」
「ご主人やユイは楽しんでいる様子ですが、自分としては少々面倒です」
「あ、うん⋯⋯申し訳ない」
タオが不満を漏らすなんて珍しい。そもそも彼の声を聴く機会すら少ないのに。
「まあいいんですよ。はぁ」
「あ、まさかタオ⋯⋯」
意味深な溜息の意味を察し、呼びかけた時には私の隣をすり抜けてしまっていた。
おそらくだが、タオはアルバ達の面倒を見ることが面倒なわけではない。
アルバが男という事実に気を落としているだけだ。
「まあ、きもちはわかりますけどねぇ」
私も最初は驚いたし、少しがっかりした。
しかし彼は男であっても女であっても、面白い人物には変わりないし、そばにいるだけで安心できるような、そんな気風を兼ね備えている。
むしろ女だったらもっと距離を置くことになっていたと考えれば、男でよかったと思える。従者の彼にも嫉妬しないで済むし。
食物を欲して反応するお仲を撫でながら、タオの後を追って食事をとった。
アルバ達の後に風呂も済ませ、あとは寝るだけとなってから、彼らのもとを訪ねた。
私の寝巻に着替えていたアルバは妙に色っぽく、湿り気の残る髪が余計艶やかに、官能的に見えた。
「どうかしたか?」
私が黙って彼を見つめているせいか、首をかしげながら尋ねられる。
隣のモルトが布団の上でにやにやとしているが、きっと誰がアルバを見ても同じ反応をするのだろう。
「あ、いえ⋯⋯明日は朝から薬草を探すということでいいんですよね」
「ああ、それでお願いしたい」
「わかりました。ではおやすみなさい」
この空間にいるとなんだかおかしくなりそうなので、用を済ませて速やかに退散する。
私ももう眠るだけなのに、心臓を激しく鳴り響かせてしまってはすぐに寝つけるかどうか不安になる。
気がつくと私は城壁の上に立っていた。
どんよりとした曇り空になじみのない光景。
なじみがないとは言っても外に広がる景色と内に広がる景色には少々覚えがあった。
そう、首都の風景に似ている。ほんの少しだけ働きに出ていた首都に。
城壁から下を見下ろすと、ちょうどどこかへ戦へ行くのか、鎧に身を包んだ仰々しい集団が列をなして進んでいく。
「え、ルシュ!? それにほかの子たちまで⋯⋯」
なぜか一団の中に、鎧も身に着けていない子供たちが混ざっていた。
子供たちはその場で走ったり騒いだりして、周りの兵士にぶつかったりしているが、怒られたりする様子はない。
なぜ彼らが軍隊の中に加わっているのかはわからない。軍の事情が逼迫して少年兵でも集め始めたのか。それにしても彼らは幼すぎる。それならまず私を強制招集するべきだ。
「ルシュ! グレム!」
城壁から身を乗り出して叫ぶが、止まる様子も振り向く様子もない。
何祖も叫ぶうちに彼らの姿は砂粒のように小さくなり、ついには見えなくなった。
黒い鎧を着た隊列は未だに城から続いている。
いったい何人が死にに行くのかと思っていると、ひとり集団の中で異彩を放つ白い鎧と馬の兵隊が現れた。
「し、白薔薇王」
鎧で包まれた白馬にまたがり、金色のマントをなびかせるその人物。
たった一度だけ目にし、頭から焼き付いて離れない私の想い人。
だが向こうは当然私なんて名前も顔も何もかも知らないし、私も白薔薇王の名前も素顔も知らない。
なぜか私に向かって振り向いた彼女の顔は、やはり仮面に隠れていて何もわからない。
「白薔薇王! どうかあの子たちをお守りください」
私は無礼にも将軍に向かって叫んでいた。将軍だけが足を止め、他はみな進んでいく。
なぜ彼女は進まないのか、ずっと私を見上げているのか。
仮面の向こうの双眸と目が合う。何か私に伝えたいことでもあるというのか。
軍隊の最後尾が城門を出ても、彼女はずっと私を見て立ち止まっていた。
もはや子供たちがはるか遠くだろう。なぜ彼女が私をひたすらに凝視し続けるのか、なぜ私は城壁から降りて近くに行かないのか、何もわからないまま、視界が暗闇に暗転した。




