第十一話 誇りの証
リーゼの言い分に驚いたコルベラが、ガイウスを振り返って何かを言っている。
また言い争いが始まるのかと嫌気が差してリーゼは明後日の方向に意識を向けた。
リーゼの疑問点は解決したので、あとはふたりで好きなだけ言い合いをしていればいい。欲を言うならこの部屋の外でやってほしいとは思うが、もう興味はなかった。
コルベラたちの反応を鑑みるに、祈力制御の実地指導をリーゼがガイウスから受けることはあまり好ましくないらしい。
物心ついてからの大半の時間を祈力なしの平民として過ごしてきたからか、リーゼは自分の祈力がどうこうされるということに対してはあまり実感が湧かない。そんなことより早く祈力制御の練習の続きがしたかった。
もっと言えばガイウスが上手くコルベラを言いくるめて女神官の後釜に収まってくれたらいいと思う。
高位貴族らしく難解な祈術陣も使いこなせるだろうに、初歩の祈力操作を繰り返させても文句も言わず、驚くほど無駄のない祈力捌きの手本を何度も示してくれたガイウスは、王族に求められる水準まで技量を磨く必要のあるリーゼにとっては教師として理想的なのだ。
――そう。理想的だ。
すんなり認めてしまった自分に、リーゼは苦虫を嚙み潰したような気持ちになった。
ガイウスに対して忌避感や嫌悪、恐怖があるのは確かだった。
できることなら顔を見たくないと思っていたし、同じ部屋にいるのだってコルベラや他の侍女が同席していなければつらい。近づいて手を触れたりするのなんて以ての外だ。
それはまだ変わらない。そのはずなのに。
絆されてしまったのだろうか。
初めの印象が悪すぎたから、少し親切にされただけでいい人だと錯覚してしまったのだろうか。
昨夜のリーゼは自分でもどうかしていたと思う。リーゼがどうかしていたから、ガイウスの様子もどこかおかしかった。
リーゼに一歩近づくのにも緊張を滲ませ、頑是ないリーゼを懸命さすら感じる声色で諭し続け、温かな手のひらで何度もゆっくり穏やかに祈力を繰って、覚えの悪いリーゼに根気よくつき合って――
リーゼの上達を自分も喜ぶかのように、あんなに柔らかい表情を見せるから。
だからリーゼは、あんな願いを、よりにもよってこの男に吐露してしまったのだ。
厭う素振りもなく願いを叶えられて、自分の中で踏ん切りをつけようと思ったところで、張り詰めていた気が緩んで呆気なく寝入ってしまうなどという失態まで晒したのだ。
――リーゼ。
そう何度も繰り返したガイウスの、静かで、けれどもどこまでも深く労りに満ちた低い声が、耳に焼きついている。
その名を捨てろと迫った当人にそう呼んでほしいと願うだなんて、本当に昨夜はどうかしていた。
後悔すらしているのに、リーゼはその夢幻を朝から何度も脳裏に反復させては、かけがえのない心の拠りどころとしてより強く記憶に刻み直してしまう。
「――リーゼ」
だから、リーゼは初め、その声は自分の記憶が再現したものなのだと思い込んでいた。
「聞いているのか、リーゼ」
「聞いているわよ――」
女官時代にコルベラからの説教を上の空で聞き流していたときの要領で、ついおざなりに返事をしかけて、リーゼはそこでようやく、え? と息を止めた。
「……クレーエン夫人、今の話をあとで夫人の口からもう一度説明しておいてくれ。王女殿下の意向を確認してから最終決定を下す」
諦めたようにため息をついて言い置き、ガイウスが部屋を出ていこうとする。リーゼは慌てて腰を上げた。
「待っ――ねえ、待って――――ガイウス!」
宮廷儀礼の教師が見たら卒倒しそうなほど勢いよく椅子を蹴飛ばし、文机をもどかしく回り込んでガイウスの袖を掴む。
ガイウスは振り向きざまに目を見開いた。
狼狽の色がリーゼを映す紫水晶を揺らしていた。
手が届くほどの距離からガイウスに見下ろされると、リーゼの中に寝台で馬乗りになって押さえつけられた記憶が蘇ってくる。
思わず身を竦めたリーゼに気がついたのか、ガイウスは視線を微かに彷徨わせてから、ゆっくりとその場に腰を落とした。
わざわざ目線を低くして見上げてくる仕草に、リーゼはそこで初めて、これがガイウスなりのリーゼへの気遣いであることに気がついた。
これまで彼がリーゼと会話を交わすとき、彼は必ず部屋の端と端ほどの距離を空けていたし、距離を詰めている間はずっと膝をついていたのだ。
「何だ。……どうした? リーゼ?」
リーゼが掴んだままの袖に手を伸ばしかけ、触れる前に躊躇って手を下ろす。ガイウスからは勝手に触れないという彼自身の昨夜の言葉をまだ律儀に守っているのだろうか。
リーゼが気づかなかっただけで、もしかしてガイウスはずっとこうして、リーゼを怯えさせないように細心の注意を払っていたのかもしれない。
「リーゼ」
「……最後に、一度だけって」
惜しみなく何度も呼ばれる名に声を震わせると、ガイウスは目を眇めた。
「おまえが誇り高く生きた証、だろう」
「……いい、の?」
そんなに呼ばれ続けたら、“リーゼ”をなかったことにできない。リーゼはそんなに器用な人間ではないから。
「どこでも名乗って構わないとは言えないが――地方の神殿に身を隠していたことは秘匿しない。そのときの愛称なり聖別名なり、何とでも言い訳は立つ。王女殿下の誇りを守ることが我々の責務だ」
ガイウスは決然と告げた。
その真摯な眼差しにリーゼは唇をわななかせた。
捨てろと言ったくせに。気が変わるなら初めから言うな。平民のリーゼを蔑んでいたのではなかったのか。
憎まれ口を叩いてやりたかったけれど、ガイウスの切実な眼差しの前にそれらをぶつけることは躊躇われた。
「……ねえ。祈力制御の練習は、これからも毎日続くわよね」
「ああ。休息日以外はそうなるが……」
「……なら、貴方も、ちゃんとここに来なさいよ」
「……」
「自分が仕える王女のもとに伺候しないどころか、日に一度の挨拶もなくずっと顔を見せずにいるなんて、王城なら主席側近であろうと即刻解任ものだわ。それとも一等爵家の正嫡ともあろう者が、王族に仕える側近としての振る舞いすら弁えていないのかしら」
取りつく島も与えないリーゼの態度に、ガイウスは神妙に「分かった」と頷いた。
顔を見るどころか名前も聞きたくないと思っていたことなどすっぱり棚に上げて、リーゼは尊大にふんと鼻を鳴らし、殊勝に跪いて自分の言葉を待つガイウスを見下ろした。
「私は、ユスブレヒトを護れなかった貴方たちを許していないわ」
ガイウスは静かに目を伏せた。
「お母様と私からユスを奪ったくせに、王位継承争いの矢面に立たせるだけ立たせて、生死すら分からない今の事態を招いた貴方たちアッシュヴァルツを、私は絶対に許さない」
「姫様、それは――」
「――コルベラ」
コルベラが横から声を上げたのを鋭く制して下がらせ、ガイウスはなおも顔を伏せる。コルベラはまだ何か言いたげにしていたが、リーゼはあえて無視した。
「私の祈力がなくなったのは、祈力を封じる刻印が施されたからだと、昨日まで来ていた神官から聞いたわ。あの火事の後遺症のせいではなかったのなら、八年前、私とユスを天秤にかけてユスを選んだのは貴方たちよね。私の祈力を平民以下に封じて、大火傷を負ったお母様と一緒に辺境の小神殿に追いやったくせに、ユスが駄目になったら今度は私を引っ張り出そうなんて、随分と身勝手だと思わなかったの。それで今さら取ってつけたように持て囃されて、私が担ぎ上げられることを快く肯うと思っていたの」
ガイウスは微動だにせず、こうべを垂れてリーゼの糾弾を聞いていた。リーゼがどれほど詰ろうともすべて受け入れると言わんばかりの従順さだった。
この邸に来たばかりのころも、ガイウスは初めはこうして、リーゼの誹りを黙って聞いていた。
まるでリーゼに大きな負い目を感じているかのように、ずっと慇懃に礼を払っていた。
それが崩れたのはいつだっただろうか。
「私は貴方たちの権勢に非協力かもしれないし、第一王子と同じように成人の儀に失敗するかもしれないし、宮廷入りしたら他の貴族に擦り寄って貴方たちを冷遇するかもしれないわよ。すべて覚悟の上で、それでもまだ貴方は、私の立太子を望むの?」
周囲にいる侍女らのはっと息を呑む気配が室内の空気を揺らすが、ガイウスは表情を動かさなかった。
ユーリアが亡くなり、ユスブレヒトの生死も掴めていない今、実際のところ彼らがリーゼに対して交渉の余地を見つけられていないことは、彼もとっくに覚悟していたはずだ。リーゼが王位を望まないと言い続ければ、リーゼを擁立するアッシュヴァルツ一等爵家も宮廷での影響力を失い、リーゼともどもいずれ失脚は免れないだろう。
「――王の嫡子たる御身を、本来あるべき座位に。それが我らの願いです。私の忠誠は王女殿下に栄光を捧げるためにある」
それでもリティーツィア王女の存在に縋らなければならないのだから、この男もいずれ沈没すると分かっている船に乗らざるを得ない不運な身の上なのかもしれない。
決意の孕んだ眼差しでリーゼを射抜き、恭順の姿勢を崩さないガイウスに、リーゼはそう思う。
絆されたわけではない。同情しているわけでもない。気を許すなんてまっぴら御免だ。
けれども、この男やこの部屋にいる者たちが乗り込もうとしている泥船を、どうにかもたせて向こう岸まで届かせてやれるのは、今となってはリーゼだけだ。
「…………ユスのためよ」
リーゼは仏頂面で言った。
「ユスの名誉のため、第一王子にユスの場所を奪われないため、ユスが得るはずだったものを第一王子に渡さないため。利害は一致したわ。ガイウス・ゼーア・ナッハトラウム。必ず私を王城に連れなさい。貴方が私を押し上げなさい」




