6章 君に届けたい言葉
「……」
やがて曲の終局に至り、鋼志郎が鍵盤から指を放す。
最後の一音が響いて揺らぎ、その残滓すらもが消えてなくなった時、再びこの部屋に静寂が戻ってきた。
「……」
別段変わりなく見える詞音だが、一応の礼儀として、指先だけで小さな拍手をしてくれる。
あ、ども、と鋼志郎も気恥ずかしくなりながら軽く頭を下げた。
……今まで誰かに演奏を聴かせたことなんてなかった。
家で弾く時は必ずヘッドフォンを付けていたし、友達に聞かせるような肝っ玉なんてない。
それでも憚られることなく彼女の前で演奏ができたのは、きっと――。
この音が、闇倉の為に生み出されたものだから。
「ねえ」
と、鋼志郎の思考を両断するように放たれた一言によって我に返る。
「琴浦って、……その曲、好きなの?」
「え? あ、あぁ、ずっと昔から大好きだよ、今でもよくCD聞くくらい。いいよなあガーシュウィン、サティとガーシュウィンは俺の中で双璧を為す音楽家だ」
「へえ……ガーシュウィン好きなんだ。……私も、ガーシュウィンすきだけど」
「やっぱり闇倉もガーシュウィン派か! そーだよなー、いいよなー! え、ちょっと千一夜語り明かそう。なんならみりんくすねてくるから腹を割って話そう」
「ちょ、ちょっと落ち着いて。ていうか落ち着け、……ちかい、ちかいわぼけ」
詞音が拒否のボディランゲージをし始めて、鋼志郎はようやく自分が滾る思いのままに詞音へ急接近していたことを知る。
「あぁ、悪い……なんせ同志に出会ったのなんて初めてだからさ、ちょっと俺のやんちゃな一面がまろび出てきた。目に見えて猛省する」
「……同志?」
その言葉を聞いた詞音が首を傾げ、正しく意図が伝わらなかったような顔をする。
「え、だって同じ作曲者が好きなんだしさ、ついでに言えばクラシック好きも共通点だろ俺たち。まごうことなき同志じゃん、俺は今闇倉に対してピースフルな親近感を覚えている」
「……」
詞音は怪訝そうな顔をしたが、朝のように一蹴してついでに暴言を吐いたりするような真似はしなかった。
同志という言葉は嫌なのだろうが、この島で数少ないクラシック好きというシンパシーは理解できているのだろう。
式鳴島でクラシックを嗜む人はほとんどいない。
この島には伝統楽器の文化が根強く残っており、ピアノやヴァイオリンなんていう西洋楽器を嗜む文化は広がっていないからだ。
和琴や篠笛、拍子木、鼓などの伝統楽器ばかりが普及している。
だからそもそもこの場所にピアノがあること自体不可解なことで――。
「このピアノとヴァイオリンって学校の備品なのか? 授業で使った記憶はないが……」
「ピアノは寄付金で買ったもの、でも生徒数と教員数の激減で授業への導入が見送られたらしいわ。……このヴァイオリンは私の私物、言っとくけどあげないから」
「いやかっぱらってやろうとか目論んでないから、そんな暴漢を見るような目ぇすんな」
そのヴァイオリンには隠しきれない年季が刻まれていた。
記憶の隅にある影と姿形がぴったり重なる、それは紛れもなく八年前に彼女が手にしていたものと同じだった。
「まあヴァイオリンもいいよなー。音が透き通ってて、高音がしっかりしててさー。弾いてる姿も上品だし、俺も機会さえあったらヴァイオリン弾いてみたかったよマジで」
「……うん。あれだけ綺麗な音があんなに小さい楽器から出るの、不思議で素敵だと思う。他のどの楽器よりも、ヴァイオリンの音が一番好き」
うんうん、と二人して頷いた。
なんだかこうしていると仲良しになった気分だと鋼志郎はしみじみと思う。
今日の午前までは全く交流のない二人だったし、むしろバーカと暴言を吐かれるような関係であったが、人生何があるか分からないものだ。
しばらく――今まで誰にも話せなかった反動か、鋼志郎と詞音は音楽についての話を交わす。
あの演奏家はいいだとか、あの作曲者ってゴーストいるよねとか、アルペジオ辛いよなとか、他愛もない話を。
もちろん二人の距離感は変わらないままだ。
詞音は他人を寄せ付けないような雰囲気を醸し出し続けているし、鋼志郎も敢えて踏み込もうとはしない。
今までクラスメート同士だったにも関わらず、まるで初対面であるかのように手探りの会話が続く。
いや、それはもはや初対面と同じだろう。
今までしてきたことは全て、一方が言葉をぶつけているだけの会話とは呼べない何かだったのだから。
でも今は違う、相手の心に、真意に馳せながら会話を交わす。
お互いが初めて双方の考えていることに触れて、言葉を届け合っている。
「……なあ、闇倉」
感傷交じりのその言葉は、きっと彼女にとっては唐突な言葉なのだろう。
それは奇しくも自分がかつて音楽の道へ誘われた時のように。
でも鋼志郎にとってはごく自然な――八年越しの、言葉。
「八年前の約束を、叶えてみたいんだ」
詞音は異国の言葉を聞いたかのように首を傾げる。
それはそうだろう、詞音は鋼志郎の本意を知らないのだから。
そして鋼志郎はその本意を言おうとはしなかったのだから。
「闇倉、俺はお前という人間を知らん。せいぜい名前と得意教科と得意楽器を知っているくらいだ。だから六年前、どうしてお前が人を避けるようになったのか知らない」
「……」
「俺は知らない……知らないけど、お前が言いたくないなら別に知らなくていい」
あの日何があったのか、気にならないと言えば嘘になる。
しかしそれは求めるものではない。
今の鋼志郎が求める希望は――、
「俺はお前と一緒に演奏したかったんだ」
そしてもう一度、ちゃんと話がしたかったんだ。
立場は逆になってしまったけど、……自分がこうして明るくなれたのは、闇倉詞音という目標があったから。
鋼志郎の言葉を聞いて、詞音は数秒動きを止めていた。
果たして心臓が動いているのか不安になるくらいの完全なる静止だ。
それでも脳だけは著しく回転していたのだろう。
彼女は徐々に表情を険しくさせ、もし質量があったならこの室内を埋め尽くすほどの疑問符を頭に浮かべ、
「……なんで……?」
と、いつもに増して不可解そうな言葉を口から発す。
「八年前、お前は『いつか一緒に演奏しよう』って言ったよな」
「え……?」
懐疑的な表情をしながら、詞音は己の口元に手をあてる。
……薄らぼんやりとだが、かつて鋼志郎と何かを話したような気はする。
でもいつどこで話したのか、どんな話をしたのか思い出せない。
現実なのか夢うつつなのかさえ判断できない程度の朧気な記憶だった。
「……記憶にないけど……仮に本当だとしても、小一の時の約束なんて期限切れでしょ……小さい頃の指切りげんまんとかほとんど憶えてないでしょ……?」
「悪いが俺は約束をそこはかとなく順守する男でな。あどけない頃の我々の為、諸手を挙げて遂行する所存だ」
「えぇー……」
詞音は喉の奥から掠れた声を出し、反抗期の娘みたいな表情で鋼志郎のことを見つめる。
そんな顔をされても鋼志郎は怯まないし盛り上がっていく一方だ。
「……あの、琴浦、言いたいことがあるんだけど」
「おう、俺も言いたいことが八年分あるぞ」
「私、は……もう……人前で演奏できないん……だけど……」
歯切れの悪いその言葉は、窮したこの場を回避する為の突発的な嘘ではなさそうだった。
気まずそうに視線を揺らめかせ、口ごもるその様は何かを伝えられない時の様相だ。
「六年前……のことか?」
「……」
言葉も発せず、詞音は首肯した。
心なしか顔が青白く薄らいでいる。
双方かける言葉を失って、数秒沈黙が流れた。
時が止まったかのような静寂を打ち破ったのは、詞音の囁き。
「……音?」
「ん、何……って、えッ!?」
詞音が壁のスイッチに手をかけ、バチン! と音を立てながら部屋の明かりを落とす。
「ど、どうしたっ、急に電気消して……お前なんか俺にやらしいことを……!?」
「……誰か来た。こんな時間に」
「えっ」
二人して窓から外を窺う――が、純黒に包まれた光景は人影どころか地形すら見えない。
「……車の排気音が聞こえたから多分大人。同年代ならまだしも、大人に見つかると相当マズいことになるわね」
「まもり先生じゃないか? 外見と言動がファンキーなんだし夜中来る可能性も……」
「先生はバイクの免許しかないって聞いたことある……っていうかこの情報触れ回ってたのあんたでしょ。曲がりなりにも教師が無免許運転すると思う?」
「……くそっ、こんな状況だけどまもり先生ならちょっとあり得そうだから反応に困る……」
耳を澄ませば扉を開ける音、階段を上る音。
……音は迷うことなく近づいてきている。
「ま、真っ直ぐこっち来てる……。なんでだよっ、教室ならまだしも倉庫に何の用が?」
「そんなの電気が点いてたのを見られたからに決まってんでしょ……!」
「やべーって……とりあえず隠れるぞ、はやく!」
鋼志郎が我先にと押入れに忍び込もうとする。
「ちがう、そっちじゃない……! こっち!」
が、詞音に手首を掴まれて引き戻される。
他に満足な隠れ場所なんてないのにこっちってどっちだよと言いかけた鋼志郎の前で、詞音は窓枠に足をかけ、天井の板を強く押す。
すると板がズレて天井裏への道が開通した。
「お前学び舎を改造すんなよっ。見た目よりアナーキーだな……!」
「なわけ! 地震で天板ズレてたのを見つけたから楽器の隠し場所に使ってるだけ! ……いいから早くっ、もうすぐそこまで来てる……!」
足音は憚られることなく近づいてきている。
四の五の言いたい鋼志郎だがぐっと堪え、詞音に続いて天井裏へと登って行った。
ただでさえ塵芥だらけの倉庫だが、天井裏はもはや埃一色と言っても過言ではなかった。
そんなロマンも何もない場所で、二人は息を潜めて気配を殺すことしかできない。
板同士の僅かな隙間から室内を覗き見られたのは幸運か、闖入者のツラを拝むことができたのだから。
「…………」
部屋に立ち入ってきたのは、……成人男性。
決して生徒と呼べるほどの若さはない、さりとて教師と呼ぶにはあまりに雰囲気が違い過ぎている。
こんな教師がいるものか、マエストロのような貫録を纏った男が教師であるものか。
授業参観の時に数度だけ、鋼志郎はその姿を見たことがあった。
(闇倉……奏一……!)




