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第三十五話 放たれた火

 アッシュヴァルツ一等爵が自ら身分証を示して城門を抜けた馬車は、誰に見咎められることもなく貴族街を走って、無事にアッシュヴァルツ邸に行き着いたらしい。

 リーゼが車寄せにつけられた馬車を下りたとき、ガイウスは既にアッシュヴァルツ邸に先回りしていた。


 ガイウスによって本邸の客間に案内され、下級女官の仕着せを着替えて髪の染め粉を落としていると、家令が一等爵からの夕食の誘いを持ってきた。

 昼からほとんど何も食べていない、というか食べたものをすべて吐かされたリーゼは、胃に優しい献立を用意するので食べられそうなものだけでもという一等爵の気遣いをありがたく受け入れることにして、まるで本当に潔斎に臨んでいるかのような菜食中心の料理を少しだけ腹に収めた。


 リーゼが夕食を済ませるところまで付き添ってから、ガイウスは慌ただしく春の宮へと戻っていった。

 やけに足が速いと思っていたら、軍用馬に鞍乗りで追いかけてきたらしい。馬車で移動していたリーゼたちより先に邸に着けていたはずである。

 剣を使える文官というだけでも才能に恵まれているのに、騎馬剣術の心得まで持ち合わせているという息子自慢を、リーゼはアッシュヴァルツ一等爵直々に聞かされることになった。


 湯浴みを済ませて寝台に入っても、リーゼはなかなか寝つけなかった。


 夜も更けて邸中が寝静まって、何度も寝返りを打って目を閉じて、それでも眠りの気配はやって来ない。

 いっそ自分で安息や夢見を司る神々に祈って祝福を賜ろうかと、とりとめのないことを考えてしまうのは、どこか不安を掻き立てる胸騒ぎに自分でも気づいていたからだった。


「――リーゼ。すまない、起きてくれ」


 そう声をかけられて跳び起きたのは、ようやくうとうとと意識が浅い眠りに落ちかけていたというころだった。


 いるはずのない人間の声にどくんと心臓が鳴る。

 暗がりで自分を覗き込む人影に目を凝らして、リーゼは震える手を伸ばした。


「ガイウス……どうして、」


 ここに、という問いは掠れて音にならなかった。

 ガイウスはリーゼを宥めるように手を握り込んで、手元の灯りの祈術具を少しだけ持ち上げた。

 橙色の光に照らされたガイウスの表情は、いつもよりずっと張り詰めていた。


「すまない。説明している余裕がない。今すぐここを出発する。これを」


 ガイウスはいつも単調な喋り方をするが、今日の声色は強張っていて少し早口だった。

 フード付きの真っ黒いマントを頭から羽織らされ、裸足を革製のブーツに突っ込んで、母のロケットを枕元から引っ掴み、顔を洗うことも髪を梳かすことも許されずに小型馬車に押し込められる。

 近くに数人の見慣れない装束の騎士が軍用馬に跨っていて、よく顔を見ると見知った春の宮付きの近衛騎士の面々だった。


「出せ」


 どういうことかと問う間もなく隣に乗り込んできたガイウスが御者に短く命じ、リーゼが乗ってきたどれよりも荒っぽく馬車が発進した。

 座席でひっくり返りそうになったリーゼを受け止め、ガイウスは方陣を何枚も取り出して、祈術陣をいくつも発動させていた。


「……あの、ガイウス」


 口を開いていいものか分からなくてフードの中で身じろいだリーゼに、ガイウスは幾分冷静な視線を向けた。

 繋いだ手に少しだけ力が込められる。その手は熱く汗ばんでいた。


「性急な真似をしてすまなかった。車内に結界祈術を張った。この中にいれば安全だ。何があってもおまえはここから出るな」

「何があっても……って」


 何があるというのだろうか。寝起きのまま連れ出されてあまり頭が働かない。

 リーゼが混乱していることが伝わったのか、ガイウスはゆっくりとひとつ息をついて口を開いた。


「……王城に火が放たれた」


 ひく、と喉が上下した。

 恐れていたことが起こってしまった。

 呼吸の仕方を忘れて硬直したリーゼに、ガイウスが「春の宮は無事だ」と急いで言った。


「無事……本当に? 皆は無事なのね?」

「本当だ。リーゼの祈力の結界が内側を守っている。相当祈力を使って基盤祈術陣に溜め込んできただろう。鎮火までは十分もつはずだ」

「そう……。でも、それなら」


 ガイウスはなぜこんなに急いでリーゼをどこかに連れていこうとしているのだろう。

 リーゼの疑問を引き継ぐように、ガイウスは険しい顔をさらに顰めた。


「初めに火をつけられたのは春の宮の付近だったが、今回は八年前と違って結界祈術に阻まれて宮自体に火は及ばず、近衛騎士が控えていたためすぐに消し止められた。……それが気に入らなかったんだろう。すぐに内宮の多数の場所から火が上がった」


 基盤祈術陣の書き換えは祈力を大量に消耗するため、ユスブレヒトの行方が分からなくなって以降は遅々として進まず、居住者のいない秋の宮と第一王子が管理する冬の宮、それから外宮のほとんどはまだ結界祈術を備えていない。

 今は騎士団が消火に当たっているが、内宮中に無作為に祈術陣を敷いたのか、火が広がるほうが早く、内宮全体が火に包まれる前に内宮の居住者も避難したほうがいいという意見が持ち上がった。


「……それは、本当に第一王子派の手によるものなの? 自分の住まいまで燃やしてしまったら本末転倒ではないの」

「春の宮と夏の宮は結界祈術で守られている。今回のことで仮に春の宮の主を害することができずとも、なし崩しに夏の宮に戻る腹積もりだったのだろう」


 夏の宮は王太子が定められるまでは正妃とその子が住むことが許される。

 実際ジルヴィーナが妃位を落とすまでは彼女とジオルクは夏の宮に住んでいたし、闇の側妃の居住宮である冬の宮への移動を命じられた際の彼女の抵抗は凄まじいものだった。

 ガイウスが王城を抜け出してくるときにも、既にライドルフに「冬の宮に及んだ炎が怖いので夏の宮に匿ってほしい」と早速ねだっていたほどだ。


「……内宮全体が避難することになれば、春の宮から避難した人間の中に私がいないことが明らかになるわね」

「既に冬の宮に第一王子がいないことで問題になっている」


 もっとも、放蕩王子と名高い第一王子が夜ごとに宮を抜けて貴族街の夜会に繰り出していることは皆が知っている事実なので、問題視はされていても重要視はされていない。

 普段は真っ先に騒ぎ立てるはずのジルヴィーナが、自らジオルクの居場所は自分が把握していると宣言したこともあって、さしたる大事ではないと打ち捨てられた。


 そのジルヴィーナは、一方でなぜか王女リティーツィアの安否をしきりに気にかけていて、火が上がっているのに姿を現さないのはおかしいと春の宮を確認するよう何度もライドルフに進言していた。

 リーゼの不在を既に知っているライドルフはけんもほろろに「春の宮は安全だ」「リティーツィアは潔斎中だ」とあしらっていたが、内宮に避難命令が下されればリーゼが王城を離れていることが露呈するのは時間の問題だ。

 王都から大神殿に向かうための街道すべてに刺客が配置されてしまえば、リーゼは大神殿に行き着けなくなってしまう。

 ガイウスが予定を大幅に繰り上げてリーゼをアッシュヴァルツ邸から連れ出したのは、そうなる前に逸早く大神殿にリーゼを送り届けるためだった。


「途中で大神殿側から遣わされた聖騎士の部隊と合流することになっている。こちらは目立つのを避けるために少数だが、向こうと合流できれば戦力は申し分ないものになるだろう。……それまでは私がリーゼを必ず守る。少しの間辛抱してほしい」

「分かったわ」


 寝ているところを叩き起こされて寝着のまま引っ張り出されたというのに、最低限の状況説明だけで聞き分けよくこくりと頷いたリーゼに、ガイウスのほうがよほど狼狽えた。

 本当に理解しているのかと懐疑的に横顔を窺う。リーゼは固い表情で前方を見据え、がたがたと酷く揺れる狭い座席の上で王女らしく姿勢を正した。


「狙われるのは分かっていたもの。私も護身用の祈術は習得しているし、今は貴方がいるでしょう」

「……信頼には応えるつもりだが、私は専門文官職で、これまでは作戦行動ではなく作戦指揮を取る立場を求められてきた。祈力は腐るほど持っていても、戦闘能力は騎士に劣る」

「それでいいのよ。――人買いに攫われそうになっても、街の巡回警邏に助けを求めたら出自が露見するかもしれなかったときより、王女の命を救った褒賞を与えるから助けなさいと言える今のほうがずっとましだわ。誰にどれほど褒賞を与えればいいのか、代わりに考えてくれる貴方が隣にいるもの」

「リ、――」

「だから、大丈夫よ」


 リーゼは緊張をほぐそうとしてか冗談めかしてすらみせたが、ガイウスは言葉を失っていた。

 どういうことだとその肩を掴んで揺さぶりたい気持ちに駆られかけ、今はそんな場合ではないと思い直してこぶしを握る。

 どういうことも何も、自分たちが打ち捨ててきたものの結果だと、そんなことくらいとっくに分かりきっている。


 しばらく走り続けた馬車は、そのうち整備された街道を抜けて、舗装状態の悪い道へと入ったらしい。

 窓の外を覗くわけにはいかないので、経過時間でだいたいの距離を測り、場所に見当をつけてガイウスはそっと息をつく。王都を過ぎて林道に入ったのだろう。


 悪路で馬車の振動が大きくなり、隣で小さく悲鳴を上げたリーゼが体勢を崩すのを、腕で支える。

 大丈夫かと尋ねて大丈夫と答えるリーゼの口調は気丈で、それでも隠しきれない不安が、胸のところで握りしめられたこぶしに現れていた。車輪の軋む音や馬の蹄の音にいちいち肩を強張らせている。


「リーゼ」

「……ごめんなさい。黙っていると、落ち着かなくて」

「何が気になっている?」

「その……大神殿からも迎えが向かってきているのよね? 私たちはどの辺りまで来たのかしらと思って……」

「王都から北に続くルビン街道を抜けて、シャルラッハ林道に入ったところだろう。林道の先の橋で大神殿の聖騎士部隊と合流することになっている。もう少しだ」


 ――馬車を衝撃が襲ったのは、そのときだった。



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