4章 八年越しの音色
「……っ!?!!!??」
そんな鋼志郎の感覚は一瞬の内だった。
扉の開く音を聞きつけた詞音が飛び上がらんばかりに驚いて、その拍子に感傷は吹っ飛んでいく。
「こ、ことっ、ことッ、ことこと、ことうら……!?」
「クラシック弾きながらラップみたいな声出すなよ」
詞音があんまりにも動揺するものだから、そのあんまりな慌てっぷりを見ていた鋼志郎は逆に落ち着き払っていた。
「な、なんで、なんでこんな辺鄙な場所に……!」
「俺たちの学び舎を辺鄙な場所とか言うな。俺はそのー……いつも通りだよ、イタズラ。でもなんかいい音色が聞こえたから音に惹かれてのこのこやってきたら、闇倉を見つけたわけ」
「……あ、ああ、そういうこと……」
鋼志郎が訪れた理由を知って、詞音も少しは落ち着いたようだ。
いつもの不愛想な表情が戻ってくる、正直鋼志郎的には戻ってきてほしくない。
「それよりお前、なんでこんな時間にこんな場所でこんなコソコソとこんな演奏を――」
「うっさい、見たらわかるでしょ」
「え、見立て通り『ヴァイオリンの練習をしたかったけど人に聞かれたくなかったから暗くなってから忍び込んで弾いてました』でいいのか」
詞音は曖昧な表情で僅かに首肯して、述べるべきことは全て述べたと言わんばかりに腕を組み、ついでに足も組み、明後日の方向を向いて黙りこくってしまう。
「闇倉、まだ『お前ヴァイオリン続けてたんだ』とか『人に聞かれたくないにしてもなんでわざわざ学校で弾いてんの』とか『お前今日誰が音楽なんかするかバーカって傷つくこと言ってたよね』とか色々言いたいことや泣きたくなるようなことがあるんだけど」
「……ぷいっ」
完全に黙秘権を行使し始めた詞音はオオジャコ貝のように堅く口を閉ざし、鋼志郎には目線すらくれてやらない徹底拒否の姿勢をとっている。
ちょっとした自白剤でも打ち込みたいが何かの法に触れそうなので堪え、辛抱強く質問をぶつけていく。
が、無駄だった。
いくら質疑応答を始めようとしても、肝心の詞音が死人より静かなので言葉のキャッチボールが投球練習になるばかり。
これでは意思疎通が図れない。
「はぁ……」
すっかり質問に疲れた鋼志郎は、もう帰っちまおうかなと考えながら周囲を見回した。
そういえば今まで様々なイタズラをしてきたが、この室内倉庫に忍び込んだことは一度もない。
今後何かをやらかす時のために有用な道具がないか見ておくのもいいだろう。
と、その時、部屋の奥に鎮座する『ある物』を発見した。
黒いシートで覆われているがあの形は確実にアレだ。
その推論を裏付けるように、シートの隙間から金色のペダルが見えている。
鋼志郎は立ち上がり、その物体に近づいていく。
そしてシートを引っぺがし、隠されていたそれを露呈させた。
……そこに置かれていたのは、こんな田舎には似つかわしくない漆黒のグランドピアノだった。
見た目だけ絢爛豪華な安物ではない、職人のこだわりが垣間見える極上の一品だ。
鋼志郎が息を呑んでしまったのも無理はないと言えるだろう。
「へぇー、こんなド田舎にピアノあったんだ! はぁー、こりゃマジで上玉だ。何百万するんだよマジで。なんだよ、ここにいたんなら言えよなー!」
と、ピアノの天板をさすりながら無機物に無茶なことを言っている鋼志郎は、グランドピアノとの遭遇にテンションが上がっているようだった。
そんな彼の背を、詞音が物珍しいものでも見るような目で眺めている。
「ほぉー、音もいい……」
鍵盤蓋を開けて、赤いキーカバーを取っ払って、鋼志郎が鍵盤を何個か押していく。
響く音は透き通り、耳の中を撫ぜるように通り抜けていった。
そんな鋼志郎の背を、詞音が古い千円札を見るような目でとても眺めている。
「……」
椅子に腰かけ、鋼志郎が一度腕を回す。
そして鍵盤の上に指を置き、静かに、優しい旋律を奏で始めた。
彼の奏でる音楽はラプソディ・イン・ブルー。
ジョージ・ガーシュウィン作曲、ファーディ・グローフェ編曲のシンフォニックジャズ。
そのピアノ独奏版だ。
長いこと演奏をしていなかったせいで時折音を外したが、それでも彼は演奏を続けた。
久方ぶりの弾奏はおぼつかず、指は思った通り動かない。
鍵盤を弾くタイミングとペダルを踏むタイミングも合わさらない。
それでも構うことなく音を紡ぎ続けた。
音が跳ねる、指が躍る。
ピアノを楽しんでいたあの頃を、ピアノを心の拠り所にしていたあの頃を、鋼志郎は少しずつ思い出していく。
「……ふーん」
と、気のない感嘆詞を口にしつつも少し表情を和らげているのは、闇倉詞音その人だった。
彼女は鋼志郎の後ろに立ち、覗き込むような形で鍵盤、及びその上で舞う指を見ている。
何やら興味津々といったご様子だ。
「ピアノ、……弾けたんだ」
「あー、まーな。数年間だけ弾いてたことがあるんだよ。……といっても小学生ン時の話、今はもう音楽からは足を洗ってる」
「その割には、結構弾けてる気がするけど」
「これだけだよ。俺が一番好きだった曲で、一番練習した曲で、一番印象深い曲だからな。この曲だけは目ぇ瞑ってても弾けるし、ピアノを弾かなくなってもまだ演奏できる」
何度も何度も反復練習を行うと、次第に指が動きを覚えて楽譜を見ずとも弾けるようになる。
それでも繰り返し演奏を続けると、今度は鍵盤を見なくても弾けるようになる。
そしてまだ演奏し続けると、楽譜の内容を忘れたとしても、いつまでも感覚だけで演奏ができるようになる。
鋼志郎にとってはラプソディ・イン・ブルーがそれだった。
あれから何年もの月日が流れても演奏ができる、そんな思い出の曲だった。
「ふーん……へーえ……ほー……」
鋼志郎が頑張って演奏しているにも関わらず、詞音はなんか妙に小うるさい。
「あの……闇倉さぁ……気になるの?」
「気になんないけど」
「え、真顔で嘘つくの止めよ? かぶりつくように人の手見てんのにその大嘘はないだろ」
「うっさい、演奏するなら口閉じて真面目にやって」
「止めるんじゃなくて真剣な演奏を促すのか。お前もう単なるリスナーじゃん」
とはいえ黙れと言われれば黙る他なく、鋼志郎は口を閉ざして演奏を続けた。
その背後で詞音も黙りこくり、彼の奏でる旋律を無表情で聴き続けている。
……まさか、詞音の前で演奏をすることになるだなんて思いもしなかった。
でもある種報われたのかもしれない。
だって鋼志郎は、詞音の為にピアノを始めたのだから――。
小学生の頃、鋼志郎がまだ内向的だったあの日々を。
そして詞音がまだ明るかったあの日々を。
……鋼志郎は思い出していた。




