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目の前の敵を斬り、突き、押し倒しては、その命を奪う。
当然、反撃もされる。
生まれてから今まで、転けた時くらいしか傷を追わなかった身体はあちこちに包帯が巻かれ、包帯には血が滲み、土汚れと混ざりあっていた。
脇腹が痛い。4日前、敵の剣が突き刺さったのだ。
幸いなことに、内蔵まで到達はしなかったので、私はまだこの城壁の上で戦っていた。
いや、これは幸いではなく不幸かもしれない。
偃月刀を持ち上げられないくらいの負傷をしていたら、私も日に日に増えていく負傷兵らと共に、城の中心部で看病してもらえてたのだから。
「あああああああっ!」
何度雄叫びを上げただろうか。
敵を斬り、突き、動きが停止する度、私はその骸に威嚇するように叫び、次の敵を攻撃した。
徐々に武芸が達者になっていくのが、肌感覚として伝わる。
自分にこんな部芸の才能があったのかと戸惑う。
だがいつも私の隣で戦っているタオは、私なんかを凌駕するほどの力を発揮し、ほとんど傷も追わないまま8日間戦い続けている。
日を追う事に、タオは味方から畏怖され、守り神として崇められるようになっている。
タオの体には鬼神でも宿っているのか。
その戦いぶりは凄まじく、乱戦の中全く敵を寄せ付けなかった。
それだけでなく、常に私の方に気を配り、守ってくれている。
タオがいなければ、私はもう死んでいるだろう。
ではなぜ、自分でもそう分かっているのに、私は前に出て戦っているのか。
民兵の大半は、ひたすら密集して防御を固めながら戦っている者達が大半だ。というか太守からそれを推奨されている。
ギンも同じように誰かと組を作って戦っている。
でもなぜか、私は部芸の心得なんて無いのに、正規兵と並んで敵に当たっていた。
刃というのは、皮膚に掠れるだけで焼けるような痛みが遅い、その度に私は唇をかみ締め、そのせいで唇からも血が垂れる。
だが、この8日間で確実に戦い方は学んできた。
剣を持った敵が剣を振りかざせば、空いた胴体目掛けて偃月刀を突き出す。
敵が突くように突進してくるなら、偃月刀の長さを活かして敵の刃を往なしてこちらの刃で突く。
盾持ちの敵なら、盾では守りにくい足から狙って体勢を崩したところを上から突き刺す。
深く突き刺す必要は無い。興奮状態であっても、痛みははっきりと感じることは、自分自身の体で実証済みだ。
仕留めるための一撃は、本当に最後でいい。
城壁の上にいる兵の数でいえば、こちら側が常に有利だ。
それに私には幸運にもタオという従者がいた。
ひとりに時間をかけても、支障はない。
相手が反撃も出来ないくらい怯んだところで、首や胴体など、とにかく刃が深く刺されば絶命しそうなところへと攻撃する。
苦痛に顔を歪めた敵が目を覚まさないのを確認し、他の敵に攻めかかる。
ただひたすら、敵が城壁に登るのを辞めるまで、毎日毎日この繰り返しだ。
だが、変化は確実に現れている。
この8日間で、大勢の住民が死んだ。
その中には知った顔もいくつもある。
いつも酒屋で騒いでいる男、肉売りの男、畑を荒す猪なんかを捉えてはその肉を近所にお裾分けすることで有名な力自慢の男、さらには、私の生徒達の父親や兄弟も。
夜になると、城内には篝火があちこちに灯され、その下では亡くなった者達が莚を被って眠っている。
その亡骸のそばには、死者の家族や友人が集まり、声にならない声で泣いている者や、城内全体に響くような慟哭をあげる者もいた。
私とギンは、毎晩のように亡骸の中に先生がいないか、祈りながら歩いた。
この戦いが始まってから、先生の姿は見ていない。
どこの城壁にいるかも分からず、私とギンは寝る間を削って先生が死んでいないことを確認し続けた。
「あと何日戦えばいいんだろうな」
配給された酒をあおりながら、やつ当たりするようにギンは言った。
「こちらが降伏するか、敵が引くまででしょうね」
「はあ、それっていつになるんだ」
「敵のお気持ち次第でしょうね」
まだ援軍が来ないということは、やはり太守の言う通り、王はこの城を救出するつもりなんてないのだろう。
だが、この城の皆は、その来るはずのない援軍を希望に戦っている。
援軍が来ればすべて解決する。援軍が来るまで持ちこたえるのだと。
だから、援軍が来ないなんて太守やその側近は言わない。そして来るとも言わない。
少し卑怯な気がするが、指揮を保つためには仕方のないことだと、飲み込むほかない。
「なあセシル⋯⋯俺が死んだら喪主はお前に頼んでいいか」
「⋯⋯ギン!?」
その言葉は酔ったから出たという様子ではなかった。
うつむきながら酒の入った杯を両手で抱いたギンは、本心から言っているように見えた。
戦いの中で、知らず知らずの間に精神が疲弊したのだろう。
私は、ギンの肩をさすりながら、声をかけた。
「不吉なこと言わないでください。私はあなたの喪主になる気もなければ、葬儀に参列するつもりもさらさらありませんよ。でてほしいなら、せめてあと20年は生きてください」
「ああ⋯⋯ああ」
心ここにあらずという様子で、か細い返事をしながらギンはこっくりと頷いた。
そのまま首をたれ下げながら、座ったまま眠りにつき、酒が足にこぼれた。
「ギンっ⋯⋯」
どうして今まで気づかなかったのか。ギンの腹部には血がにじんでいた。
服をめくってみると、応急処置はされているようだが、出血が多かったのか、服に血がしみ込んでしまっていたらしい。
念のため脈を図るが、安定はしているようだ。
しかし、明日は戦うべきではない。このまま戦えば、死ぬのは目に見えている。
「だから⋯⋯私を喪主にしたかったのですかギン」
私は、近くを通りかかった人に頼み、二人でギンを負傷兵たちが集まる救護場所まで運んだ。
明け方までほとんど眠れなかった。一度眠りについても、30分もしないうちに目が覚めてしまった。
ギンが心配だったのか、私自身眠れぬほど憔悴しているのか。
だが生憎、体はいつも通り動く。そしていつのまにか隣でタオが眠りこけていた。
朝日が差しこんでも、タオが目覚める様子はなかった。
幸い、敵はまだ動いていなかったし、城壁の兵は足りているので、私たちはその場で静かに座っていた。
だが城壁の上が何やら騒がしい。敵が動いているわけではなさそうだが、西側の城壁の皆は、どうやら南のほうを見ている。
まさか、敵の増援が来たのだろうか。だとすると、この城は本当に落ちる恐れがある。
だが、そういう様子でもなかった。
「援軍だ!黒鷲の旗だ!」
その声に、近くにいたタオ以外の全員が反応した。
確かに城壁の誰かは、黒鷲の旗だといった。黒鷲の旗はこのカリスタンの軍旗に描かれているはずだ。
私は勢いに任せて走り出した。
援軍が来たということは、アルバがいるかもしれない。そう思うと居てもたってもいられなかった。
ここから彼の姿が見えるわけがないとはわかっている。それでも、彼の姿を探さずにはいられないのだ。
昨日までより敵の攻撃が遅いのは、援軍が来た影響だろう。外の喧騒からして、まだ戦闘に入る様子はない。
城壁への階段をあがり、兵士たちをかき分けて南のほうを見ると、遥か小さな丘の上に、たしかに黒鷲の旗が靡いていた。
そしてその旗の下には、羽田とは正反対の色彩をした、白薔薇王がたしかに馬に乗って佇んでいた。
「白薔薇王⋯⋯」
私のつぶやきが周りに広がり、兵士たちは希望を抱き騒ぎ出した。
「あれが白薔薇王か⋯⋯」
「この国最強の将軍が来たんだ! 勝てるぞ!」
この国最強の将軍が兵を率いて救援に来た。この事実を城の者すべてが知れば、もやは士気が下がることはないだろう。だが⋯⋯。
「だめだ。兵が少なすぎる」
誰かがそう呟くと、その思考は波紋のように広がり、皆が落胆して肩を落とすのがわかった。
ここから見える限り、確かに兵の数が少ない。
私は陣営の人数を数える手法を知らないが、見たところ多く見積っても、シーナの軍勢の2割もいない。
あれでは、いくら白薔薇王の部隊が屈強といえど、単独で戦うことは不可能だろう。
つまり、この城との連携が必要になる。
だがたとえ連携したところで、城の全兵力と援軍全てを合わせても敵の半数に見たないし、この城にそんな余力があるとは考えにくい。
つまり⋯⋯あの援軍にできることは、せいぜい城に取り付く敵の数を減らすことくらいだ。
────
敵もすぐにそれを判断したのだろう。
昨日までと変わらず、すぐに城に張り付いてきた。
もはや単調とも言える攻城戦が今日も始まり、私はいつもと変わらず刃を振るった。
ただし、今日はどこを見てもギンの姿はない。
余裕があれば彼を探すのが癖になっていたが、その癖は抜けないまま、私は空虚にもなんども探した。
彼はいてはならないのだ。今のまま戦場に出れば確実に死ぬ。
私は彼の喪主なんて務めるつもりはない。なんなら、この戦いで彼が死ぬようなことがあれば、亡骸に泥をぶつけるつもりでいる。
「なぜ君もレナンも、私を置いて逝ってしまったのだ」と。遺族の前で尊厳を踏みにじる覚悟だ。
私は、彼の分まで戦うつもりでいた。
正規の兵もこの連日の戦闘で疲弊し、私達より戦っている分、死傷者も多い。
「はあああああっ!」
やることは変わらない。敵を突き、斬り、そして刃を抜く。もはや日常に溶け込んだ反復作業だ。
敵の怒号も味方の断末魔も、もはや気にならなくなっていった。
自分が、どんどん醜く非道な存在になっていく気がする。
この手で人の死に触れ、何も感じない私は、これから生き延びたとして、子供達に教えを説く資格があるのだろうか。
アルバと生きる資格などあるのだろうか。
アルバは戦場に何度も立ちながら、敵の死を嘆き、自分を苦しめているほど優しい人間だ。
だが私は違う。この数日間、倒した敵の夢など見ていない。
その顔や最後の姿を顧みたこともない。
そんな私が、哀れなほど慈悲深いアルバといていいはずが無い。
こんな冷酷な人間が近くにいると、彼を苦しめてしまうに違いない。
それに私が私を嫌いになる。彼のそばにいると、こんな自分を殺したくなるに違いない。
──ではどうして、私は戦っているのだ。
──彼と生きる資格がないなら戦う理由なんてないんじゃないか。
その一瞬の葛藤が、気がつくと、敵の刃という形で具現化して右肩に突き刺さっていた。
「ぐぅっ⋯⋯」
今までで初めての痛み。敵の剣が深く肩を貫き、刀身が背中の方へと貫いている。
なのに私を刺した敵兵の顔は冴えない。肩では致命傷にならないからだろうか。それとも。
「っ! 主!」
すぐ私の背後にいたタオの剣が自分に向いたのを察知したからだろうか。
タオは私を後ろへと押しながら、敵の前に出てその喉をひと突きにした。
私の肩に刺さった剣から手を離し、敵はその場に倒れる。
身を焦がすような痛みが、肩から全身に広がるようで、私はなんとか痛みを和らげようと、ひたすら左手で肩を強く揉んだ。
味わったことの無い苦痛、地獄のような苦しみとはこのような痛みのことを言うのだろうか。
だが痛みが僅かでも落ち着く様子は無い。
すぐに剣を抜きたいが、抜けば多量の出血でどうなるか分からない。
他の兵に促されながら、私はタオに支えられながら城壁から降りた。
血が止まらず、着物を赤く染めあげていく。
「主、しっかりしてください!」
いつもは寡黙で何を考えているか分からないタオが、一目見て分かるくらいに狼狽えながら叫んでいる。
慌てふためくタオを見るなんて、もしかしたら初めてかもしれないと、ぼんやりと視界が鈍る中、ついつい笑をこぼしてしまった。
タオによって運ばれた場所は、申し訳程度に筵が敷かれ、何人もの負傷兵が女子の手で治療を受けていた。
中央に女子たちを指揮している医者らしき老人がいて、しきりに何か叫んでいる。
老人は私と目が合うと、こちらを指さして人を来させた。
タオによって筵の上に座らされると、ひとりの女子が駆け寄ってきた。
「大丈夫ですかっ⋯⋯」
女子は私に声をかけてきたが、最後の方の声量が小さかった。
どうしたのだろうと振り向いてみれば、そこに居たのは見合い相手だったはずのミラだった。
医術の知識があるのかは知らないが、ここで医者達の指揮の下ずっと働いているのだろう。
髪は乱れ、衣服には兵士の血が飛び散っている。
「先生⋯⋯?」
「お久しぶりですね⋯⋯お恥ずかしいところを見られてしまいました」
相変わらずミラは私を先生と呼んだ。
あの日以来の会話だが、あまり気まずさは感じない。
昔レナンと喧嘩した時などは、次の日顔を合わせるのも億劫だったのに。
「すぐに止血しますから。待っててください」
ミラはいちど立ち去ると、綺麗な布を何枚も持って戻ってきた。
そしてタオに剣を抜くようにお願いしながら、さっきから肩に突き刺さった剣がようやく引き抜かれた。
刺された時以上の、肉を捻り取られるような痛みと火で炙られるような激痛が走り、私はついついミラの腕を力いっぱい掴んでしまった。
だがミラは顔を歪めることもなく、剣が引き抜かれるとすぐに手当してくれた。
痛み止めだと言って、何かの薬草を煎じた汁を飲ませてくれたが、果たして効くのだろうか。
ひたすらに苦いだけの汁を飲み干し、手当された患部を見ると、白いサラシはもう真っ赤になっているが、血が滴り落ちる様子は無い。
最悪傷口を焼くことも想定していたが、それは免れそうで助かった。
「先生が⋯⋯まだ生きていてよかったです」
ミラは私の体についた血を拭いながら、ボソッと呟いた。
まるで、私が生きているのが信じられないような口ぶりだ。
だが多分、私が1番自分が生きていることを信じられていない。
「色々と運が良かったのでしょう」
今もそばにいるタオに守られたことが、やはり1番の要因だろうか。
私は目で城壁に戻るようタオに促したが、タオは一切戻る気が無いようで、この場で鎧を脱ぎ始めた。
彼ひとりいるかいないかだけで戦局に影響がありそうだが、無理強いをすることはできない。
「ルシュから聞いていた先生の印象と、以前あった時の雰囲気で、決して前に出るようなお人では無いと思っていましたので」
「私だって自分はなにかの影に隠れている人種だと思いますよ。でもこんな時だとそうも言ってられないのです。出来ることなら軍師でもやりたかったですよ」
冗談ぽく笑ってみせると、ミラは悲壮感を漂わせた顔の中で、ほんのわずかに口角を上げた。
「たしかに⋯⋯先生は軍師様の方が似合っていそうです」
「ですよね?」
お互い顔を見合せながら笑を零し、肩の痛みが少し和らいだ気がした。
薬が少し効いてきたのだろうか。
そう思った矢先、ミラは誰かに呼ばれて席を立った。
去り際、彼女は私にこの前はすみませんでしたと、寂しげに言った。
謝るのはむしろ私の方だ。私がミラの問いに答えてあげることが出来なかったから、彼女は身を引いてくれたのだ。
彼女がいなくなると、また肩の痛みが再燃し、タオに頼んで水を持ってきてもらった。
ふと南の城壁に目を向けると、ちょうど登ってきた敵を掃討できたのか、夜叉擂が動いている。
あれで梯子を壊すのだろう。
あれは梯子を押すのではなく、重さで壊す兵器だから、敵が何人梯子に乗っていようと関係ない。
上から棘付きの丸太が梯子へと振り落とされれば、梯子はその部分から二つに割れ、登っている兵士が地面に落ちる。
あの書が役に立ったことに、今となって興奮する自分がいた。
そして、あの城壁の向こう側の丘に、アルバがいるのではと、私は淡い期待を抱いていた。
しかしながらこの日、援軍が動くことはなかった。
いつもと変わらぬ攻城戦が行われたが、援軍が動いたという知らせはなく、どうやらこの城から兵が打って出るという情報もない。
やはり白薔薇王が引き連れてきた兵の数が少なすぎたのだろう。
なら、彼女はどうしてここに来たのか。
ここに来たらなにか策が浮かぶと思っていたのだろうか。ここで援軍がさらに集結するのを待つつもりなのだろうか。
敵が兵を割いて白薔薇王の元に向かえば、恐らくは彼女の巧みな采配と圧倒的な武力で、戦況を有利に運べるのだろう。
だがそれでは、この城が助かるわけではない。
そして白薔薇王の援軍が少ないということは、太守の言っていたこの国が同時多発的に侵攻を受けているという言葉が現実味を帯びる。
太守の思慮の深さに感服し、寝転がりながら暗くなった空を眺めていると、聞いた覚えのある声で名前を叫ばれた。
「セシル様! セシル様!」
この声はユイの声だ。
いったいどうしたのだろうか。私が負傷したと知って慌てて様子を見に来てくれたのだろうか。
ずっと傍に控えていたタオが立ち上がると、ユイの
足音はこっちに向かって一直線になった。
ほんの少し顔を上げてみれば、僅かな炎の明かりで照らされたユイの顔が明らかになった。
目はやけに赤く、目元を腫れさせ、珍しく鼻を啜っている。
そこまで自分を案じてくれていたのだと、少し嬉しかった。
子供の頃、熱を出した時、母に付きっきりで看病してもらったことを思い出す。
人は弱っていると、誰かの優しさがたまらなく嬉しい。そこに幸せを感じる。
昔は、寝込む私のために粥を食べさせてくれた母の姿が、何よりも愛おしく、忘がたい光景だった。
「ユイ⋯⋯そんなに心配しないでください」
肩が痛いせいか、声がほとんど出ない。
何とか身体を起こすと、ぽたぽたと落涙するユイが、目の前で膝を着いてうずくまった。
「セシル様⋯⋯セシル様」
肩を震わせながら、ユイは俯いて何度も私の名を呼んだ。
「どうしたんだ。私は大丈夫だよ」
「いえ、そうではありません⋯⋯」
ユイの様子は、異様としか言いようがなかった。
私の意識はハッキリしているし、今のところ血もほとんど止まって何事もない。
それはひと目見ればわかるはずだし、むしろ、最悪の事態を免れたと分かれば、人は安堵するものじゃないだろうか。
だがユイはむしろ、私の元に来たことによって、その感情を溢れさせ、泣き出した始末だ。
これは安堵の涙ではない。タオもそのユイの異様な様子に戸惑っているらしい。
「ユイ⋯⋯どうしたのですか」
「⋯⋯奥様が⋯⋯」
今にも途切れそうなほど震えた声で、ユイはただひと言物申した。
「奥様が⋯⋯お呼びです⋯⋯」
この戦いが始まってから、母に呼ばれることなんてなかったし、私も会いたいとも思わなかった。
だが、ユイの態度を見れば、これが火急の時だと、いやでも察せられた。
「母が⋯⋯」
無意識のうちに、私は右手で地面を支えて立ち上がった。
激痛が走るが、そんなこと気にしている余裕はない。
私はとにかく、我が家に向かって走り続けた。
足が地面につくたびに肩が痛み、縫い合わせてもらった傷が開く気がした。
外には明かりひとつない家につき、そのまま靴も脱がずに母の部屋へと走った。
相変わらず趣味の悪いまじないの品が充満した部屋で、母はいまにも命が付きそうに、息も絶え絶えになって目を閉じていた。
この部屋だけが異様に明るく、家から切り離された空間のような雰囲気を醸し出している。
「セシル⋯⋯セシルですか」
目を閉じたまま、母は妙に生気のこもった声を出した。
「母さん⋯⋯私です。セシルです」
何かが私の中であふれかえり、温かいものが保保を伝った。
「セシルが帰ってきましたよ。しばらく留守にしてもうしわけありません」
もはや骨だけと形容しても間違いではなさそうな手を握り、寝台の前で膝をついた。
母はゆっくりと顔をこちらに向け、目やにだらけの目をわずかに開いた。
「ああ、セシル⋯⋯ユイから話は聞いています。この親不孝者⋯⋯」
母はすねた少女のように、細い目をさらに細めた。
「音沙汰がなかったのは謝りますが、私も母を機にかける余裕がなかったのです」
「たった一人の肉親に向かって⋯⋯まさか、怪我などしていないでしょうね」
「⋯⋯ええ」
この一言で、すべてを悟った。
私の着物にははっきりと血が滲んでいるのに、母にはそれが見えていないのだ。
もはや私の姿も見えず、感覚だけでこちらを見ているのかもしれない。
「いいですかセシル⋯⋯あなたは王家の地を継ぐものです。このようなところで何かあったら、母は冥府の先代たちに申し訳が付きません。この城が落ちても、あなただけは生き残るのですよ」
母の手がわずかに震えるように動いた。
その手を両手で包み込むと、かすかに握られた気がした。
「肝に銘じておきますよ。母さん。実は私、今度見合いをするのです」
「おや⋯⋯」
母の瞼がかすかに反応した。
私は一度目を閉じ、大きく息を吐いた。
これ以上、母を苦しめたくない。私のことで売れいてほしくなかった。
「私の代で国を再興することは困難かもしれませんが、いつか私の小やその子の代が成してくれるはずでしょう。私も、母さんが私に教えてくださったように、アストリアの歴史を教え、わが一族が背負った義務を繋げましょう」
「セシル⋯⋯」
母の目からも私と同じものが流れ、こけた頬が吊り上がった。
「だから母さんはもう、安心して自分の体のことだけ考えてください。遅くなって申し訳有馬電が、私にも王家を背負う覚悟ができました」
母のどこにそんな体力が残っていたのだるか。母はこっちに体を向けると、私が握ったのとは反対の手を、私の頭へと伸ばし、その旨へ私を抱き寄せた。
「か、母さん⋯⋯」
母のにおいが、直接鼻腔をくすぐる。頭に浮かぶのは、母との記憶。でもなぜか、私の前に現れたのは母ではなくて、小さなころの自分なのだ。
何があったのかわからないが、泣いている自分が、母に抱きしめられ、その旨に顔を埋めている。
まるで、母の記憶を私が覗いているようだ。
幼い私は、顔を話すと真っ赤な目をこすって笑った。
母はいつでも私を愛していた。だが私は、一族の宿願というものを語る母のことをいつの間にか疎ましく思っていた。
母は今でも、私のことを力いっぱい抱きしめてくれているというのに。
「セシル⋯⋯後は頼みましたよ⋯⋯私たちの意思を⋯⋯志を⋯⋯あなたが繋いでゆくのです」
頭を撫でられながらそっと耳元で、囁かれると、母に抱きしめられた昔の記憶がまた甦る。
今度は、母のお気に入りだった鈍色の絹の着物が、鮮明に眼前に映し出された。
よく母が漂わせていた、ミカンの葉の匂いまでもが蘇る。
母の流す涙が、私の頭へと伝わる。私のと同じ涙なのに母のはやけに温かい。
「か、かあ⋯⋯さん⋯⋯」
もはや、私が拒もうが、すべてを受け入れるしかないと、本能は理解していた。
「あの人たちと一緒に母はいつまでもあなたを見守っていますよ⋯⋯だから、あなたも幸せになりなさいセシル⋯⋯」
「え⋯⋯」
頭を撫でていた母の手が滑り落ちる。聞こえていた心臓の音が消えた。吐息が、温かい涙が止まった。
「母さん? 母さんっ!」
起き上がると、もう母さんの体は動いていなかった。
それだけ苦しんだだろう。日に日にやせ細る体を見ているだけでも、その苦痛は伝わってきた。今の私のけがなど日じゃない、母にとっては永遠にも感じられた地獄だっただろう。
だからなのか、その苦しみから解放され、本当の永遠となった母の顔は、私がよく知る、私が愛した優しい穏やかな日常の姿そのものだった。
「不孝の息子をお許しください。私は、母さんの願いを聞き届けることはできません」
部屋の明かりをすべて消して回り、外へ向かうと、タオとユイが部屋の前で待機していた。
一部始終見ていたのだろう。ユイは顔を覆って啜り泣き、タオはどこを見ているのかわからない様子で、呆然と立ち尽くしている。
「ユイ⋯⋯後のことは頼みます。行きましょうタオ」
返答を待つ前に、私は家を後にした。
後ろからタオがついてきているが、何か言いたそうにしながら口をもごもごとさせている。
松明の炎が各地で揺れている。負傷者の数が増えた。というより、戦っている者で無傷な者なんてもういないだろう。
私が都からこの城に戻ってきたのは、母の最期を見届けるためだ。
それを完了した今、もはやこの城にいる意味もない。
おそらく、あれ以上の援軍は来ない。となると、白薔薇王はこの城を見殺しにするほかないだろう。
もはや10万の軍勢を凌ぎきれるほどの力はこの城には残されていないだろう。
勝機があるとすれば、全員が死兵となって戦うほかない。
私の生きる理由はもう決まった。最後まで戦い抜いて死のう。
四肢がもがれても、首がちぎれかかっても、命尽きるその時まで刃を振るうだけだ。
ユイや子供たち、そして母の亡骸を守るために。
この城を守り抜いて、ユイとタオに親子揃っての葬儀を行ってもらおう。
────
各地に残っていた二千の軍勢を率いて、アルバの率いる部隊は深夜、カルチュード城南の丘に陣取った。
しかし、夜が明け、城の全容があらわになると、アルバは仮面の下で顔をゆがませた。
「これほどまでとは⋯⋯」
城の周囲は敵兵が壁となって覆い、付け入る隙がなかった。
シーナの軍勢もすぐにアルバ達カリスタンの軍勢に気付いたが、まるでいないものとして、気に留める様子もなかった。
「アルバ様、いかがされますか」
黒紫の鱗模様の鎧を着たモルトが不安げにその横顔を見つめるが、アルバの返答はない。
アルバは城を囲む10万近い軍勢を唖然と見つめながら、焦りを募らせていた。
(どうすればいい⋯⋯この数であの数の中に押し入っても勝ち目はない。ただいたずらに兵を死なせるだけだ。それに私の身に何かあれば⋯⋯)
アルバの脳裏には、国王の言葉がずっと張り付いていた。
アルバが傷を負えば、アルバの部下すべてを罰すると。王の言う罰するとはすなわち処刑だ。
ただの脅しの可能性もなくはない。しかし、王は自尊心が強く、自分のものが思い通りにならないと気が済まない人間だ。
いまのところ、アルバが自分を拒むのを遊興として楽しんでいるそぶりがあるが、それはアルバが自分のものになると信じてやまないからである。
(あの国王ならやりかねない⋯⋯私は⋯⋯)
振り返れば、部下たちがアルバを見つめている。指示を待っているのだろうが、アルバが放ったのは、たった一言だった。
「全軍待機だ⋯⋯」
動ける機会が訪れるとすれば、城内から決死の覚悟で打って出たときだけだと、アルバは半ばあきらめていた。
「何のために、私はここに来たのだろうな⋯⋯セシル」
まだ生きているという希望が、アルバの中にはわずかながらに存在している。
だがしかし、このまま城が陥落したら、その希望も砕けることになると、同時にわかってはいた。
「セシル⋯⋯どうか無力な私を許してくれ」




