7章 宣戦布告
闇倉奏一。
疑うまでもなく詞音の父親にして、決して表舞台には立たない稀代の作曲家。
しかし知る人ぞ知る音楽界の巨匠だ。
無論、彼がこの学校に来る道理などありはしない。
一応卒業生なのでOBという立場なのだが、参観でもない限りこんな辺鄙な場所に来る理由なんて存在しないはずなのだ。
「……」
奏一は一度部屋を見回した後、躊躇なく押入れを開く。
しかしそこには古ぼけた品々が眠るだけ、鋼志郎たちは寸でのところで別の場所に隠れている。
そんな奏一に続いて、もう一人誰かが部屋に立ち入ってくる。
今度はこの場所にいることが相応しい人間だが、……こんな場所にこんな状況で来るには、明らかに不適合な存在だった。
「……だーから言ったとおりですって。鋼志郎ですよ、琴浦鋼志郎。あのヤロがまーた学校に忍び込んでイタズラしてただけ。もう退散したんだろうし気にするこたないでしょ」
成田まもり……この中学校の教師にして鋼志郎たちの担任。
本来教師が夜学校に見回りに来ることはなんの違和感もない行為だろう。
しかし教え子の保護者と夜な夜な二人で学校に来ることは、……あまりにも非道徳的だ。
詞音の全身から尋常ではない程の汗が流れ始める。
教師と保護者の逢瀬はよく聞く話だが、実際その娘となればよくあると笑って見過ごせるような話なんかではない。
……けれども鋼志郎の見解は違う。
二人の表情はどう見ても蜜月的ではなかったから。
「フン……噂通り傍迷惑な小僧だ。……さて成田教員、契約履行の時間だ。商工会連中の企てた催しは、結局要の主演者が集まらず不発に終わったわけだな?」
まもりは一瞬躊躇ってから首肯する。
それは今日鋼志郎が生徒たちに呼びかけたが誰も立候補しなかった催しだ。
結局どの生徒も名乗りを上げず、いつも通り鋼志郎が参加するはめになったはず……。
「商工会最後の活性化計画も失敗だ。会員の同意を経て臨時総会を開くとしよう。契約通り貴女は我々に迎合し、こちら側の傀儡となる手筈で宜しいな」
「……随意に。賭けに負けた以上こっちからはなんも言う事ねーや」
「潔し。……安心しろ、俺の指示通り貴女が商工会次期会長になれば学校運営金は増加させられる。それで生徒たちにより良い学習環境を提供できるだろう、貴女達に不便はさせるまい」
次期会長……!? と鋼志郎たちは顔を見合わせる。
だってまもりは商工会の会長を務めるほど殊勝な人物ではない、だから奏一が彼女を偶人として実権を握ろうとしているのは容易に推察できる。
でも奏一と商工会の関係性は悪く、わざわざ搦め手を使って掌握しようなどと考える理由などあるはずがない。
実の娘すらもが驚いているのだから間違いない。
なのに商工会の実権を握ろうとするのは、……相当な旨味が無ければ指せない選択。
「それで? わざわざ勝利宣言をする為にこんな場所へ呼び出したわけじゃねーでしょ。本題は一体何なのさ」
「用件はこいつにある」
そう言って奏一が触れたのは例のグランドピアノだった。
「貴女が会長の座に就いてから一番初めに行うのは、このグランドピアノの廃棄処分だ。……お気の毒だが、貴女にはピアノの譲渡手続きを進めてもらいたい」
「……世迷言を……。アンタの思惑通りこの島に活気が戻ったならば、ピアノは必要になるだろォが。音楽の授業ナメんなよ、ワッパ共にイイ感じの感性を与えてやらァ」
「必要ないのだ。この島に西洋楽器などもはや必要ない。グランドピアノだけではなく俺の家に残存する全ての西洋楽器も全て余すところなく楽器商人に譲渡する手筈だ。西洋文化を消し去ってこそ、この島に再び命が宿る」
その言葉に一番反応したのはまもりでもなく鋼志郎でもなく、闇倉詞音。
全ての西洋楽器を捨てるということは、彼女の持つヴァイオリンも失うということ。
それは人間に心を閉ざす彼女の、唯一の拠り所を奪うことに他ならない。
「……何を考えてやがる。アンタの思い描く改革がどれほどだったにしても、ガキ共から音楽を奪う理由にゃならねェだろうが……!」
「貴女のような小童には理解しかねるだろう。しかしいずれ悟る、この島が唯一生き残る道を。……元々このピアノも闇倉家からの寄付金で買った物のはず、口出す権利は十二分にあるだろう。結局誰にも音楽を学ばせられなかったのだ、無用の長物でしかない」
「……チッ」
「近日の臨時総会を境に、西洋楽器は全て撤去だ。分かったら潔くこうべを――」
――闇倉奏一は想像できただろうか。
鋼志郎がすぐ近くに潜んでいたなんて、全ての話を聞かれていたなんて。
そしてまさか天井から鋼志郎が落ちてきて、二人の間に割って入ってくるだなんて……!
「寝惚けたことぬかしてんじゃねえぞッ! 西洋楽器を全部捨て去るだなんて、そんな横暴が許されるかよ! 次期会長だか改革だか知らないが、勝手が過ぎるってもんだぞ……!」
そう全力で啖呵を切る鋼志郎に対して、奏一は驚くべきほど平坦な表情を浮かべている。
突如落下してきたことに対して驚愕を浮かべることもない、まるで予想できていたかのように。
「……琴浦鋼志郎か。嫌だとごねれば済む話だと思っているのか? 貴様がいくら抗おうとも決定事項は変えられん、それでも騒ぎたければいつもの如く一騒動起こしてみるがいい」
「なんだそのスカした態度……つかまもり先生、この黒々しいオッサンと何契約したか知んないけど、誰も立候補しなかったから俺がやるって話だっただろ!? 俺が参加するんなら必要十分、商工会の進めてる計画は遂行されて何も問題ないはず!」
尤もなことを言ったはずなのだが、まもりは鋼志郎と視線を合わせようとはしない。
どころか逆に急所を突かれたような顔をするばかり。
「琴浦鋼志郎、確かに俺は成田教員に対して、何者かの立候補があれば現商工会連中の最後の抵抗を許すと言った。その催しで復興の兆しが見えるならしばし現状の商工会を維持するともな。しかし二名だけ例外がいる、無論誰のことか分かるだろう?」
「だ、誰だよ、俺を例外に入れたなんて通知は来てないけどな!」
「琴浦鋼志郎、長野海司両名だ。長野海司は現会長の子孫で、最初から人員に組み込まれている故に。そしてお前は――」
一旦言葉を切った奏一は目を眇め、路傍の虫ケラを憐れむような眼で鋼志郎を見下す。
「この島を救うことに失敗し続けている」
「……!」
「島の再生を意図した計画に、わざわざ失敗し続け衰退を促進させた男を組み込む筈もない。最初から蚊帳の外なんだよ、正義面した島の疫病神風情」
今までのことを言及されれば、鋼志郎も言葉を飲み込む他なくなる。
何年間も様々な手段を用いた。
しかし現状を変えられなかった。
けれども――いや、だからこそ、鋼志郎は見過ごせない。
「確かに失敗した……けど! けど……いい大人なんだから子供にもう一度チャンスくらい与えてくれよ! ワガママだって分かってっけど、最後の抵抗すらできないまま終わったら寝覚めが永遠に悪い!」
「……子供の駄々に付き合っていられるほど、この島に寿命が残されているわけではない。精々己の無力を悔いてこの島から失せろ」
ダメか……そりゃダメだろうな、オッサン側にメリットがないしな……!
そう思いながら鋼志郎は天井に視線を送る。
……詞音が降りてきて立候補してくれたなら――と願うだけなら簡単だ。
それなら可能性は残される。
けれどもそれは無茶な話だ。
父親に逆らうなんて無茶に利点などないし、仮にこの島から西洋楽器が失われたとしても、高校通学の為に都心へ行けば憚られることなく演奏ができるのだから。
詞音にとっては僅かな間演奏ができなくなるだけ、何も不自由はない。
結局抗うなんて夢物語で、鋼志郎には何もできることなど――。
「……情けない顔。いつもの自信はどこに消えたの?」
それは、……聞き間違いでないならば、今一番聞きたかった声。
その声の主は天井裏から軽やかに飛び降りて、悠然とした面持ちで自らの父と向かい合う。
闇倉詞音と闇倉奏一が、その鋭い視線を龍虎相打たせる……。
「……父さん。今の話、本当?」
「俺が冗談をぬかす男だと思っていたのか?」
「いいや、ウィットの欠片もないわね。……全ての西洋楽器を捨てるなら、『これ』も捨てることになるけど正気?」
彼女が大事そうに抱えるヴァイオリンを見ても、奏一は何の感情も露わにしない。
例えそれが十何年も使い続ける思い出の楽器だとしても、例えそれがかつて奏一も愛用していた楽器だとしても、……例えそれが娘との唯一の繋がりだとしても、奏一は感情を表に出したりはしないのだ。
彼だって娘と同じ、この世界が闇に染まっているようにしか見えないから。
「無論、例外なわけがない。構わないだろう、今更そんな邪魔物に執着もあるまい」
「父さんは……本気で、全てを捨てるつもりなんだ……」
一瞬哀しそうに目を伏せ――、
「……琴浦、自信はあるの?」
問いかける言葉は、有無を言わさぬ強さを纏う。
「自信って……」
「もし私が立候補者として名義を貸したら、……この島、今度こそ救えるかって聞いてるの」
答えに詰まったのは一瞬だった。
今までの失敗が脳裏を過ぎり――直後、かつての詞音の笑顔が呼び起こされて――。
「救うに決まってんだろ。お前、俺を誰だと思ってんだ」
「世界で一番大っ嫌いなアホ。……うるさくて厄介で調子者で自意識過剰で馴れ馴れしくて面倒臭くて、……本っ当に相容れないヤツ」
言いたい放題だった。
それでも、八年ぶりに詞音は鋼志郎と目線を通わせた。
それだけで今は十分。
「御覧の通りだ闇倉奏一! こっちゃ俺に海司に闇倉の三人体制! こんだけ熱烈な希望者がいるんだ、まさか商工会の計画を無下になんかしないよなぁ!」
水を得た魚のように盛り上がる鋼志郎に対し、奏一は忌々しげに舌打ちをする。
「……詞音、お前はもう少し聡明な子だと思っていたんだがな」
「悪いわね、今日だけは感情論でお話しましょ」
奏一は大儀そうにため息を吐き、それでも優位を確信した表情を崩さずまもりに視線を移す。
「成田教員、誠に遺憾だが希望者が出てしまった。……商工会の最後の足掻きは譲ろう」
「あ~ァ全く、遺憾過ぎて今すぐシャンパンタワーでもおっ立ててェくらいだな」
「しかしさりとて崖間際の状態であることは自覚していただこう。一週間後の一件が今後に繋がらないようであればそれまでだ、末路は結局変わらない」
「崖際上等ォ。こちとら教育家なもんでよ、絶体絶命の状況をどううっちゃるか生徒に教えンのが大の得意でな。アンタこそ自覚しとけよ、この世で一番怖ェのは窮鼠だってことをなァ」
「フン、肝に銘じるやら肝を冷やすやら……。良かろう、どうせそのうち傀儡になる身だ、糸が縺れる前に精々踊れるだけ踊るがいい」
そう言って奏一は踵を返し、この部屋を立ち去ろうとして――、
「……詞音。お前だけは音楽の無力さを、……知っているだろう……?」
呪いを唱えるような低音でそんな言葉を放つ。
彼が詞音の返答を待つことなく姿を消して、……部屋の中は一転して静寂に包まれた。




