5章 すべてのはじまり
八年前――鋼志郎が小学一年生の頃。
義務教育も始まったばかりだというのに、彼はもう全てに対して諦めを覚えていた。
クラスの中でも鋼志郎は地味な存在。
幼馴染である海司以外に友達はおらず、友達を増やそうにも声をかけることすら彼にとっては至難の行為だ。
そんな彼と対照的に――闇倉詞音は当時クラスの人気者だった。
明るくて社交的でムードメーカーで、子供だけでなく大人からも好かれている立場の生徒であった。
もしも彼女みたいになれたなら。
……そんなことを思い続け、しかし思うだけで行動には移せず、鋼志郎は欝々とした日々を過ごしていた。
そんな鋼志郎が詞音と初めて話をしたのは、桜舞い散る春が過ぎ、陽炎を揺らす夏が過ぎ、ススキが靡き始めた小学一年の秋のことだった。
迂闊にも忘れ物をしてしまった鋼志郎は、湧きあがる恐怖を噛み殺しながら学校へと向かっていた。
空は黒ずみ、灯りの一つさえも瞬かない、歴然とした夜のことだ。
学校に立ち入った彼は、どこかから聞こえてくる旋律に気づいた。
偶然発生したものではない、誰かが奏でる音の芸術だ。
だが幼少期ゆえに彼はその現象を恐れた。
誰もいないはずの学校で音が鳴り続けるだなんてホラー、尻から十二指腸が飛び出そうなほど怖いに決まっている。
それでも音の発生源に近づいていってしまったのは――その音が透き通るように綺麗だったからだろう。
四弦の織り成す形のない美に、彼の心臓が同調するように高鳴っていた。
そして鋼志郎は、校内倉庫の扉を開けて出会う。
本当の闇倉詞音に、音楽の道に、ラプソディ・イン・ブルーの旋律に。
それがきっと全てのきっかけ。
「……っ!?!!!??」
突然立ち入ってきた鋼志郎に対して、詞音は実の親でも見たことがないくらいに驚いていた。
むしろその様子を見た鋼志郎が驚いてしまう程度に。
「えっ、あっ、ええっ!? こ、琴浦くん……だよね……?」
「ま、まあ、琴浦かと言われたら琴浦……だけど……」
「えっ、なんでこんな時間にこんな場所に!? 一体何のたくらみが!」
「ま、まあ、忘れ物を取りに来ただけ……だよ……」
「あ、あぁなんだ、そーだったんだ……もー、忘れるなら忘れるって言ってよぉ……」
なんだか無茶なことを言いながら、詞音は驚愕の際に取り落としていたヴァイオリンを拾い上げた。
それを見た鋼志郎は不思議そうに首を傾げ、妙に乾く喉で言葉を紡ぐ。
「……それ、楽器……?」
「うっ……バレちゃったか。秘密にしようと思ってたんだけどなー。くそう分かった観念する、これが私のヴァイオリンだ! 穴が開くほど見るがいい、私は穴があったら入りたいから」
自分の趣味やら性格やらを惜しげもなく話題のネタにしている詞音だが、音楽を嗜んでいるなんて話は聞いたことがなかった。
もちろん鋼志郎の耳に届いてくる範囲での話だが。
「演奏、……やってたんだね」
「あー、うん、してた。実はずっとまえからしてた。……ちょっとアレ、このこと内緒にしといてくれない? このことだけは誰にも話さないようにしてるんだよね」
「え、……いいけど、どうして」
「だって恥ずいじゃん! わたしまだ始めたばっかしで全然うまくなんかないし、ていうか努力してるとか知られるのちょっとあれ、はずい。やっぱりみんな、こっちあんましみんな。ほんと頼むから顔みないで、今まじではずい、たすけてほしい」
耳朶まで真っ赤に染めている彼女を見て、初めて彼女を身近に感じる。
今まで彼女がやることなすことは何もかもが高水準だった。
しかも努力の痕跡を見せずに易々とやってのけるのだから同じホモサピエンスかどうかも怪しかった。
でも彼女だって努力をしていた。
誰にも知られないよう隠密に。
「でも、わざわざ学校でやらなくても……」
「しかたないの、ヴァイオリンの練習しまくってることはお父さんには知られたくないの……ていうかほんとこっち見ないでって一生のおねがい。目つぶしするぞ」
彼女の父親は確か作曲家だったはず――民族楽器の文化が根強いこの島で、唯一西洋楽器の道を選んだ変わり者だ。
姿こそは見たことないが、噂で耳にしたことくらいはある。
「うー……まあバレちゃったもんは仕方ない。ほら突っ立ってないで琴浦君も座って! 乙女の秘密を暴いたんだから話し相手くらいにはなってもらおう」
「え……」
それから彼女とは色々な話をした。
……といっても鋼志郎は話下手かつ人見知りという特性持ちなので、ほとんど詞音が話しかけていたと言うほうが正しいのだが。
作曲家の父親に憧れてヴァイオリンを始めたこと。
いつか父親の書いた曲をコンクールで演奏するのが夢だということ。
大好きなラプソディ・イン・ブルーのこと。
音楽のことだけではなく、クラスの子たちのこと。
給食の揚げパンがどうにもおいしくないこと。
そろそろ体育の授業で長袖を解禁してくれないと寒くなってきたこと。
もう廃止された伊豆鳴祭に一回くらい行ってみたかったこと。
家族や幼馴染の海司以外とこんなに話をするなんて初めてだった。
今まで遠い存在だった詞音だけど、手も届かないような距離感があると思っていたけど、……少しだけ距離が縮められたような気がした。
こんな時間が続けばいいのに。
そんなことを思っていると、詞音は不意打ちのように言う。
それは不意打ちなんかではなく、きっと彼女にとっては自然な流れだったのだろう。
唐突だと思ったのは、鋼志郎が音楽未経験だったから。
「琴浦君も音楽やってみなよ。楽しいよ!」
音楽未経験者にとって、演奏というものは無理難題に思える。
鋼志郎にとってもそうだ、ヴァイオリンもピアノもギターも、自分が演奏できるビジョンが全く見えてこない。
でも……と、彼は目を伏せた。
……もしも自分が音楽を始めたら、もう一度こんな時間が過ごせるだろうか……?
人気者の詞音と、こうして友達のように会話することができるだろうか……。
「それでさ、いつか一緒に演奏しようよ。絶対楽しいよ!」
きっとそれは、詞音にとっては何気ない言葉。
でも八年経った今でも、その言葉は忘れられず――。
――本土の親戚が持つ唯一の楽器を取り寄せてもらい、鋼志郎の日々は始まった。
それは安っぽい電子ピアノと中古の入門書と一冊の楽譜、けれども彼にとっては掛け替えのない――彼女と共に演奏する夢に繋がる手段。
音楽を始めてから何年もの間、鋼志郎はピアノを弾き続けていた。
詞音と並び立つため、彼女との誓いを現実に変えるため。
ピアノの基礎を入門書で学んで、彼女があの日あの場所で弾いていた曲を――ラプソディ・イン・ブルーを、この身に刻み続ける。
だが六年前、詞音が自分を閉ざして孤立してから――鋼志郎も少しずつピアノと触れ合う時間が減っていった。
元々彼女のために努力し続けたピアノだ、彼女が人との関わりを捨てたというのならば、鋼志郎の行いに意味など無くなってしまう。
それでも強くなろうとした。
彼女が心を閉ざしてしまったのなら、自分がその心の壁を取り払えるような人間になればいいと思った。
商工会の集いに参加して活性化に勤しんで、始めは吐き気を催しながら人前に立って、子供だけじゃなく大人とも関わるようになって。
あの頃の詞音を理想として、それになる為に何年も努力し続けて――鋼志郎はかつての詞音のように明るくなれた。
教師に気に入られてクラスの中心人物となり、友達も増えていった。
でも、……その頃にはもう、詞音は取り返しがつかない程、心を閉ざしていた。
どれだけ鋼志郎が言葉をかけても、彼女はもう、絶対に心を許すことなどない程に。




