第三十四話 策士の打ち手
「……貴方は、明日はあとから合流するのよね? 今夜はアッシュヴァルツ邸には?」
リーゼが王女として扱われる場ではどこに行くのにもガイウスが隣にいないことはなかった。
リーゼの確認をどう受け取ったのか、ガイウスは表情を変えずにすんなり頷いた。
「王女の潔斎中に一時王都の邸に立ち寄ることはできるが、夜間のリーゼの不在を気取らせないためにもすぐに春の宮に戻ることになるだろう。私やコルベラらは予定通り明日まで春の宮に残って、王族の移動隊列に同行することになる」
「明日の出発の際に、王女の大神殿先行を明らかにするよう、陛下に申し上げて。背格好の似ている侍女に私の衣を着せるのも許可しないわ」
「……リーゼ、それでは近衛隊列より先に大神殿に刺客が向かう危険性があると何度も――」
「私も何度でも言うわ。貴方たち側近を犠牲にして自分の保身に走るような、あの卑劣な女と同じ真似を、貴方は私にしろというの?」
リーゼはガイウスを睨み据えた。こればかりは絶対に譲る気はなかった。
そんなことをするくらいなら大神殿に先行する計画そのものに乗らないと聞く耳を持たないリーゼに屈して、既にアッシュヴァルツ一等爵は「リティーツィア殿下はユ―リア様によく似ておいでだ」というひと言とともに譲歩の姿勢を見せている。
ガイウスだけがずっと「王女の身柄の行方は王族が大神殿に揃うまで伏せるべきだ」と今日まで反対し続けていた。
「ガイウス。……お願い。分かって。側近を犠牲にして得た栄誉を、私はユスやお母様に胸を張って誇れない」
ずるい言い方だ。
リーゼは知っている。母ユ―リアを引き合いに出すと、ガイウスはいつも強硬な姿勢をわずかに綻ばせる。
ガイウスの中のユ―リアはそれほど大きな存在なのだろう。
ユ―リアの娘のために、王女専用の馬車に主席側近として同乗する囮役を、自ら引き受けようとするくらいに。
「ガイウス」
お願い、とガイウスの手を捧げ持つ。慌てたようなガイウスの声が降ってきた。
「分かった。分かったから、そんなことをするのはやめてくれ……」
顔を上げると途方に暮れた表情でガイウスがおろおろしていた。
普段冷静で理知的な彼のこういう態度は珍しい。リーゼに頭を下げられるのがそれほど嫌だったのだろうか。
「……基盤祈術陣に、ありったけの祈力を補給していくわ。だから、貴方たちは、全員無事で明日もう一度私の前に揃いなさい。私が成人の儀を無事に済ませるのを、側近に許された特等席で見届けなさい。そうでなければ許さないわ。主の命令の聞けない不忠の輩は、金輪際私の側近として認めない、から」
分かったわね、と続けた自分の声が掠れて震えるのを、リーゼはどうにもできなかった。
ガイウスははっとしたように目を見開いて、コルベラが宥めるように背を撫でてくる。
部屋に居合わせた侍女たちも集まってきて、口々にリーゼに慰めの言葉をかけた。
刻限のぎりぎりまで基盤祈術陣の間にこもって、祈力を祈術陣に注ぎ、夕陽の差し込む自室で侍女に見送られて、リーゼはガイウスだけを連れて階下の一室に身を滑り込ませた。
そこで上級女官の仕着せに着替え、なんだか懐かしい感じのする染め粉で手早く髪を染めて、暗褐色に染まった髪を目深に被った帽子に収める。
不安げな眼差しをするガイウスにわざと明るく笑いかけた。
「どうかしら?」
「……リーゼはどんな格好をしていても美しいが、その装いを似合っているとは口が裂けても言いたくない」
「美しかったら駄目じゃないの。馬鹿ね」
軽口を叩いてみてもガイウスは心配の目線を緩めない。
リーゼは慣れた仕草で片手を差し出した。条件反射のように包み込まれる感覚に、自然に頬が綻ぶ。
「すぐにアッシュヴァルツ邸で会えるでしょう。この先も貴方と一緒にいたら、せっかくの変装がばれてしまうわ。ここからの私は、アッシュヴァルツ一等爵からひと晩の寵愛を受ける下級女官――を装う地方貴族の娘よ」
「やめろ。ぞっとすることを二度と言うな」
そういう設定だというだけのことなのに、苦痛に満ちた顔でガイウスに咎められ、リーゼは肩をすくめてみせた。
王城を先んじて脱するというのはアッシュヴァルツからの提案だが、平民の女官に扮して王城を脱出しようという計画はリーゼの発案によるものだった。
ブロア宮廷には、下級女官と一夜の逢瀬を交わす高位貴族がたくさんいる。祈力差が大きく妊娠させる可能性が限りなくゼロに近いため、手っ取り早く貴族男性が性欲を晴らすには、紹介状がなければなれない下級女官は都合がよいのである。
リーゼは女官時代に女官宿舎の外れで一等爵家の紋章付きの車に下級女官が乗っていくところを何度も見たことがあったし、高位貴族に相手にされるために下級女官の仕着せを借りに来る貴族出身の娘たちに物を用立てたことも何度もあった。
堅物のガイウスはこれまでそんな方法で女を調達したことがなかったらしく、リーゼが語ってみせたときには愕然として理解を拒むように固まっていたが、自身も社交界で浮名を流しているアッシュヴァルツ一等爵は、その片棒を担ぐことにすんなり頷いていた。
「……アッシュヴァルツ卿は、貴方のお父上は、ご機嫌斜めでないといいのだけれど」
「控えの間での側妃とのことか?」
リーゼは苦笑して頷いた。
一等爵もよもやリーゼに真っ向から策を阻止されるとは思わなかっただろう。
彼の顔を潰すかのような真似だった自覚はリーゼにもあった。
「気にしなくていい」
対してガイウスはあっさりと言った。リティーツィア命のガイウスだから気を遣っているのかとも思ったが、彼は本当に何とも思っていない顔で首を横に振った。
「父は自分が求める結果を引き寄せるために常にいくつもの手を同時に打っていて、どの道筋が通っても最終的に求める成果を必ず得られるように様々な策を並行して張り巡らせているような男だ。たったひとつ打った手が失策に終わったところで、あの男にとっては数あるうちの手のひとつに過ぎない。今ごろはリーゼの思考傾向を読んで、次に打つべきリーゼに阻止されない形の策を練っていることだろう」
そういうものかしら、とリーゼが言えば、そういうものだ、とガイウスが言う。
さすが長らく国王の右腕として重用されてきた策士だ。小娘の反抗などさしたる脅威とも思っていないのかもしれない。
ガイウスと別れてひとりで廊下を進み、勝手知ったる女官宿舎の一室で今度は下級女官の仕着せに着替え、それまで着ていた上級女官の仕着せを処分してから、リーゼは帽子を目深に被って宿舎にほど近い使用人の門を出た。
少し離れたところで四頭立ての馬車がステップを下ろすのを見つけて近寄っていくと、中から出てきたアッシュヴァルツ一等爵が「どうかお口を開かれませんよう……」と耳元で囁きながら、リーゼを抱き寄せる。
息を詰めながら慣れた手つきに身を任せ、恋人同士の睦言のようなものを聞き流しながら座席に乗り込むと、扉が閉まるなり窓のカーテンを閉めて一等爵はリーゼから身体を離した。
車輪が動き出す振動とともにその場で深くこうべを垂れる。
「リティーツィア王女殿下、御身に許しを得ずに手を触れた無礼をお許しください」
「……よろしくてよ、アッシュヴァルツ卿。なかなかの演技力だわ。あまりに手慣れていたから、誰も貴方が王女に迫っているとは思わなかったことでしょう」
いつも下級女官に手を出していることは知っていると言外に告げるリーゼに静かに笑って、一等爵は降参というように手のひらを開いてみせた。
「貴女に迫るような真似をすれば、私は明日にでも息子に家督を譲らされることになりかねません。先の私の振る舞いについては殿下にお口添え願いたく……」
「……口添え? 何のことかしら」
目を瞬いたリーゼに、一等爵はくつくつと喉の奥で笑った。
「お気づきになりませんでしたか。我が息子が城門の上から我々を見ていたのです」
リーゼは呆れ返ってため息をついた。ついてくるなとあれほど言ったのに。
「貴方の息子はまったく仕方のない男ね……」
「それほど殿下のことを案じているのですよ。貴女を私の一夜の恋人に装って城から連れ出す案を、あれは殿下のご助言なしには絶対に受け入れなかったでしょうから」
「わたくしはどれほど毎日幼子に言い聞かせればあれほどの忠義の男が育つのか、一度卿に尋ねてみたいと思っていたところよ」
「忠義と」
一等爵はもう一度くつくつと喉を鳴らした。訝るリーゼにおかしそうに黒っぽい色の目を細め、ガイウスによく似たうっとりするほどの美貌に笑みを載せる。
この父子は美男子親子としてブロア宮廷に名高いのである。縁談の的になるのはガイウスだが、一夜の遊び相手ならこの一等爵のほうが挙げられることが多い。
「我が息子はなかなか甲斐性のない男だったようです。殿下におかれましては寛大な御心を賜りますよう」
「……何のこと?」
甲斐性? 寛大? 眉を寄せるリーゼをついに一等爵は声を上げて笑い始めた。
カーテンの隙間から窓の外を覗いてさらに笑って、怪訝にするリーゼに何でもないと首を振る。
それから底なし沼のような深い双眸をじっとリーゼに向けて口を開いた。
「……私は三人いる息子の中でも群を抜いて優秀だった長男を、早くから後継者と定めて教育を施して参りました。しかし、下の息子ふたりも長男ほどの才には恵まれずとも、能力としてはあとを継がせるのに十分なものを備えています。一等爵家の後継ぎを交代させる程度のこと、当家にはなんの支障もございません」
リーゼは一等爵を見つめ返した。
逸らされる気配のない目は、リーゼをまっすぐ覗き込んでくるガイウスのそれとよく似ていた。
リーゼはたっぷり間を置いてからため息を吐き出した。
「…………何のことかしら」
からからと笑うだけで一等爵はその問いには答えなかった。
リーゼも一等爵から視線を外して、それ以上口を開かなかった。
どういう意味かなんて考える必要もないことだ。
――本当に、策士だこと。
これもいくつか打っているうちの手のひとつで、今回から打ち出された新たな策なのだろう。
ひとつの失敗に拘らずに次の手に移る切り替えの早さは、貴族社会で武器になる強かさだ。
その強かさを身につけたくはないと思いながら、リーゼは開けるわけにいかないカーテンに向こうに想いを馳せた。




