第十五話 母の望み
「……お母様もね、お渡りがあるたびに、陛下から紅焔のオルゼを贈られていたの。私もユスも、誕生日には必ず、武勇の双剣と紅焔のオルゼの紋章の入った物を頂いていた。当時の私とユスはその意味をほとんど理解せず、お父様の子の証だと言われて無邪気に喜んでいたけれど……お母様は、いつかきっと紅焔のオルゼで装って隣に立ってほしいというあの言葉を、いったいどんな気持ちで聞いていらしたのかしら」
結局父王がユーリアを妃の位に上げることができたのは、ユーリアの死後のことだった。
離宮の火災により亡くなったということにされているユーリア母子に続き、当時の光の側妃アディリエ所生の王子王女たちまでが不自然な事故や急病で次々と命を落としていったことで、誰もが正妃ジルヴィーナの凶手が王城を呑み込みつつあるのだと気づいていたが、同時に彼女を糾弾しても実行犯として彼女の子飼いの貴族が処分されるに過ぎないことも誰もが知っていた。
要職のことごとくに家門の者を就けて当時の宮廷で最大派閥を形成していたジルヴィーナの権勢を削ぐために父王ができたことといえば、夜伽を拒絶して子ができないという既成事実を作ってジルヴィーナの妃位を正妃から一段低い側妃の座に落とす程度のことだった。
代わりに正妃へと上げられたアディリエ妃はその直後に食事に盛られた毒によって心身を蝕まれ、妃位は維持されているものの長らく実家に下がって療養を続けているのだという。
実父の『傍に仕え支えるべき妃の不在を抱えながら広大な国をひとりで統治する国王』という評価が妥当なものなのか、リーゼは王城行きをひと月後に控えた今も判断を下すことができないでいる。
「……陛下のご意向がどうであれ、お母様は結局このオルゼをまとって人前に出られることはなかったわ。お母様は、もしかしたら私がこれからこの花をまとうことになることを、厭うておられるかもしれないわね」
リーゼには自信がなかった。
ユーリアは父王から贈られるオルゼを丁重に扱っていたし、離宮の回廊や父王を迎える応接室に飾らせてはいたけれど、自室やリーゼたちの部屋に飾らせたことも、庭に植える花として選ぶことも、今にして思えば一度もなかった。受け取る以外にすべのないものを真実受け入れていたと誰が言えるだろうか。
そんなユーリアにとって、リーゼがこれから王城で与えられるであろう紅焔のオルゼの紋章を受け入れようとしていることは、裏切りにも似た行為なのかもしれない。
失ったはずの地位がこの手に戻されようとしている現状に甘んじることは、母の望んだ誇り高い生き方とは相反するものなのではないのだろうか。
真紅のオルゼに視線を落としたリーゼを、ガイウスは静かに見つめていた。
花の香りを乗せた風が吹き抜けていく中、低く響く声が穏やかに「リーゼ」と名を呼んだ。
「……あのロケットを、今も持っているか?」
何のことかはすぐに分かった。
ブロア王国の紋章が描き込まれたロケットペンダントは、鎖部分が錆びているのでリーゼの美容とおしゃれを気にする侍女たちの前ではもう首から下げることはできないけれど、内緒で今も変わらず懐に忍ばせて肌身離さず持ち歩いている。
頷いてロケットを差し出したリーゼの手ごと包み込むようにして、ガイウスはリーゼと視線を重ねて言った。
「これは陛下がユーリア様をご自分の宮に招かれたその日に贈られたものだったそうだ。八年前、火事の混乱に乗じてユーリア様とリーゼを離宮から連れ出す際、父はユーリア様に離宮から一切の物を持ち出すことを禁じていた。それを押し切ってユーリア様が唯一持っていきたいと意向を通されたのが、このロケットだった」
ガイウスの口振りはやけに鮮明で具体的だった。八年前といえばガイウスはまだ成人して二、三年というところだったはずだ。それほど年若い時分から、国王すら欺く死亡偽装に関わっていたというのだろうか。
「――いずれアッシュヴァルツが王子としての出生を保障することになるユスブレヒト殿下と違って、これから遠く離れた地で身を隠して生きていかなければならないリティーツィア姫には、自らの成り立ちの拠りどころとするものが何ひとつないことになるから、と」
静謐に語るガイウスに、リーゼは目を見開いた。
「平素であれば目的の達成のためのわずかの危険性も許さないはずのあの父を、見事に説き伏せて根負けさせていた。捨て置いてもよかったものを、そうまでしてユーリア様はリーゼに残された。――私には、あのユーリア様が、ご自分の禍根を我が子にも背負わせるような方とは思えない」
それはおまえが一番よく分かっているだろう、とガイウスは締め括った。
紫水晶がまっすぐにリーゼを見つめている。
リーゼは風で舞い上がった砂埃が目に入った振りをして、きつく瞬きをした。
「……そうね。貴方の言う通りだわ」
息を吸って呼吸を整え、ありがとう、と小さく呟く。気恥ずかしさを誤魔化すように手を引き戻そうとすると、ガイウスの手に少しだけ力がこもった。
「ガイウス?」
「――おまえ自身は、どう思う」
「どうって?」
「紅焔のオルゼをまとうことに対して、どう思っている?」
ガイウスの手のひらが熱い。紫色の深淵を映す目がリーゼを捉えて離さない。
リーゼはガイウスに向き直った。
「厭わしいと言ったら、私を『ただのリーゼ』に戻してくれるの?」
意地の悪い返し方だという自覚はあった。
ガイウスはリティーツィアに浅くない思い入れがあり、ユーリアにも並々ならぬ愛着を持っているようであり、それらの土台の上でリーゼへの罪悪感から必死にリーゼを労り気遣っている。
その一方で、ガイウスには彼自身の立場がある。建国の十賢人のひとりを祖に持つ大貴族、アッシュヴァルツ一等爵家の正嫡である彼には、王女リティーツィアを王太子――延いては次期女王に担ぎ上げて、代替わり後の治世におけるアッシュヴァルツ家門の権勢を守らなければならないという責務がある。
リーゼへの思いやりと家門に対する責任を天秤にかけることはできないのだ。
ガイウスが口を噤んで目を伏せる。
それでも否定を口にしないのはリーゼへのせめてもの気遣いだろう。
すまない、とその口許が小さく動くのが見えて、リーゼは掴まれたままの手を今度こそ引いた。
「ユスの安否を明らかにしたいの。遺体も見つかっていないのに死んだだろうだなんて納得できない。私が聖樹から王として認められれば、ユスの安否を知る祈術だか祈力だかを得られるんでしょう? 武勇の双剣と紅焔のオルゼはそのための手段よ」




