第二十九話 歌い鳥と伝書鳥
その日からリーゼは八年ぶりの『リティーツィア』としての生活に否応なく追い立てられることになった。
初めの数日こそ自室の整理と称して春の宮に引き籠もっていることもできたが、そのうちアッシュヴァルツに擁立される新たな王女を宣伝したいアッシュヴァルツ一等爵によって王都中の茶会や晩餐会や夜会に引っ張り出されるようになり、父王も頻繁に謁見や公務にリーゼを呼びつけては隣に置いて諸侯や来賓に見せびらかした。
王城に上がったその日にライドルフから自室での晩餐に招かれ、溢れるほどの宝石や装飾品が贈られたことは既に宮廷中に知られていて、『死んだと思われていた元愛妾の娘』はあっという間に『綺羅星のごとく現れた国王の寵愛深き王女』として認識された。
リーゼが王女と認定されてから半月と経たず、春の宮には王女と繋がりを得たい貴族家からの招待状や献上品が山ほど届けられるようになった。
社交や公務のない時間はガイウスや文官から教わりながら宮の管理を采配し、学者やメーア老師の下で足りていない教養や学識を身につけ、春の宮の一階に設けられた礼拝用の祭壇室での祈りも朝晩欠かさないよう義務づけられた。
そのうえ近衛騎士たちによる自衛用の祈術や乗馬の訓練も足され、毎日のように欠乏直前まで祈力と体力を使わされて、リーゼはアッシュヴァルツ邸でのガイウスによる教育がどれほど甘かったのか思い知ることになった。
半月が過ぎて側妃ジルヴィーナの蟄居が解かれる日が近づいてくると、食事に毒物が仕込まれたり、贈り物の中に動物の腐った死骸が紛れ込んだりするようになった。
第一王子を擁立する派閥からの攻撃が始まったのと張り合うように、ライドルフが春の宮付きの近衛騎士を増やして、リーゼに公務を命じたり自室に招いたりする頻度が増え、リーゼが宮の外を出歩くときは前後左右を騎士に囲まれて非常に物々しいことこの上ない有様だった。
初めに自衛用の祈術を覚えさせられたのはこういうことかと、リーゼは心底うんざりしてしまった。
「御身の安全を思うがゆえでしょう。国王陛下のご寵愛は御身を守る盾ともなりうるもの。天父神の加護は誰しもが得られるものではありませんからな」
そんなリーゼを、メーアは穏やかに窘めた。
今はメーアによる聖典講釈の授業の時間である。リーゼの事情を知る数少ない側近ということもあって、ガイウスの計らいでメーアの授業にはコルベラ以外の付き添いは排されている。
リーゼは普段より少しだけ気を緩めた仕草で「分かっています」とむくれた。
「……ですけれど、メーア老師様。仮に、天父神のご加護が、賜った人間にとっては祝福ではなく、呪いのように思われるものだったとしたら、それでもご加護を与えられた人間は、天父神の導く星の下に感謝し続けなければならないのでしょうか」
比喩にこめた意味を察し取ったのだろう、メーアは白い口髭を微かに揺らして、リーゼが睨みつけている聖書の写本をそっと閉じた。
顔を上げたリーゼに眦の皺の奥でゆるりと笑む。
「お父上を厭われるお気持ちは、消えませぬか」
「……国王陛下のことだけではないのです。わたくしの……私の心は、既にこの宮廷と同じく、渾沌と混迷の神に魅入られてしまっているのです」
リーゼの告白をメーアは静かに聞いていた。
彼も知っているはずだ。リーゼがライドルフに取り入る形で母の仇であるジルヴィーナを陥れたことを。
息を引き取る寸前まで「誇り高く生きなさい」と諭し続けた母の願いを裏切って、私欲と私怨で誇りを汚すような真似をしたことを。
それでもメーアは、今まで一度もそのことに言及することはなかった。
アッシュヴァルツ家門の貴族やリーゼの側近たちが、まるでリーゼが偉業でも成し遂げたかのように口々に持て囃すのを、静かにガイウスの隣に並んで見つめながら、彼自身はリーゼを咎めも褒めも慰めもせず、きっとリーゼが自ら口にするのをずっと待っていた。
「老師様も、幻滅されたことでしょう。卑劣な私を、聖樹のお導きの下にいらっしゃるお母様も、きっと嘆いていらっしゃる――」
「――王女殿下」
はたとリーゼは口を噤んだ。
メーアが皺だらけの手でリーゼの手を包み込む。
メーアは辺境の神殿にいたころ、既に国王の娘としての尊厳すらほとんど持たなかったリーゼのことを、ずっと「リティーツィア姫」と呼んでいた。
王城に来てから、彼は初めの一度の他は、もうリーゼのことを「姫」とは呼ばなくなった。
メーアにとってリーゼはもう「王女殿下」なのだ。メーアは、寄る辺のないリーゼとユーリアを隠して守る庇護者ではなく、リーゼに王女としての在り方を諭す帯同神官なのだ。
「王女殿下にもたらされた混沌を、光によって晴らすも、闇の中に封じ込めるも、はたまた天父神の星の下に身を任せるも、すべては王女殿下の御心次第です」
「私は既に、混沌の手招きに誘われるがまま、自らの誇りを手離してしまったのです。老師様」
「貴女は誇りを手離してなどおられません」
メーアは穏やかな口調ながらもはっきりと断じて、リーゼを見つめていた。
「誇りを手離した方は、自らが混沌の手招きに誘われたことを、そのように後悔することもありません。……貴女が見失った誇りを、探し出して再びその眼に映すことができるのも、貴女のこれからの御心次第です。リティーツィア王女殿下」
告げる言葉の最後の部分だけ、メーアは厳しい目と声色をした。
親切にしてくれた昔馴染みの老神官とは違う、王族の王位継承権を見定める大神殿の神官としての威厳に、リーゼの胸の奥がすうっと冷える。
それでも、リーゼの手を包む皺だらけの手は、どこまでも優しく温かいままだった。
「……天父神の星のお導きに、少し目が眩んでいたようですわ。それとも太陽の加護の下にありながら、夢見と眠りの女神の腕に抱かれていたのかしら? 老師様、名もなき少女の繰り言はどうか、老師様のお心の内に秘めておいてくださいな」
顎を持ち上げて唇を引き、王女然とした笑みを浮かべたリーゼに、メーアも心得ているというようにゆっくりと頷いた。
遠くで鳴った時を知らせる鐘の音に顔を上げて、広げていた自らの聖典を腕に抱える。
「本日はこれまでといたしましょう。王女殿下、ご報告申し上げておりました通り、私はこれより大神殿に出向いて参ります。このあとのご用事には副神官が帯同いたしますゆえ」
「ええ。副神官には既にこのあと、国王陛下の宮でのお茶のお招きに同行してもらうよう、ナッハトラウム卿より伝えてもらっています」
夏の宮での茶会、と聞いてメーアは得心したように目を細めた。
リーゼはこれまでも何度も夏の宮に招かれているが、その度にジオルク一行と鉢合わせして絡まれるのは既に恒例の予定調和のようなものになっていた。
ジオルクは母の蟄居を解いてもらうために国王に何度も謁見を求めていて、それが叶わないと知るや、今度は夏の宮に直談判するために自ら通い詰めているというのは有名な話だ。
絡まれる度に繰り返される罵倒と嘲笑を黙っていなす主を慮ってか、リーゼの側近たちはその場では滅多な態度は取らないが、内心ではふつふつと煮えたぎる怒りを堪えていることをリーゼは知っている。
特にユスブレヒトに仕えていたことのある面々は、自分たちが夢をかけていた王子すら侮辱されているのだから、憤慨せずただ耐えろと言うのも酷な話だろう。
春の宮に戻るなり、初謁見のときのジルヴィーナの転落劇の再演を側近たちにはっきり要求されることも、近頃は少なくなかった。
側近の要望に応えるべきか否か、ずっと迷っていたリーゼの中で今日ようやく答えが出たことを、メーアは察したのだろう。
一連の流れを見守るだけで、決して答えを与えようとはしなかった老神官は、晴れて激励するようにリーゼの手を取ってこうべを垂れた。
「天上の神々はいつでも敬虔な祈りを捧げる地上の人間を見守っていてくださいます。王女殿下に変わらぬ神々のご加護がありますよう」
「老師様にも、道中の安全をお守りくださる旅人の守護神の祝福があらんことを。どうぞ最高祭司長によろしくお伝えくださいませ」
リーゼが贈った祝福を受けて、メーアが部屋を退出していく。
リーゼはコルベラにライドルフとの茶会のための身支度を命じてから、入室してきた侍女のひとりにガイウスへの伝言を頼んだ。
「ガイウスに伝えてちょうだい。夏の宮に向かう前に、今日のお茶会に同行するか否かを問わず、手の空いた側近を全員執務室に集めなさい、と。皆に話すことがあります」
リーゼの主席側近の仕事ぶりは確実だった。
リーゼが身支度を終えて衣装部屋を出たころには、宮の警備につく騎士以外のほとんどの側近が執務室に集められていた。
リーゼはガイウスに手を取られて執務机につき、側近たちをぐるりと見渡した。
「王女殿下。側近一同、御前に参じました。ここにいない者には直のお言葉を賜った者よりのちほど内容を伝えさせる予定です」
「そう。ありがとう、ナッハトラウム卿。――集まってもらったのは、近くジルヴィーナ妃が蟄居から明ける前に、皆にわたくしの側近であることの認識を改めてもらう必要があると感じたからです」
リティーツィア王女陣営が最も警戒すべき政敵の、宮廷への復帰を目前に控え、日々緊張感を募らせていた中での旗印からの言葉に、側近たちは各々の感情のままにざわめいた。
リーゼはそのすべてに斟酌せず、敢然とした口調のまま言葉を続けた。
「かの妃が国王陛下より蟄居を命じられたのは、側妃の地位にありながら陛下の定めた秩序に反する無作法を諸侯の前で晒したがゆえのこと。わたくしの謁見の間での振る舞いがそれを助長させた面があることは否定しません。けれど、本来国王陛下の治世がつつがなくあるようお支えすべきところを、陛下の膝元たる宮廷に争乱をもたらすような真似は、栄光あるブロア王室の一員のあるべき姿ではないと心得なさい」
リーゼの発言の真意を察し取ったのだろう、側近の一部が愕然と目を見開いて、それからきつくリーゼを睨み据えた。
彼らはジオルクに対してもジルヴィーナにしたのと同じように宮廷から退けるべきだとリーゼに強く主張していた者たちだ。裏切りに遭ったかのような失望をありありと表情に浮かべていた。
「――では、王女殿下は、かの毒婦と失格王子の、宮廷での専横をみすみす看過するとおっしゃるのですか」
「ジルヴィーナ妃や第一王子が宮廷に混乱をもたらすならば、当然に宮廷から排されるべきでしょう。その混乱に拍車をかけるような愚昧な真似を、王女リティーツィアは自らの側近に許すものではないわ」
悔しそうに顔を歪ませる側近たちを一瞥して、リーゼは嘆息した。
リーゼが側近の扱いを持て余すように、彼らもまた成人間際になってようやく王城に戻された王女に全幅の信頼を寄せているわけではない。
リーゼが積極的にジルヴィーナを敵視し陥れる様は、彼らにとって一縷の希望のように見えていたのだろう。
「――貴方たちは勘違いをしているようね。なぜわたくしが、あのような低俗を絵に描いたような者たちと同じ舞台に降りていって、わざわざ相手をして差し上げなければならないのかしら」
リーゼの露悪的な物言いに、側近からはっとした空気が漏れる。
リーゼはくだらないと思っているのを隠しもせず、冷ややかに側近を睥睨した。
「周囲を飛び回って羽音を立てることしか能のない羽虫は、人を癒し楽しませる歌い鳥にも、使命を帯びて文を運ぶ伝書鳥にもなれないのだもの。羽虫のごとき矮小な存在にいっときでも心を煩わされるほど愚かなことはないわ。わたくしの側近は、ユスブレヒトが示した高みへの志を、わたくしと同じくしているものだと思っていたけれど、期待しすぎていたのかしら。ねえ、ナッハトラウム卿?」
横に控えていたガイウスに含んだ流し目を送ると、側近すべてを統括する主席側近は従順に跪いて面を伏せた。
「崇高な御心を理解せず、見るべき世界を違えた俗物に、御身の側に在り続ける資格はございません」
側近を解任すると同義の台詞に、顔を強張らせた側近たちが身を固くしている。
リーゼは緊迫した空気の中であえて軽やかに笑った。
「相変わらずの忠義ね。貴方はいつも極端だわ。皆とわたくしの間に少し心得違いがあっただけのこと。――そうでしょう?」
ころころと笑い飛ばしながら、ゆったりと視線を巡らせる。
強張った顔つきと張り詰めた空気が少し緩み、側近たちは一様に深く低頭して礼を取った。
正妃の立場にありながら愛妾に夫の寵愛を奪われたジルヴィーナと、今後二度と実父から期待をかけられることのないジオルクに対する、これ以上のない痛烈な皮肉は、鬱憤を溜め込んでいる側近たちの胸中に清風を吹かせる程度の効果はあったらしい。
もう誰からも反発の声は上がらなかった。
「もう秋だというのに、夏の宮では今日も羽虫が飛び回っているかもしれないわね。よもやわたくしの側近に、まだ羽音に気を取られて心を向ける先を見失うような者はいないと思うけれど」
王女殿下の仰せの通りです、と答えるガイウスと、倣って拝礼する側近の姿に、リーゼは満足げに頷いてみせた。




