第十話 知らない常識
翌日、いつもの祈力制御の鍛錬の時間にやって来た女神官は、リーゼがぎこちなくも練習用の祈力石で花の結晶を形成できるようになったのを確認すると、早々にガイウスの許に自分の役目は終わったので神殿に帰らせてほしいと願い出た。
明らかに深入りしてはいけない気配の漂うリーゼにいつまでも関わっていたくないという必死さが透けて見えて、侍女たちから反感を買う前にガイウスは女神官の通いを取り止める決定を下した。
「……それなら、私の祈力制御と祈術の練習は誰が見ることになるの」
監督者がいなくなってしまったために祈力使用の中断を余儀なくされたリーゼが不機嫌に問うと、無表情を揺らしたガイウスが口を閉じてなぜか顔を背けた。
その隣では朝からやけに生温い微笑みを浮かべているコルベラがさらににまにまと笑みを深めるので、リーゼは嫌な予感がして眉をひそめる。
コルベラの腹立たしいにやけ顔の理由は分かっている。
朝に機嫌伺いに来たコルベラの前で、リーゼがうっかりガイウスのことを口走ってしまったからだ。
これまで一度も名を出すことなく存在ごと無視していたのに、リーゼが初めて自分からガイウスに言及したものだから、コルベラはガイウスとリーゼの間に何某かの雪融けがあったとすっかり期待しているらしい。微笑ましそうな視線が朝からとても鬱陶しかった。
今朝目覚めたとき、リーゼは寝着に着替えさせられてベッドで眠っていた。
着替えた覚えも湯浴みを済ませた覚えも寝台に入った覚えもないが、閉じ籠もっているうちに寝入ってしまったリーゼの寝支度を侍女たちが整えてくれたのだという。
散々八つ当たりをしたリーゼにもまだ好意的な侍女たちがそれしか語らないので、リーゼもきまりの悪さから昨夜のことを尋ねられずにいた。
――ガイウスに、とても親切にされた。ような気がする。
その記憶は確かにあるが、いかんせんそれまでのガイウスへの心証の悪さが、ひと晩寝て起きたリーゼの理性に「あれは夢だったのではないか」と囁いていた。それほど昨夜のガイウスはリーゼが見知った彼ではなかった。
そうしてどうにも信じきれずに悶々としてしまって、考え事をしているうちにコルベラに無意識に尋ねてしまったのだ。
あの男はどうしているのかしら? ――と。
「……クレーエン夫人が」
ガイウスが眉間に深い谷間を刻み込んで言った。
「勝手に言っているだけだ。嫌なら拒んでいい」
「コルベラが? 何を」
「……ユスブレヒト殿下の教育係を務めた人間なら、おまえとよく似た祈力の特質についてよく知っているはずだ、と」
苦悩の表情で重々しく告げられ、そういうことかとリーゼは淡白に納得した。
昨日までの自分ならここまで静かな気持ちで受け入れることはできなかったのだろうか。否、やはり納得していただろうか。
「まあ、そうでしょうね。監督者が私の祈力を抑えきれないのでは意味がないもの。貴方が一番妥当な人選ね」
王の子であるリーゼに祈力量で上回ることができるのは、この場では高位貴族の出身で成人をとうに迎えたガイウスくらいのものだろう。
二度と飲みたくない味の祈力適合薬をえづきながら飲み干したというのに、リーゼの祈力を制御するどころか塗り替えることすらままならなかったあの女神官を思い出して、リーゼは頷いた。
ガイウスが怪訝な視線を向けてくる。
「……了承、するのか?」
「それ以外に手段がないことを了承と言うのならそうね。別に誰が監督者でもいいわよ。今のまま、私の祈力を抑えられる人間がいないせいで祈力の使用を禁じられている状態が続くよりはましだわ」
リーゼはせっかく感覚を掴めるようになってこれからというときに練習の中断を言い渡されて、盛大に出鼻を挫かれた気分なのだ。他所から人を呼んでもまたあの神官たちのようになるなら、少なくとも二の舞にはならないと分かっているガイウスで手を打つのが最も効率的だ。
あとはリーゼの気持ちの問題である。
一方で、即断即決で却下されるだろうと覚悟していたガイウスは、存外あっさり受け入れられたことに驚いていた。
リーゼは邸で与えられるもののほとんどに冷ややかだが、教育の機会に対しては思いの外意欲を見せているということはコルベラから聞いていた。昨晩の様子からも、八年ぶりに復活した祈力に小さくない思い入れを持っていることは知っている。
だが、その思い入れが同室にいるのも恐ろしい相手から直接指南を受けることを許容するほどのものとなると、リーゼの学習意欲を好都合だと軽く考えるわけにはいかない。
コルベラを見てもガイウスの視線の意味が伝わっていないと分かる含み笑いが返ってくるばかりで、ガイウスはどうしたものかとリーゼの真意を窺うように見つめた。
リーゼが機嫌を損ねたというように睨み返す。
「何よ。八年前にユスに教えたようなことを今さら一から覚えなければならない人間の相手をしたくないというならお望み通り断って差し上げるわよ。王城の上級一等文官様はさぞお忙しいのでしょうしね」
「そういう意味ではない。……本当にいいのか」
本当は嫌で嫌で仕方がないのに我慢して受け入れようとしているなら、ガイウスだけはそれに気づいてリーゼの隠された意思を汲んでやらなければならない。
この少女が反抗的な態度の裏に自分の気持ちを秘めてしまうことは身に染みて理解したはずだ。
リーゼはうんざりとガイウスを見遣ったが、自分の当てこすりも流してまっすぐにリーゼを見つめるガイウスに思うところがあったのか、どこか観念したように目を伏せた。
「貴方は、あの神官と違って、私の祈力を動かすこともできたでしょう。私の祈力制御が拙いままだと貴方だって困るはずよ。貴方の協力が必要なの」
協力。ガイウスは思わず目を瞬いた。
リーゼがじろりと睨む。
「……何よ。それとも貴方だと何か問題があるの」
ガイウスより、コルベラが「問題だらけです」と口を挟むほうが早かった。
「姫様、もしやとは思いますが、昨夜ガイウスがこちらに参じたとき、ユーリア様が母君として担うべきお役目をガイウスが代わりに務めたというのではございませんよね?」
「だったら何だというの? 貴女のユーリア様はとっくの昔にお亡くなりになったわよ」
「いけません!」
リーゼがこの邸に来てからずっと、腫れ物に触れるように接していたコルベラが、初めて厳しい声色で言った。
女官だったころに彼女から叱られ慣れているリーゼは懐かしさすら覚えたが、周囲の年若い侍女たちはびくりと怯えた顔をする。貴族は品格と優雅を美徳とするため、感情的な振る舞いはみっともないものと躾けられる貴族の少女たちにとって、コルベラの苛烈さは強すぎるのだ。
コルベラはあれだけ肩を持っていたガイウスに食ってかかり始めた。「姫様はご結婚前の大切なお体なのですよ」「お護りすべき玉体をその手で汚すなどなんということを」「初めから貴方の振る舞いは姫様への不敬が過ぎます」などと次から次へと繰り出される苦言に、ガイウスは眉根を寄せながらも意外にも反論することなく黙っている。
こうなるとコルベラの説教が飽き飽きするほど長くなることを知っているリーゼは、割って入るように手のひらを一度打ち鳴らした。
「落ち着きなさい、コルベラ。周りが怖がっているのが見えないの。ここは貴女が統率に手を焼いてきた下級女官の集まりではないのよ。それとも貴女は人前でそんな粗暴な振る舞いをする侍女を筆頭に据えることになる私の評判を落としたいの?」
「ですが、姫様……!」
「何を怒っているのか説明しなさい。結婚前とか汚すとか、いったい何を言っているの。その男が何をしたというのよ」
リーゼはもちろんガイウスを庇ったつもりはないが、リーゼの問いにコルベラのみならずガイウスも目を見開いた。
ふたりから揃って驚かれてリーゼはさらにむっとする。
「……昨夜、私からの祈力補助を了承しただろう」
「それが何」
「…………意味を理解せずに、了承したのか?」
「だからどういう意味かと聞いているのよ。お母様に教わらないままだったことを、私より祈力の器を育て上げてきた貴方に教わったということではないの?」
リーゼの認識はそれだけだった。初めの神官では『不適当だから』と高位の女性神官が呼ばれ、その彼女でも御しえなかったリーゼの祈力を、成人前のリーゼより遥かに祈力の器を育ててきているであろうガイウスに制御してもらった。
それ以外にいったいなんの意味があるというのか。
「……ガイウス。これはどういうことですか」
コルベラから白い目で睨まれ、明らかに理解していない様子のリーゼを前にして、ガイウスはこめかみに指を押し当てた。
祈力の交感の意味など七歳を過ぎて人前に出るようになった王侯貴族なら誰でも知っている常識だ。 ガイウスも十四歳のリーゼは当然に承知しているものとして接してきた。
だが、リーゼは七歳を迎える前に貴族社会を離れて以降は、平民となんら変わりない環境に身を置いていた。祈力など話題にも上がらないはずの平民の間で生きてきた彼女が、祈力にまつわる貴族社会の常識など知らなくても不思議ではないのだ。
「……コルベラ。言っておくが、弁明の必要なことはしていない。不可抗力だった」
リーゼが理解していなかったにしろ、王女の祈力に干渉するための最大限の配慮はしたつもりだ。そう続けようとしたガイウスを遮るように、二十数年来つき合ってきた乳母はみるみるうちに眉を吊り上げて「ガイウス!」と声を上げた。
「貴方という男は、この期に及んで言い逃れを――」
「――いい加減にして。私のことで私を差し置いて喚き散らすことが侍女のすることなの? 私に説明する気がないのなら今すぐふたりとも出ていきなさい。耳障りだわ」
リーゼが耐えかねたようにぴしゃりと言い捨てて他の侍女に視線を向けた。
代わりに説明をと命じられた侍女たちは気まずそうに目を見合わせ、「そのようなことはとてもこの場では……」と首を振って固辞する。ガイウスをちらちらと窺い、中には顔を真っ赤にしている者もいて、リーゼはますます不満を募らせた。
結局侍女たちが誰も口を開こうとしないので、コルベラが大袈裟に嘆いてリーゼの傍らに膝をつく。憐憫に満ちた目で仰がれてため息を押し殺した。
「特に未婚の淑女にとって、血縁関係のない他人といたずらに祈力を交わらせることは最も忌むべきことなのです。貴婦人が血縁者以外の祈力を身に受け入れるのは、婚姻の契りを結んだ夫に身を委ねるときだけです」
「……要するに、婚前交渉と見做されるということね」
道理で若い年頃の娘たちが頬を染めて口を噤むわけだ。ガイウスという異性の前では話しにくいのだろう。
そういえばこの男は、リーゼの同僚だった下級女官たちだけでなく、行儀見習い兼見合い相手探しのために城に上がっている上級女官の間でも持て囃されているような、高嶺の花なのだった。
この陰険無表情暴漢男のどこがいいのか、リーゼにはさっぱり分からないが、侍女たちにとっては憧れの的なのかもしれない。
「姫様! そのように平然と口にするようなことではございません。どうかもっと危機感をお持ちくださいませ」
叱り飛ばすコルベラごとリーゼは鼻で笑い飛ばした。
「危機感というなら服を剥かれて寝台に組み敷かれたときのほうがよほど貞操の危機だったわよ。あれだけ騒いだのに貴女たちが誰ひとりとして助けにも来なかった間、この男には下着も裸も晒していたんだから、今さら祈力石越しに祈力が混ざる程度のことに目くじらを立てても仕方がないでしょう」
さらに言うなら、頼りにする縁戚を持たないリーゼが立太子を目指すことになれば、次期女王の支持基盤となる婿を取ることは必至である。
ユスブレヒトの代わりに第一王子の対抗馬として立つリーゼの最大の後ろ盾は、ガイウスの実家であるアッシュヴァルツ一等爵家であり、代替わりを急がれて誕生する年若い女王にはひと回り以上年上の王配が当てがわれることも珍しくない。
王女となって成人の儀を成功させた暁には、ガイウスがリーゼの婚約者なり夫なりの立場に収まってもおかしくはないのである。いずれ夫となる相手ならなおのこと、騒ぎ立てても意味がない。
「姫様……そのように……御身の名誉に関することなのですよ」
「この離れにいる限り名誉も不名誉もないわ。それに、祈力を身に受け入れると言うけれど、私は祈力石に流した祈力を操作してもらっただけで、適合薬を飲んでもいなければ、その男の祈力が祈力石を越えて私の方まで流れ込んでくることもなかったわよ。それほど騒ぎ立てるほどのこととも思えないけれど」
だからリーゼにとっては正直なところ、コルベラが何をそれほど問題視しているのかも分からないのだ。
女神官に直接祈力を流し込まれている間は、適合薬を飲んでいても自分の身体を侵略されていくような息苦しさがあったし、その感覚が異性から流れ込んでくると考えれば確かに婚前交渉と言い表されても納得できないでもないが、ガイウスはリーゼの指先に放出されたあとの荒ぶる祈力を導いてみせただけだ。
祈力同士の反発も感じず、指先だけを取られて自然にエスコートされているような感覚に、口が裂けても本人には言わないが、これが熟達した祈力制御かとこっそり感動したほどだった。




