5
アルバが目を覚ました時には、既に雨がぽつりぽつりと降り出していた。
「随分お寝坊じゃないですか。珍しい」
体を起こせば、既に平服に着替え、じっと座りながらこちらを見ているモルトがいた。
「ほら、アルバ様がなかなか起きないからユイさんが朝食を握り飯にしてくれてますよ」
モルトが目で示した方を追うと、机の上に笹の葉の包みが置かれていた。
まだ微睡みの中にいるのか、意識が水の中に沈むように、ぼんやりと薄れている。
「日が出てからどれくらい経過した」
「さあ、4時間は経ってるかと」
「4時間⋯⋯」
言ったまま口をポカンと開け続け、アルバは俯いた。
今までどれだけ悪夢に魘されても、寝付けなくても、日が出る頃には必ず起きていた。
寝坊なんて最後にいつしたか覚えていない。
「ま、僕としては嬉しいですよ。随分と気持ちよさそうに寝てましたし」
モルトは口角を上げながら、大きなあくびをした。
「なんだか昨夜と一昨日は数年ぶりによく眠れた気がする⋯⋯」
アルバは起きて布団を畳みながら、昨夜の夢について考えた。
いつものように、底無し沼に引きずり込まれそうになったところ誰かに手を引っ張られた。
不思議なことに、沼は赤黒い泥そのものなのに、自分を引きずり込もうとする無数の手が鮮明に見えた。
老若男女の無数の手が自分達の元へ自分を引きずり込もうと、怨嗟の声と共に全身にしがみつく。
そんな時、光の中から1本の手が伸びてきた。
その手の持ち主は光の中にいるようで、逆光のせいで顔が見えなかった。
縋るようにその手を掴むと、沼から這出る無数のは遠ざかり、恨みや憎しみの嘆きが小さくなった。
(残念なことに顔は見えなかったが⋯⋯まあ、あれはこいつでは無いか)
鼻を掻いている従者を観察しながら、あの手の持ち主が誰なのか考えてみた。
だが、アルバの人生の中で、自分を地獄から引き揚げてくれそうな人間なんて、自分を女として育て、命を守ってくれた母親以外思いつかない。
しかし、その手が母親のものではないことは明白だった。
大きさも肌触りも何もかもが違った。母はすでにこの世を去っているが、その姿や感触は今なお鮮明に覚えている。
「アルバ様⋯⋯もしかして安眠のわけを考えてるのですか」
アルバは目を見開いて従者を見た。モルトは首をひねりながら、ほほを挙げて朗らかに笑っている。
「さあな⋯⋯」
アルバは基本的に、モルトに弱みを見せるのを良しとしない。
精神的に疲弊しているときはその限りではないが、常日頃は隙を見せることはない。
「僕が教えて差し上げましょうか。その理由を」
「⋯⋯まさかお前が子守唄をうたったから、とかじゃないだろうな」
「はは。良い勘してると思いますよ」
モルトが笑い声を漏らすと、アルバは血の気が引く思いがした。
眉を顰め、どんよりと俯く。
「嘘だろ⋯⋯」
「安心してください違いますから⋯⋯そんな顔しなくてもいいじゃないですか。ただ考え方はあってますよ。したのは僕じゃないですけど」
「じゃあ、まさか⋯⋯」
アルバの脳裏にひとりの男が浮かび上がる。
突然やってきた自分たちを受け入れ、面倒を見てくれている物好きな教師を。
アルバは口を堅く結んだ。夢の中に出てきた男の髪はセシルと同じく艶やかな藍色をしていた。
「セシルが⋯⋯手を握ってくれたのか」
「⋯⋯よくそこまでわかりますね。そうですよ。セシルさんが魘されるあなたの手を取り、寄り添いながら語りかけていたのです。歌ってはいませんけどね」
開いた左手をじっと見つめる。
もう感覚は残っていないが、セシルが握ったはずの手を握り締めると、彼の顔が見えた気がした。
(じゃあまさか、おとといよく眠れたのも彼が⋯⋯)
アルバは部屋の出口まで向かうと、勢いよく木戸を開けた。
何もない壁が現れ、その右手に首と目を動かしていくと、視界の中に、雨が滴る外の景色が見えた。
「アルバ様? どうしたんですか」
盛るとの呼び声も聞こえないほど、外の様子に集中していた。
(会いに行きたい)
今すぐにでも、この雨の外を走ってセシルに会いたい衝動に駆られながら、アルバは今にも動き出そうとする足を諫めた。
(いやだめだ⋯⋯彼はこの家に帰ってくる。それまでは待つんだ。いきなり会いに行っても迷惑をかけるだけだ)
息をのみながら、アルバはゆっくりと木戸を閉めた。
今胸の中に抱いているセシルへの感情が何なのかを考えると、不思議なことに母の顔が浮かび上がってきた。
──
雨が小雨に代わってから、学校を出た。
恥ずかしいことに、傘を持ってきていなかったのだ。ユイにはアルバが使うよう言伝を頼んだのに、なぜ自分は持ってこなかったのか不思議でならない。
雨のせいか、街を歩く人の姿は少ない。空を見上げれば、どんよりとしたかすれた墨のような色の雲が城やその周りを覆っている。
できることなら明日は晴れてほしい。協約層を見つけられなかったとして、明日行くときにまた雨だと、探しにくくて仕方がない。
もし今日ふたりが薬草を見つけていたら⋯⋯その時は我が家で干して薬にするまでとどめておこうか。
それなら彼らは2週間近く家にいることになる。
本気でそんなことを考えながら歩いていると、どこからか笛の音色が聞こえてきた。
最近時々聞く演奏者に違いない。その演奏者の演奏には、ほかの人の演奏では聞こえないような個性があって、時々変なところで音が上ずったりかすれたりするのだ。
ちょうど今、この城育ちの者ならだれでも一度は耳にし、歌っているわらべ歌の演奏が行われているが、少し音を外している。
「羊さん羊さんこっちの草をお食べ、そっちは苦いお薬よ」
演奏に引っ張られ、ついつい歌の歌詞を口ずさんでしまう。
たしか続きは、「そこは牛のごはんだよ」とかそんな歌詞だった気がするが、正直もう覚えていない。
私の体は、その演奏のほうへ向いていた。音の場所からして、どこかの路地で吹いているのだろう。
つられて足が音のほうへ向かう。早く帰らないとまた雨が強くなるかもしれないのに、どんどん家から離れていく。
酒屋と酒屋の間の路地から、音は聞こえている。
路地を除くと、壁にもたれながら笛を吹く男の姿が確認できた。
薄暗くてわかりにくいが、黒い短髪の、小柄な男だった。
その目線は口元の笛に注がれ、いったい何を考えながら吹いているのか、目からは哀愁に似たもの悲しさを感じさせた。
静かに内に秘めた感情を曲に乗せるような演奏についつい足を奪われて路地に入った。
路地には私と男しかいないが、彼がこちらに気づく気配はない。その意識はすべて横持ちの笛に注がれているのだろう。
演奏が終わると、知らず知らずのうちに拍手をしていた。
彼が笛で金を稼いでいる人なら、多少の銭を投げたりしたほうがいいのかもしれないが、あいにく今は米一粒を買うお金さえない。
拍手を続けていると、ようやくこちらに気づいた男が会釈してきて、目が合った。
栗色の少々陰りのある瞳だ。目が合った瞬間、私の頭の中に男の名前が鮮明に表れた。
「ギン⋯⋯ですか」
「まさか⋯⋯セシルか」
男のほうも私の名前を呼んだ。
やはり間違いない。この演奏者は昔、私とレナンとともに3人で先生のもとで勉強していたギンに違いない。
思い返してみると、彼は昔から芸術家気質で、よく私もレナンも彼の描く絵を楽しみにしていた。
あまり音楽に興味がある素振りは見せなかったが、知らない間に絵よりも笛に楽しさと美しさを見出したのだろうか。
「久しぶりですよね⋯⋯髪切りました?」
「ああ、お前はあんまり変わってないな。そうか、あの時以来か」
ギンはうなずきながら、しみじみと最後にあった日を思い出すように俯いた。
「ええ、覚えてますよ。珍しく泣いてましたよね。あの日は」
「まあな。もっともお前はあの場の誰よりも泣いていた記憶だがな」
ギンが皮肉めいた笑いを浮かべる。
彼に最後にあったのは、もう4年前のレナンの葬式の日だ。
「そうでしょうか。さすがに両親の方が泣いていたと思いますけど⋯⋯特に父親の方が」
言いながらギンの隣でもたれかかる。
こうして並んで話すのは、子供の時以来だ。
「そーだったかぁ⋯⋯あーそう言えばそうだな。たしかに泣き叫んでた。うん」
「まあ、子が先に死ねば親はああなりますよね」
「間違いないな」
せっかくの再開にしては会話の内容が暗いが、他に話すこともないので仕方が無いのだろうか。
いや、話すことはあった。ギンの手元に。
「ところで⋯⋯いつから笛の演奏を?」
「ん? ああ」
ギンは手元を見ると、私の顔の前に笛を持ち上げた。
樫か何かの笛らしく、指穴がいくつも空いている。
「3年くらい前かな。絵の息抜きとして気晴らしに吹いてたら、こっちにハマってしまってな。今じゃ家の畑を見ながら、暇があれば吹いてるよ。そういえば⋯⋯」
ギンは笛を下ろすと、眉間を人差し指で抑えながら唸った。
「お前ちょっと前に女の子と歩いてなかったか?」
ギンに言われ、記憶を辿る。
アルバのことを女性と勘違いしているのかと思ったが、恐らくはミラと会っていた日のことだろう。
「え? あー、もしかしてあの時何人かで演奏してた中にいたんですか?」
「ああ、やっぱりか。あの時も一瞬見て、もしかしたらお前じゃないかと思ったんだが、今確信したよ。おめでとう。良かったな」
歯を見せながら笑い、ギンは握手でもしたいのか、手を差し出してきた。
「いや、何もめでたくないですよ。あの子とは何もありませんし」
「そうなのか? 俺の見たところじゃ⋯⋯男女が仲睦まじく過ごす時間そのものらしかったが」
「⋯⋯まあ、君が見た時はそうだったかも知れませんね。でも残念ながら振られてしまいました」
自分で言っておかしくなり、頬が緩む。
果たしてあれは振られたのか私が振ったのか。少なくとも、彼女は私を拒みはしなかったはずだ。
「それにしてはあんまりしょげてる訳でも無さそうだな。もっといいことでもあったか?」
「まあいい事はあったかもしれませんけど、彼女は出会ったばかりだったので別に思い入れもないというかなんというか」
「セシルって⋯⋯見かけによらずキツイこと言うよなぁ⋯⋯」
「えぇ!? そうですか? そんなことないと思いますけど」
「いや、その台詞その娘が聞いたら悲しむと思うぞぉ」
腕を組みながら、諭すようにギンが言う。
「そ、そうですか⋯⋯気をつけます」
雨が徐々に勢いを増している。
このままここに居続けると、本当に風邪をひくかもしれないが、もう少しギンと居たかった。
「ギンはなにか無いのですか。そういうおめでたい話」
壁にくっつけた腰がどうもしっくり来なかったので、少し持たれる場所を探した。
「あー、俺の1番の興味はこれだからな。残念ながら俺自身には無いな。姉に3人目が出来たくらいだ。俺が言うのもあれだけど、子供はいいぞぉ」
「ほんと⋯⋯君が言ってもって感じですね」
ギンと話していると、それだけで心が安らぐ。
アルバといる時とはまた違う、友人に対する情や温もりといったものがそうさせるのだろうか。
「まあ、俺達もお互い独り身なら、そろそろ親孝行してやらないとな」
ぽんっと肩を叩かれ、母親のことを考えてみた。
あの人が今私に求める親孝行なんて、きっとろくでもないことに違いない。
私が結婚し、子を作ることが孝行だとしたら、きっと母が死なないと孝行はできないだろう。
「そーですね⋯⋯」
天気とは対称的な、乾いた返事が自分の口から出たことに少し戸惑いながら、私達は子供の頃の思い出話に花を咲かせた。
ギンが先生に怒られたことや、ふたりでレナンにイタズラして泣かせたことや、レナンに連れ回されて迷子になったことなど、話す内容は枚挙に遑がない。
よほど話し込んで時間が経っていたのか、雨雲はどこかへ去り、雲の隙間から青い空が垣間見えた。
「じゃ、俺はそろそろ行くよ」
ふたりで空を見た後、ギンが手を上げた。
「ええ、ではまた」
「ああ、またな。今度は酒でも飲むか」
「いいですねぇ。酔っ払ったらその時はお願いします」
「いいだろう、じゃあな」
背中を向けて立ち去るギンに手を振った。ギンは路地を更に奥に進んでいき、私は反対に来た道を戻った。
帰って早くこの濡れた衣服を着替えたい。明日はアルバと共にまた森に行くのだ。
家に帰ると、玄関に彼らの靴があった。出かけなかったのだろうか。普通に歩けば開門から森へ行くだけでもそれなりの時間がかかるので、見つけて帰ってきたとは考えにくい。
「おかえりなさい⋯⋯って、ずいぶん降られましたね」
偶然通ったのか、目を丸くしたユイに出迎えられた。まさかギンと帰っている途中に雨が本降りになるとは、ずいぶんと運が悪い。
「もう脱いじゃってください。今着替えと拭くもの持ってきますから」
「ああ、ありがとう」
いわれるがまま服を脱ぎ始めると、慌ただしく廊下を駆けていった。
不意に、母が元気だったら廊下を走るなんて間違いなく許さないだろうなんて考えてみたが、そんなことはどうでもよかった。
「さあどうぞ」
戻ってきたユイから手拭いを受け取り、まず顔を拭いてから湿ったからだを拭った。
「そういえば、アルバ達は出かけなかったのかい」
「ええまあ、雨ですし取りやめになったんじゃないでしょうか。あの方随分と寝ていらしたようですし」
「あの方って、アルバが?」
「はい。朝食を届けたっと期はまだ寝ていました」
ユイの報告で、自然と頬が弛緩し、安心感が沸き上がった。
そうか、アルバは寝ていたのか。毎晩うなされていたということは、朝早く起きるのも辛かっただろう。
そんな彼が寝坊するとは、まさしく喜ばしいことだ。
「どうしたんですかセシル様」
「ん? なにが?」
「なんだか少しうれしそうだったので」
「うーんまあ、うれしいのは間違いないです。我が家でくつろいでいただいてるわけですし」
「そうですね。それは確かに」
納得したようにうんうんと首を振りながら、ユイは笑みをこぼした。
「ふたりには迷惑かけるけど、まあよろしく頼むよ」
「はい。お任せください」
ユイの笑顔を見ながら、そろそろ彼女とタオのために。お見合い相手でも見つけてあげるべきなんじゃないかと思った。
そしてなんだか、胸の中を冷たい空気が辿った。まずは自分が結婚相手を見つけろという、本能の警告なのだろうか。




