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「随分また懐かしい名を。知り合いでしたか」
「レナンちゃんの叔父さんが、父が働く採石場の責任者で、時々レナンちゃん、ラノっていう私の友達⋯⋯その叔父さんの娘と遊ぶために来てましたから」
「なるほど。友達の友達ってわけですか」
「はい。すぐにレナンちゃんとも仲良くなって手紙のやり取りを」
「それで、レナンが自分の事を書いた中に私がいたわけですか」
「ええ。よく話題に出てたので今も覚えています。すごく真面目な人だって。実際会ってみて、私もそう感じました」
「そんな⋯⋯まだ会って数十分ですよ」
左手の人差し指で、痒くもないのに頭を搔く。
「でも、ルシュみたいないたずらっ子も先生のことを慕ってるみたいですし、なにより今も初対面の私のためにこうして付き合っていただいて」
「それは⋯⋯まあ⋯⋯」
否定の言葉が浮かばず、狼狽える以外できない。
褒められて悪い気はしないが、どうもさっきから胸が引っかかる。
ちょうど、レナンのことを思い出した頃から。
胸に棘が刺さったかのように痛み、呼吸を妨げた。
「ところで、もうしばらくレナンちゃんからの手紙が来ないのですが、今どこに居るかご存知ですか」
「⋯⋯」
──ああ、そうだったのか。
どうして胸が傷んだのかわかった。
私は考えたくなかったの思い出したくなかった。
彼女の名前、顔、身体、性格、口癖、よく着ていた服、成績、趣味、好きな食べ物、嫌いな食べ物。
共に過ごすうちに頭に刻み込まれた記憶の数々を、ずっと目覚めさせたくなかったのだ。
それらが意識として脳裏に浮かび上がると、全てが血に染められ、記憶が汚されてしまうから。
人間の頭とは実に不器用なもので、そんなことを考えれば考えるほど、浮かんでくるのは骸になって帰ってきた彼女の姿ばかりだ。
「レナンなら、もうこの世にはいませんよ」
「⋯⋯えっ?」
ミラは口を微笑するように開きながら、下から覗くように私と目を合わせた。
「4年前⋯⋯都の名家に嫁いだ彼女は、その半年後に遺体となって帰ってきました」
「⋯⋯っ!? う、嘘ですよね?」
「貴女は、先程私を真面目な人だと言いましたね。私が、こんなくだらない嘘をつくとお考えですか?」
「⋯⋯そんな」
ミラは顔を地面に向け、深く目を閉じた。
力が入った目元にはシワが目立ち、啜り泣く声が漏れ、瞳から雫が零れた。
「いままでそんなこと⋯⋯全く知りませんでした⋯⋯」
世の無常に打ちひしがれた女性の感嘆が聞こえる。
友の死は辛いに決まっている。それも、今の今までその事実を知らなかったとなれば尚更だ。
ミラの中で生きていたはずのレナンの肉体は、今崩れ去っているか、二度と動かない骸に姿を変えていることだろう。
私の場合はそうだった。
レナンの骸をこの目にしたその日から、最後に会った頃の成長した彼女を思い出そうとすると、いつも屍の姿で浮かんだ。
私の中にいる生きている彼女は、小さい頃の姿だけだ。
そしてそれさえも、いつの日からか現れなくなった。
お互いの名前や人柄を知るための時間が、湿っぽく、陰鬱としたものになってしまった。
涙が止まらず啜り泣くミラを、泣き止むまでじっと待った。
「ごめんなさい⋯⋯こんな姿見せて」
微かに聞こえる笛の演奏が数曲終わった頃、ミラは落ち着きを取り戻し、胸に手を当てながら大きく深呼吸した。
頬や目には涙の跡がくっきりと残っている。
だがそれでも気丈に振る舞おうと、笑顔をつくってみせた。
その振る舞いは、淑女そのものだ。
「せっかくの挨拶だったのに、こんな風になるなんて」
「そうですね。偶然ってすごいですよね。まさかレナンの名前を聞くことになるとは」
首が凝っていたので、左回りに3度回した。
ミラは大きく目を見開きながら、何度も瞬きしながら私を見ている。
まだ残っていたのか、瞼が閉じられた瞬間、水滴が僅かに流れた。
「そうですよね。先生にとっては、レナンちゃんが亡くなったのは4年も前のことですもんね。いや、ごめんなさい。なんか⋯⋯私だけ泣いてるなぁって」
目頭を人差し指で撫でながら、ミラはふっと笑った。
彼女の考えていることはよく分かる。
「そうですね。私は4年前に十分過ぎるほど悲しみましたので。もう涙はでません」
軽く微笑んでみるが、上手く笑えているか不安だ。
上手くいったのか、ミラがさらに笑顔で返した。
「でも今でも辛いんですよ。だから今の今までレナンのことは忘れてたのに、思い出してしまいました」
「もしかして、先生はレナンちゃんの事が」
言いかけたところで、ミラは口を開いたまま固まってしまう。その先の言葉は、容易に予測できる。
だから今のうちに、頭の中で返事を考えておいた。
「好きだったんですか? それで思い出さないようにずっと心の奥に」
「いえ、レナンのことをそういう目で見たことは一度も」
やはり予想通りで、用意していた言葉がスラスラと述べられた。
さっきから、気がつけば何匹かの羊がゆっくりと私達に近づいてきている。
何か貰えると思っているのか、両手を上げて羊達に何も持っていないことを伝えるが、彼らの蹄はこっちに向かって踏み出される。
「だいたい、私レナンが嫁入りする前に言ったんですよ。いつかお互いの子供達が友人になればいいなと」
深くにしまい込んだ記憶の書が、引き出しの中から引きずり出され、当時の思い出が描かれた頁が開かれる。
「そしたらレナン、小馬鹿にするように高笑いして言ったんですよ。セシルは女の子に縁がないから子供は出来ないよきっとって」
「まあ」
大きく口を開けながら、軽快な声でミラが驚く。
「酷いと思いませんか」
「ええまあ、でも⋯⋯そう言ったレナンちゃんの気持ち⋯⋯少しわかる気がします」
「え? それはいったい⋯⋯」
「秘密です。もし間違ってたら怒られちゃうので」
クスクスっと口元に手を当て、上品に笑いながら、ミラは体を回転させて背を向けた。
「でもそれなら、私はこのままでいいんでしょうか」
背を向けたまま、ミラからそんな言葉が放たれる。
どういうこと? と聞けば、恐らく理由を教えてくれるだろうが、それを尋ねることは別の事も意味してしまう。
「自分の心の赴くままに。死者を慮って生きるということは、虚しく過酷なことですから」
笛の演奏が止んだ。
羊達は柵を隔てて手が届く場所で草を食み、背中を向けた。
(これは一体⋯⋯誰のことだ)
誰に向けて言ったのか分からなくなった。
死者のために生きているのは、隣にいる彼女では無い。今も我が家で病床に伏している母だ。
先祖の無念を晴らすべく、何代にも引き継がれた怨嗟を一身に受けて生き、それを私にも遺産として受け継がせようとしている。
死者を慮る。それは至って無意味な、哀れむべき行為だ。
なら母は哀れなのだろうか。母の生涯は無意味なのだろうか。
もしそれを人から尋ねられたら、私はなんと答えたらいいのだろう。
「先生⋯⋯先生?」
袖を引かれる感触が、夢想から現実へと私を帰した。袖を引いた彼女は、覗き込むように私の様子を伺っている。
「あぁ⋯⋯すみません。少し考え事を」
「もしかして、さっきのは自分に仰っていたのではないですか。もしくは大切な人か」
ぴったりと言い当てられ、瞼が痙攣した。
「そうかもしれませんね。レナンの気持ちを推し量ろうとする貴女を、ある人と重ねてました」
何故か私は、羊達を追い返そうと手で払った。
聞かれるのが恥ずかしいのだろうか。彼らが私達の戯言などに耳を傾けるはずはないのに。
当然、羊達は去りなどしない。当然だ。ほとんど背を向けているのだから。
ため息を着くと、ミラがまた笑った。
私の奇行が可笑しいのだろう。
「そのある人は、もっと私達の仲が深まれば教えていただけますか」
「どうでしょう。中身を知られるのは憚られるものなので」
「まあ残念。ではそれは先生の気が向いた時にでも。ではもうひとつお尋ねしてもいいですか」
「どうぞ。今度は答えられるものを所望しますが」
「先生は今、好いている女性はいますか?」
────
授業は午前中で終わった。
みんな家の手伝いなどが忙しいらしく、ほとんど集まらなかったのだ。
昨日街で会ったルシュも、今日は来なかった。
ルシュは来なくてよかったというより安心した。
彼にあの後どんな話をしたのかと聞かれても、私はなんて答えたらいいのか分からなかった。
ミラの質問に対して、私は沈黙を貫き通した。
羊達が蒼々とした大地に寝転がり、寝息を立て始めるまで、口を閉ざし続けた。
「ごめんなさい。変な事聞いて。私⋯⋯そろそろおばさんの所へ行かないとなので。ぜひまた⋯⋯」
長い沈黙の最中、表情に翳りが見えた彼女がそう言って立ち去るまで口を閉ざし続けたのは、何故だったのか。
ただ一言、いるかいないかはっきり言えばよかっただけだ。私がどちらを選択しても、彼女は私を責め立てたり、その場で取り乱したりはしなかっただろう。
なのに、ただその一言が言えなかった。
ミラの問い掛けを聞いた瞬間、私の頭の中には、ひとりの人間が浮かび上がった。
素顔も名前も、果てはその性別すら確かでは無い人物。
黙っていたのは、照れ隠しではない。
ただもう一度逢いたいと願うだけのあの人を、自分自身が心の奥底ではどう捉えているのかが分からなかったのだ。
ただ純粋に好意を抱くということを、好きという言葉で表すなら、好きであることは間違いない。
だが、いると答えたとして、それは彼女の求める答えになっていたのだろうか。
そして、たった一度見ただけで忘れられないその人に、子供達は母、太守やその他の人達と同じ種類の好意だけを抱いているのか、それ自体分からなくなった。
なんて昨日の言い訳を子供達が飛び出していった教室の中で考えていても、何も変わらない。
恐らく、もうミラと会うことは無いだろう。
街やどこかで見かけたとしても、お互い見なかった事にして過ぎ去るだろう。
それでいい。彼女が私のことをどう思っているかは分からないが、私自身、彼女に対して特別な感情を抱いていない。
見合いというのはそういうものでは無い。好きだろうがなんだろうが親が決めたらなら結婚するものだ。
と言われれば、たしかにその通りだろう。
だが私としては、やはりお互い愛し合える人間と添い遂げたいし、ミラにもそうなって欲しい。
今度ルシュから彼女の話を聞くとなると、別れの挨拶代わりの言葉になるだろう。
「はぁ」
静寂に包まれた薄暗い教室の中に、吐いたため息がそのまま音を含みながら、空気とともに身体を取り巻き、脳内で反響する。
子供達がいる間は、薄暗くても快活で陽気な場所だったが、今は陰鬱としている。
「どうしたのかな? もう皆帰ったようだが」
「先生⋯⋯」
声がした場所に目を向けると、学長が髭を触りながら直立していた。
先生はいつもの服装をしている。これしか服を持っていないのかと思う。
先生は髭を弄りながら、教室後ろの椅子に座ると、足を組んでこちらにむかって微笑んだ。
私も書物を手に持ち、先生の隣に座る。
先生の目線が一瞬、私が机に置いた書物に向かうと、フッと笑った。
「子供たちは退屈してるだろう? 亡国の歴史なんて」
「そうでもありませんよ。亡国の歴史に興味はなくても、自国の輝かしい事跡には興味津々ですから」
先生は目を閉じ、何度も頷いた。
「いつの時代も変わらんな。子供達が好きなのは、新しい字とこの国の栄華だ」
先生に同意だと、私も頷く。
「ではセシル、君は私の元でアリストリアについて学んだ時、何をどう感じた」
先生の眼差しが僅かに鋭く光る。
先生は私がこの国に滅ぼされた国の王族の血を引くことを知っていた。
というより、初めて会った時、私の姓を聞いてピンと来たらしい。
「母から聞いていたことは概ね史実通りだったんだと。史書と母の語りでは情感が違いますが」
「ほんとに君は聡いな。ここにいるのが勿体ないくらいに」
「いえいえ、もしかしたら今が1番天職に就けているかもしれませんよ。もう少し生徒と本が多いと尚のこと良しです」
「後者は厳しいな。金がない」
鼻先で笑うと、先生は机に肘をつき、握った拳の上に頭を乗せた。
「だが君という一廉の人物がいてくれる事と、その元で学ぶ子供達がいるだけで満足だ」
しみじみと呟いた声には、哀愁が漂っている。
先生ももう若くは無い。
これまでの人生を振り返って感慨深い気持ちになっているのか、それとも⋯⋯。
頭の中にレナンの姿がよぎった。
先生は、レナンのことを覚えているのだろうか。
いや、覚えていることは間違いない。
彼女遺体が埋葬される時、先生は私と一緒にその場にいた。
今と変わらない格好で、ずっと目を閉じ、冥福を祈っていた。
「あの⋯⋯」
「ああ、そうだった」
レナンのことを聞こうとした矢先、先生はおでこに横長の皺を作りながら目を剥いた。
「ん? なにか言いたいことがあるのかな?」
「⋯⋯いえ、大したこととは無いのでどうぞ」
話す順を譲ると、組んでいた足を下ろし、両手を膝について先生は立ち上がった。
「今日は君と雑談に来たわけではないんだ。ため息を着く君を見てついうっかりしていた」
「はぁ⋯⋯では何か用が」
「それがなぁ。君を訪ねたいという人が南の城門の前にいるのだよ。いや、厳密には違うか」
「と言いますと?」
「先程見かけぬ青年に、薬草の知識が豊富な者はいないかと聞かれてな。それで君の名前を出したら呼んできてほしいと」
「⋯⋯なぜ薬師ではなく私を?」
「いや、急に聞かれたから浮かんだのが君だったんだ」
私を見下ろしていた先生は、目を背けるように天井を向いた。
話が見えてこないが、要するに門へ行く必要が出来たのだろう。
机の上の書物を掴み、立ち上がる。
「で、その方はどういったお人で?」
「それがよく分からんのだよ。もしかしたらこの城の住民ですらないかもしれないな。ああそうだ。馬車の前で待つと言ってた」
「じゃあ明らかに他所の人ですね。まあわかりました。とりあえず行ってきます」
「ああ、申し訳ないよ」
先生に言われた以上、断るわけにはいかない。
馬車で来るということは、恐らくはそれなりの身分の、大きい都市の人だろう。
とにかく薬の知識に自信が無いので、怒らせないように心がけよう。
外は晴れている。
上空の鳥は餌を求めて南に向かって飛んでゆく。
相変わらず城壁に続く階段は封鎖され、その上では夜叉擂の制作が行われている。
まだ昼前の街は、人が少ない。
狩りや農作業のため、男達が城を出ているからだろうか。街にいるのは、女性だらけだ。
私を待つ人は南にいるらしい。
とにかく、どんな人なのか気になり、怖い人で無いことを祈った。




