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第九話 たったひとつのささやかな願い

 リーゼの静かな問いに、ガイウスは少なからず衝撃を受けていた。


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 リーゼが頑なに「リティーツィアは死んだ」「自分は平民のリーゼだ」と繰り返していたことを思い出した。

 侍女らにも初日からずっと王女としての名を呼ばせていないという。今の状況に対するささやかな反抗だと軽く考えていたが、リーゼはずっと、貴族の証である祈力を失った自分は貴族として相応しくないと思っていたのか。


「祈力は器の大きさも総量も王族として申し分ない。今まで上手く扱えなかったのは、器が育っていて量も大幅に増えているにもかかわらず、六歳のときと同じ感覚で動かそうとしていたからだ。今の祈力に慣れて自分の祈力量に振り回されることがなくなれば、祈術を扱う技能も自然に上達する」

「……本当に、そう思う? 急がなければ間に合わないかもしれないのに、祈力制御の練習をやめろと言うのは、私がこれから努力しても無駄だと失望したからではないの?」


 リーゼはガイウスと目を合わせなかった。ガイウスはとうとう絶句して、違う、と喉から声を振り絞った。


「祈力量が元々豊富だから自覚がないだけで、既に並みの貴族ならとっくに祈力が尽きているほど消費している。これ以上祈力を使い続けるのは危険だ。無駄だと思っているなら初めから補助を買って出たりしない」


 捲し立てるガイウスはみっともないほど余裕のなさを露呈していた。

 眼差しを揺らすリーゼに我に返って、落ち着けと自分に言い聞かせる。リーゼにとってガイウスは同じ部屋にいるのも我慢ならないほど恐怖を感じる相手だ。声を荒げればまた怯えさせる。


「おまえがライドルフ陛下とユ―リア様の子で、ユスブレヒト殿下の姉であることは変わらない。おまえは歴史あるブロア王家の血を継ぐ貴き王女リティーツィアだ。私はリティーツィア王女を支えるためにここにいる」

「……初めて会ったときも、貴方はそう言っていたわね。祈力を封じられていたころの私にも、同じことを」


 リーゼは冴えた眼差しを伏せて薄く笑みを口許に湛えた。

 怒りでも悲しみでもない、静謐な表情に、ガイウスはそっと息を詰めた。


「でも、それは貴方たち貴族側の価値観よ。平民にとって、貴族が貴族として敬われる理由はただひとつ、祈力という絶対的な力を持つということだけ。土地を満たし、聖樹を満たし、祈りを捧げて天上の神々から直の祝福を賜ることができるから。貴族のみが扱える祈力が自分たちの根差す国の礎を支えているから。それができない貴族など、平民にとっては偉そうに高みでふんぞり返って平民から富を搾取しているだけのただの無能だわ」


 達観した口調で辛辣に言いきって、リーゼは皮肉げに唇を歪めた。


「祈力を扱えず、土地や祈術具に祈力を込める務めも、聖樹に祈りを捧げる神事もこなせずに、ただ貴方やコルベラたちに傅かれて、下級女官の給金では一生かかっても手が出ないような贅沢な生活を甘受している私も、それと大差ないわ」


 ガイウスがリーゼをこの邸に運び入れてから二十日弱が経とうとしている。

 ガイウスはリーゼが本来王城で当然に享受するはずだった王女としての正しい在り方を取り戻そうと、王城の最下層身分であらゆる相手に腰を折りながら労働に追い立てられる下級女官などに身をやつしていたリーゼを憐れみながら、かつてユスブレヒト王子に用意したものと同等の待遇を何の疑問も抱かずに供していた。

 リーゼはガイウスが用意した衣食住を唯々諾々と受け入れながら、ずっとそうしたリーゼ自身を蔑んでいたのだろうか。


 壁に張りつくようにして言葉を失っているガイウスに、リーゼは落ち着き払った微笑を向けた。

 その穏やかですらある齢十四歳の少女の微笑が、やけに大人びた女性のそれに見えて――

 よく似た微笑みを、ガイウスは遠い昔にも見たことがある気がした。


「私がリティーツィアと名乗ることができなくなって以降のことを、皆が同情して、尽くしてくれているのは知っているわ。けれど――、私に王女としての名誉を取り戻そうとしている貴方にとっては、不快に思われるかもしれないけれど、」


 リーゼはまっすぐにガイウスを見据えた。強く、確かな意志を秘めた高潔な金色の双眸が、正面からガイウスを映し出す。

 すぐさまこうべを垂れてその場に跪きたいような気持ちと、いつまでもその姿を見つめていたいような気持ちと、二種の相反する感情が胸中に到来して、ガイウスはその威光に気圧されたまま茫然としていた。


「私は、ただのリーゼであったときも、誰かに憐れまれるような生き方をしてきたつもりはないわ。国王陛下の愛妾として囲われていても誇りを失わなかったお母様の娘として、独り縁戚の後ろ盾もなく王子として立ち続けたユスブレヒトの姉として――自分の在り方に誇りを持って生きてきたつもりよ。恥じるようなことも、捨てるようなものも、何ひとつとしてないわ」


 ――ああ、とガイウスは深い感銘に胸を締めつけられる心地がした。


 この気高さこそ、ガイウスが焦がれてきた王女リティーツィアそのものだ。

 ユスブレヒト王子に仕えながらもその横顔によく似た幼い面影を何度も重ね、潜伏先として用意した地方神殿で消息が途絶えてからは身の裂かれるような思いで捜索の手を打ち、あろうことか下級女官の募集に紹介状を持って現れたときにはすぐさま東宮付きにするよう人事局に手を回して、コルベラを側につけてそれとなく守らせながら仔細を報告させ――

 そうして対面が叶う日をずっと心待ちにしてきた、ガイウスが至上の崇敬を捧げる、軍神の炎の加護と弦月の祝福をその身に映した高貴な少女。


 勝手な期待を募らせた挙句に、八年の歳月が誇り高い少女を凡俗に落としたのだと、一方的に失望した自分の盲目に、ガイウスは目の前が真っ暗になった。


 この高潔な魂を華奢な体に秘めたか弱い少女に、自分はいったい何をしたのか。

 乱暴を働いて恐怖を植えつけ、時間と手間をかけて和らげることもできたはずの痛苦に苛み、あまつさえ貧苦に落とされても誇りを失わなかった少女に名前を捨てろと強迫した。

 到底許されていい所業ではない。


「――けれど、王女リティーツィアの人生にとっては、平民リーゼとして生きていた間の過去が不要な……邪魔なものだということも、きちんと理解しているつもりよ」


 今すぐその足元に這いつくばって許しを請いたいほどだったが、リーゼはガイウスがもたついている間にその退路を塞いでしまった。

 憂いを帯びた表情で告げて、胸で王家の紋章の描かれたロケットを握りしめて、決意の目を正面からガイウスに向けた。


「王族の務めを果たすべき力がこの身に戻ったのなら、いつまでも平民にくすぶっているわけにはいかない。――わたくしの名は、リティーツィア・アインレーゼ・ライヒ・ブロア。わたくしは必ずや誉れある王女としての立場を築き、貶められた母ユ―リアと弟ユスブレヒトの威信を取り戻し、渾沌と混迷の神に歪められた王位継承の正しい秩序をこの手で示す。貴方たちアッシュヴァルツがわたくしを推戴する限りにおいて、貴方たちをいずれ王の近臣として寵遇しましょう」


 それがおまえたちの望みなのだろうと、疑いなく宣ってガイウスに輝かしいほどの威光を知らしめ、それからリーゼは不意に形のよい眉を頼りなげに下げた。

 一瞬前までの王女然とした威厳が霞み、一気に年相応の少女らしい不安そうな色が覗く。


「だから……“リティーツィア”の人生から“リーゼ”をなかったものにする前に、ひとつだけ、お願いがあるの」


 ――願い。

 何だ、と縋るようにガイウスは応えていた。

 たとえ今すぐ死ねと言われたとしても、間髪入れずにこの場で首の筋を切り裂いただろうというくらい、ガイウスはその瞬間眼前の少女の望みを叶えることだけに頭をいっぱいにしていた。


「リーゼ、と」


 少女はぽつりと言った。


「呼んでほしいの。最後に、一度だけでいいから。そうしたら、この先はもう二度と、この名を口にしないと誓うから」


 金色の瞳を潤ませ、泣き出しそうな顔で告げて、身を小さくしてリーゼはうつむいた。祈るように固く指を組んで、小さく折れそうな肩を強張らせている。


 これまでの八年間の人生を捨て去る代わりに要求することが、ただ一度だけ、本当なら顔を合わせてもいたくないであろう相手に名前を呼んでもらうこと。

 自分がこの少女に強いたことの残酷さを思い知らされたガイウスは、もう少女のたったひとつのささやかな願いを全力で叶える他に何もできなかった。


「――リーゼ」


 少女の真紅の髪が揺れ、金色の瞳から一筋の雫が零れ落ちた。


「リーゼ。……リーゼ。リーゼ」


 噛みしめるように繰り返すガイウスに、リーゼの表情がほどけた。


「一度だけでいいと言ったわ。……でも、ありがとう。これでもう、心残りはないわ」


 たかがあれだけのことで心の底から満たされたように破顔して、リーゼはふっと体を椅子の背もたれに寄りかからせた。その顔に色濃く疲労が浮かんでいた。


「……根を詰めたせいだろう。今日は休んだほうがいい」

「でも、今日は湯浴みもまだ……髪と肌は、毎晩の湯浴みで……きちんとお手入れをしないといけないって、侍女たちも……いつも言うもの……」

「明朝に回しても、気になるなら洗浄の祈術具を侍女に使わせてもいい。外見の手入れより疲労の回復のほうが重要だ」

「……でも……」

「祈力の使い過ぎだ。――そのまま眠れ」


 話している間にもリーゼの口調が眠たそうな幼げなものになっていく。ガイウスが言うのとどちらが早かったのか、重たそうな瞼がゆっくり落ちた。

 やがてすうすうと寝息を立て始めたリーゼに何度か逡巡を重ねてから、ガイウスは手近にあったブランケットをかける。意識のない間にガイウスに体に触られて寝台に運ばれるのはリーゼも嫌だろう。


 リーゼがあまりに悲愴な様子で追い詰められていたのでとにかく刺激しないように最後まで好きに続けさせたが、本当は初学者にあれほど祈力を使わせるものではない。

 祈力は使いすぎれば祈力欠乏、もっと酷ければ祈力枯渇の状態となり、最悪の場合は死を招く危険がある。

 見たところリーゼはごく軽度の欠乏状態にあるようなので、今は身体が休息を求めて深い眠りを連れてきたのだろう。


 触れずにできる限りの診断を下してから、ガイウスは懐から取り出した薬品の小瓶を煽った。

 薬効が全身に及ぶのをじっと待ってから、慎重にリーゼの目許に手を翳し、祈力を指先に集めて術式を組み上げて、何度も擦りつけられた瞼に治癒の祈術を施す。


 それから明朝のリーゼに少しでも快い目覚めが訪れることを祈りながら「闇を司る夜の女神よ。夢見と眠りの女神よ。安息と安寧の女神よ。彼女に静穏なる夜の加護を」と祝詞を唱える。

 淡い祝福の燐光がリーゼを包み込んだ。

 聖樹が媒介する祝福の代行は、王を初めとする王侯貴族の務めのひとつだ。


 リーゼの寝顔が心なしか安らいだのを見届けて、ガイウスは物音を立てないように部屋をあとにした。

 廊下の侍女が三人に増えていて、ガイウスを警戒の視線でじっと見てくる。随分長い時間中にいたので怪しまれているらしい。

 リーゼが疲れきって眠っているので起こさないで休ませてやってほしいと伝えれば、侍女たちはガイウスに構っていられないとばかりに部屋に入っていった。


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