第二十八話 弟の隠し小部屋
いつの間にかユスブレヒトの寝室まで来ていた。
対外的にはこの訪問は『八年ぶりに再会する病に臥せった弟の見舞い』であり、宮外の人間にユスブレヒトの部屋にリーゼが出入りしていること、延いてはユスブレヒトが存命であることを示す意味合いがある。
外から自分の姿が見えるように窓辺に寄って、自分の存在を見せつけるようにカーテンを少し開け、外を行き交う使用人や貴族がユスブレヒトの部屋に王女リティーツィアの存在を見つけてくれるのを待って、リーゼはきっちりカーテンを閉めきった。
「それにしても、随分と綺麗にしているのね。主がいない部屋だとは思えないわ。わざわざ整えさせたの?」
「主がいないわけじゃない。留守にされているだけだ。いつ帰られてもいいように整えておくのは留守を預かる側近の務めだ」
目を丸くするリーゼに、ガイウスは真面目な顔をして当然のように言いきった。
……帰る、と思っているのだろうか。
誰も彼もが既にユスブレヒトに期待をかけるのを諦めて、リーゼにその代わりを望んでいるのに、ガイウスはまだ、ユスブレヒトが生きていると信じてくれているのだろうか。
リーゼが尋ねたときは、分からないと一刀両断したくせに。
「……ありがとう。愚直に過ぎる気もするけれど、ユスに代わって、礼を言わせて」
愚直な男は何ということもないというように頷いた。
リーゼは名残惜しむように部屋をもう一度見回してから、ごく軽い声色で「そろそろ戻るわ」と告げた。
「もういいのか」
「王城入りしたばかりでやらなければならないことがたくさんあるもの。また来られるのだし、毎日でも通ったほうがいいのでしょう?」
同じ階の隣り合う部屋に暮らしていて、寝台から起き上がれない同母の弟を姉が見舞わないでいるのは明らかにおかしい。
元からある第二王子死亡説はともかく、不仲説など囁かれようものなら、王城中を練り歩いて噂を否定して回らなければならなくなる。
リーゼはユスブレヒトの気配に満ちた部屋で感傷を断ち切るように踵を返した。
何の気なしに扉に向かいかけて、ふと壁の一角に目が留まる。
そこが気になった理由はよく分からなかった。
誘われるように、壁に手のひらを触れていた。
触れた部分から祈力がひとりでに吸い出されていく。
壁に扉のような輪郭が滲むように光を帯び、ゆらりと形を変えていく光景は、基盤祈術陣の間に入るときの出入り口を隠す祈術を彷彿とさせた。
「リーゼ」
ガイウスが足早に近づいてきてリーゼに並ぶ。
ふたりで淡く光を放つ扉の前で立ち尽くしていた。
扉は靄がかった薄い膜のようになっていて、その向こうには四方を壁に囲まれたこぢんまりとした小部屋が見えていた。
ひとり用の寝椅子と背の低いテーブル、それだけで床が見えなくなってしまうほど狭い部屋だ。
思いきって薄膜に足を踏み出した。
リーゼ、と後ろから制止の声がかかるが、リーゼはあまり警戒していなかった。その必要はないと直感していた。
ユスブレヒトの部屋だからだろうか、なんとなくリーゼは、この薄膜の奥の小部屋に招かれているような気がした。
リーゼが薄膜を抜けて小部屋に入ると、ことん、と何かが転がるような音がした。
視線を落とすと、テーブルの上に先ほどまでなかったはずのものが載っている。
「……祈力石、かしら?」
拾い上げた瞬間、弾けるように緋色の光が広がった。
同時に懐に収めていたロケットが熱を持つ。
慌てて取り出すと、緋色の光は吸い込まれるようにロケットに消えていった。
手の中の祈力石は、色を失ってただの空石になっていた。
もしかして、と戸惑うままにロケットの上蓋を開く。
元々嵌め込まれていた石は、とっくに祈力を失って、濁った色石でしかなかったはずなのに、今は鮮やかな深い緋色の祈力を湛えていた。
――謁見の間で感じた、ユスブレヒトの祈力の気配と、同じだ。
「ガイウス――」
ともかく博識な主席側近なら何か分かるかもしれないと頼ろうとして、そのまま小部屋を出たところで、薄膜が霧散するように消えた。
リーゼが振り返ったときにはそこは何の変哲もない壁に戻ってしまっていた。触れても祈力を流し込んでも、見えない入り口が光を帯びることはない。
「リーゼ。大丈夫か」
「ええ……それより、小部屋が消えてしまったわ。あの部屋は何だったのかしら」
「あの部屋は以前、ユスブレヒト殿下がときどきひとりになりたいとおっしゃって、おひとりで使われていた部屋だった」
ガイウスがあまり驚いていなかったので、知っているだろうと思っていた。案の定すんなり教えてくれたが、彼もどこか思案するように目を伏せている。
「基盤祈術陣の管理者の権能によって作り出された空間だ。ユスブレヒト殿下が基盤祈術陣に祈力を満たしていたのが一年も前だったことを考えれば、とっくに維持するための祈力が尽きて消えていてもおかしくなかった。今まであの小部屋が存在を保っていたほうが驚くべきことだ。……いや、よく似たリーゼの祈力を取り込んだからこそ、入り口が開いたと考えるべきかもしれないが」
「小部屋に入ったら、いきなりこの祈力石が現れたの。触った途端、ロケットの祈力石に祈力が移ってしまって……」
空石を握り込む。リーゼは確信を持って、ガイウスを見上げた。
「これはユスの祈力だわ」
「……これほど濃密に染めるほどの祈力が、少しも流れ出すことなく、一年も放置された石の中で留め置かれているはずがない。どれほどの硬度を持つ祈力石であっても、祈力の流動と発散の性質をゼロにすることはできないはずだ」
「嘘じゃないわ。これはユスの祈力よ。分かるの。まるで、ユス自身がここにいるような……強い気配を感じるのよ」
一生懸命に言い募るリーゼを、ガイウスは静かに、けれどもけっして呆れたり馬鹿にしたりせずに押し留めた。分かっているというようにゆっくり頷く。
「リーゼを疑っているわけではない。……ユスブレヒト殿下が、王城に上がったおまえに気がつかれた話をしただろう。あのときの殿下も、今のおまえと同じようにおまえの存在に確信されていた。祈力の属性や特質のよく似ている双子の姉弟の間では、互いに通じ合うものがあるのかもしれない」
そのときの話はガイウスから何度も聞いていた。が、反対にリーゼは、下級女官時代にユスブレヒトの気配を感じ取ったことはなかった。
ユスブレヒトが出歩けば人だかりができるので、第二王子の熱烈な追っかけと周囲に思われていたリーゼが弟の存在に気がつかないことはなかったが、ユスブレヒトの祈力の気配や存在感をこれほど強く感じることは一度もなかった。
「……リーゼの祈力の封印を、解いたからかもしれない」
「このロケットはどうしたらいいのかしら? ……陛下に、お渡ししたほうがいいのかしら」
リーゼにとってユスブレヒトは唯一無二の家族だが、ライドルフにとっても自分が最も可愛がってきた息子だろう。
ロケットに移り込んできた祈力はその忘れ形見のようなものだ。知ればきっと手元に置いておきたいと思うに違いない。
「今この部屋でそのロケットのことを知っているのは私とリーゼだけだ。陛下が春の宮の管理者であったこの一年、ユスブレヒト殿下が隠された小部屋が入り口を開くことはなかった。……殿下のご意志は、姉君の許にあるのだと、私は思う」
手のひらに載せたロケットと空石を、ガイウスがリーゼの指先を包むようにして握らせる。
秘密にしてくれるということだ。
リーゼはロケットをぎゅっと胸に抱きしめてから、懐に空石と一緒にしまい込んだ。
貴族は祈力欠乏に備えて、自分の祈力を溜めた祈力石を持ち歩くことも多い。
ユスブレヒトと祈力の色がほとんど同じリーゼなら、ユスブレヒトの祈力のこもった祈力石を持っていても怪しまれることはないはずだ。
きっと誰もが『王女は父母から贈られた王族の証に自らの祈力を預けたのだ』と解釈するだろう。
「長居してしまったわね。コルベラたちがやきもきしているわ。戻りましょう」
新米王女は多忙な身の上だ。
早くも応接間に積み上げられているアッシュヴァルツの家門貴族からの贈答品も選別しなければならないし、春の宮の管理者を交代したことによってリーゼが決裁しなければならない書類もある。明日の祈力補給のために基盤祈術陣の間への直通扉も開設しておかなければならない。夜はライドルフとの晩餐があるのでそれに向けた身支度もある。
リーゼはガイウスを連れて、今度こそユスブレヒトの部屋をあとにした。




