3章 島の死
――詞音や鋼志郎が住むこの式鳴島に、未来はなかった。
この島の未来は真っ黒だ。
何もかもが色を失い、吸い込まれるような黒に染まっている。
島の面積は三平方キロメートル、なのに人口はたったの百五十人前後。
観光資源を持たず、この島出身の有名人もおらず、唯一の祭事だった伊豆鳴祭も廃止された。
この島の名前を知っている者は少なく、いたとしても伊豆諸島の島々の一つとしか説明できないだろう。
移り住んでくる者も当然おらず、刻々と人口は減るばかりだ。
子供の総数なんか少子化の煽りを受けて、もう三十五を切っている。
そう、年少者の減少。
それがこの島の抱える一番大きな問題だった。
この島には高校も大学もなく、働き口もせいぜい漁師か農業か医療職かデイサービス程度しかない。
だから中学生を終えた子供たちは本土へ渡り、帰省の時にしかこの島へ帰ってこないのだ。
そんなことを考えるたび、鋼志郎はやりきれない気持ちになる。
彼はもう中学三年生。
あと七ヶ月経てば高校進学の為にこの島を出なくてはならない。
生まれて初めての自立に対し、どうしても不安を忘れられなかった。
「……」
今更、ではないのかもしれない。
思えば昔からそうだった、将来への不安でいっぱいだった。
バカなことをやり続けている理由の一つは、中学を卒業した後のことを考えたくないこと。
スリルと楽しさを麻酔代わりにして現実から逃げ続けていた――。
もう少し賢く生きていけたなら――そんな後悔はもう今更だった。
「コウちゃーん! ちょっとー!」
遠くから母親の声が聞こえ、鋼志郎は嫌そうな顔をした。
あの母親が『ちょっと』なんていうファジーな言葉で息子を呼ぶのは、いつだって面倒臭いことを押し付けてくる時だ。
ベッドに横たわっていた彼は体を起こし、枕元に置かれていたペットボトルを一口煽る。
そして暗い部屋の中で時計を引っ掴み、現在が夜の九時であることを認識した。
そしてベッドから降り、気だるげな足取りで部屋を出る。
軋む廊下を歩いてリビングに向かい、洗い物をしている母親の背に近付いた。
「あんさ、用事あるならいの一番に内容言ってほしいんだけど。それによって聞こえなかったふりをするかしないか決めるからさ」
「なーに言ってんの、母ちゃんの命令無視したらあんた飢餓に陥るよ。で悪いんだけどさ、粗大ゴミ持ってってよ。今朝出そうと思ってたんだけど重くてかなわんかった」
案の定雑用だった。
鋼志郎もげんなりしてあからさまなため息をつく。
「お袋一人じゃ手に負えないゴミを俺が一人で抱えられると思うか。自分の腕力を過小評価するなよ、俺だって持てない」
「あー分かってる分かってる。あんたの腕力が可哀想なことくらい分かってるから、さっき手伝い呼んどいた」
「手伝い?」
母親が玄関のほうへ行くよう指さしたので、鋼志郎は渋々と歩き出す。
そして玄関へ辿り着くと同時に、中々見ごたえのある驚愕を露わにした。
「よぉー、なんかお前のオカンに呼ばれて来たんだけどぉ」
そこにいたのは海司だった。
夜分遅く暗いのをいいことにラフ極まりない軽装で、まるで部屋着のような恰好……というよりは、完全に部屋着だ。
恐らく部屋でくつろいでる時に、電話で呼び出されたのだろう。
いや、呼び出されたのだろう、と冷静に分析している場合でもなく。
「おいお袋さァ! なんで人の友達に勝手に電話して粗大ゴミ運びさせようとしてんの!? なんか恥ずかしいから俺のダチに電話すんなっつったじゃん! ていうかむしろ恥ずかしくないのか大人として親として、子供に手伝い頼むなんてさァ!」
「なァーにナマ言ってんの、昨日教師にロケットブチこんで迷惑かけまくったバカはあんたらだろ。黙ってさっさと行ってきな、オタマでドタマカチ割るよ!」
「ぐ……」
そこを突かれると鋼志郎も海司も弱い。
昨日はその謝罪やら何やらで親が出張るまでの大騒動になったのだ。
下級生からの火急な願いだったとはいえ、あんなことをやらかした今強くは出られない。
そもそも母親の性格がおっかないから強く出た日なんてないが。
「まぁーしょうがないよねー。行こっかコーシロ、お前の母親にはどうしても勝てないしさぁ」
「チ、今に見てやがれお袋、五十年後くらいに報復してやる」
「相手が墓石になった途端強気に出るなよ」
鋼志郎と海司は玄関先に置いてあるデカブツへと近づいた。
ピンクの毛布で包まれた粗大ゴミは中々の大きさで、なるほど道理で海司が呼ばれたはずだと鋼志郎は納得する。
これを一人で持つのは並々ならない苦労だろう。
二人は息を合わせてゴミを持ち上げ、牛歩のような速度で運んでいった。
島の夜はいたく静かだ。
車の通り一つ無く(そもそもこの島に信号が一つしかない時点でお察しだ)、夜中まで開いている店なんかどこにもない。
それどころか商家もほとんどもない、明かりを灯した民家が点々と並ぶばかりだ。
一歩一歩の足音がうるさく感じるほど静かな夜道を、二人は粗大ゴミを抱えつつ進む。
「あのさぁー、このゴミなんだけど」
「なんだ、やらんぞ」
「いらんけど、これさぁー、電子ピアノだよねぇ。捨てていいの? 大事なモンでしょ」
「……ああ、まあ、いいよ。別に。もう弾かないから部屋のインテリアと化してたし、お袋が邪魔邪魔やかましいし。それに春が来れば、俺この島からいなくなるしさ」
「へぇー。……過去を捨てるってことだねぇー」
このピアノは自分にとって思い出の品だ。
昔、夢を叶える為に親戚のツテを辿って手に入れた一品。
でもピアノを楽しんでいたのは昔の話、今はもう埃を被って佇むばかりだった。
これを捨てる行為はある種の決別であり、諦観でもある。
もう二度と、あの日夢見た未来は訪れないのだという絶望。
そんなことを思い、少しだけしんみりした鋼志郎は空を見上げた。
式鳴島の夜空は嫌味なくらい星にまみれていた。
まるで手を伸ばせば銀河に至れるかのように、満天の星空は遠近感を錯覚させる。
幼い頃からこの夜空だけは変わらなかった。
幼少期、空を見上げたあの日から、どれだけ変われただろうか?
どれだけ頑張れただろうか?
鋼志郎は今の自分を鑑みるが、確信と自負は得られない。
夜空を見上げる度、彼はいつも不安に駆られていた。
「……あんさ、海司さ、ちょっと変なこと訊いてもいいか」
「あぁー? すれば、変なこと言ったら俺も変な答え言うけどぉー」
「俺、頑張れてるかなあ」
変なことを言った鋼志郎に対して、海司は変な答えを返さなかった。
ただこの暗闇の中で目を眇め、正面にいる鋼志郎の姿を射抜いた。
魂胆を推し量るように、どんな答えを望んでいるのか検討するように。
尤も暗くてロクに見えやしないが。
「……さーね、どーだか」
確定した答えを、海司は口にしなかった。
彼だって分からない。
この島を救う為、鋼志郎は商工会と結託して様々なことをしてきた。
様々な地域活性化活動に参加し、時には彼自身が発案者や牽引役となり、この島を救おうと抗ってきた。
しかし何の特徴もない島を活性化させるなんて並大抵のことじゃない。
……だから何度だって失敗し、島は変わらず死に向かっている。
だからせめてもの償いとして、鋼志郎はみんなを楽しませようと考えてきた。
自分の身に多少の危険があろうが、色々なことをしてみんなを盛り上げ続けてきた。
残り少ない島生活を少しでも忘れ難きものにしようと、必死でもがいてきたのだ。
クラスでバカなことをするのも、みんなを笑わせるために海司とバカな会話をするのも、クラスのリーダーとしてみんなを先導するのも全てが贖罪。
でも時々彼は不安になっていた。
今の自分は頑張れているだろうか、失敗の償いはできているだろうか。
「……そうしょげなくってもいいんじゃん? 俺は結果派じゃなくて過程派だから、成し遂げたかどうかはどうでもいいけどー……まぁ過程派から見りゃ、今のコーシロは充分頑張ってると思うよ」
断定ではないその言葉は、むしろ鋼志郎の不安を取り除くのに一番適していただろう。
鋼志郎は星空から顔を逸らし、正面にいる友の顔を見た。
「海司……お前さ、稀にいいこと言うんだな。善人みたい」
「なにすっとぼけたこと抜かしてんの、俺は常日頃から見上げた好青年だろ」
「いや、多分、一部の奴はお前をいけすかない奴だと思ってる気がする……」
夏の温い夜風を肌に感じて、それがまた心地いい。
しばらくの間二人は押し黙り、粗大ゴミを運び続けた。
何度かの休憩を挟み、十数分後、二人は粗大ゴミ受付センターまで辿り着く。
開けっ放しになっている倉庫の中にゴミを置き、有料粗大ゴミ処理券を貼り付ける。
これでしばらくすれば定期船が来て回収してくれるはずだ。
仕事を終えた二人は、だるそうに肩を回しながらセンターを出て行く。
「で、コーシロ、お前はこれからどうすんの? まだ九時半なんだけどぉー」
このまま直帰して母親の顔を見るのも癪だ、と鋼志郎は中学生らしい反抗心を浮かべていた。
どうせ慰労の甘味を用意して待ってるような甲斐性なんてあるわけもないし、少し遅く帰ってどれだけ大変だったのかを時間で強調するのもいいだろうと思う。
「このまま帰んのアレだし、ガッコ行って黒板にエスプリ利いたアメリカンジョークでも書いてくる。お前どう?」
「俺パス、夜にまで学校行きたかねぇ。おウチでDDTのニューアルバムでも聞いてる」
「そういや新作出たのか。差し支えあってもなくても今度貸してくれよ」
「バッカ、んなもん熨斗つけて貸すわ。んじゃ道中気ぃつけなよ」
手をひらひら振って、海司は暗い夜道を歩いて行った。
その背が見えなくなるまで見送ってから、鋼志郎も学校に向かって歩き出す。
耳を澄ませば聞こえてくる潮の音、ぽつぽつと並んだ電灯の明かり。
式鳴島の夜を闊歩するのは虫たちのみ、人間たちは家に引っ込んであまり出歩こうとしない。
並ぶ電灯が途切れて暗い道が続いても、鋼志郎は臆さず学校への道順を歩いて行った。
歩き慣れた道は目を瞑ってでも進める。
例え月明りがなくたって、星明りが乏しくたって、学校へは容易に辿り着ける。
だから迷う事なんてなく、鋼志郎が目的地に到着するまで、さほど時間を要さなかった。
「……」
鋼志郎が学校を見上げる。
といっても漆黒の夜なのだから、黒ずんだ空と校舎の見分けなんかつかないが。
迷うことなく入口の扉を開く。
鍵はかかっていない。
田舎特有の文化なのだろうけど、そもそも民家であっても鍵を閉める風習はない。
夜中の学校は当然のことながら静寂に満ちている。
僻地なのでバレる心配がないとはいえ、念のため鋼志郎は足音を殺しながら、電気も付けずに教室へと向かっていった。
どんないたずら書きをしてやろうか、とびっきりドープなイタリアンジョークでも書いてやろうか、エモい落語でも書いてやろうか――。
そんなことを考えていると、……小さな音が聞こえた。
単発の音ではない、連続する音。
偶発的に起きた音ではない、意図を含んだ音。
物が落ちるような鈍く重い音ではない、歌声のように透き通って美しい音。
それは旋律と呼ばれるもの。
そして――、
「……ヴァイオリンの音?」
弦と弓が織り成す、無色透明の芸術。
そのか細い音は、二階廊下奥の校内倉庫から聞こえていた。
鋼志郎は耳をそばだてながら忍び足で階段を上り、校内倉庫へと近づいていく。
距離が縮まるにつれ音は顕著に聞こえてきて、きめ細かい音の流れまでもが耳に入ってくる。
扉の前まで辿り着いて、鋼志郎は思わず足を止めてしまう。
そしてしばらくその旋律に耳を傾けていた。
いや傾けざるを得なかった。
響くビブラート。
倍音をかき鳴らすフラジオレット、純音にも近く、柔和なその音は圧倒的な透明感。
純粋に、しかし蠱惑的に。
奏法はもはや完璧。
強くこすりがちなフォルテは圧力無く力を抜いて響かせられ、速すぎず遅すぎず弓でこすられていく。
無論E線の音がひっくり返ったりはせず、耳障りな騒音を掻きたてることもない。
それは完全な、完璧な、……何一つ欠落のない、完成された演奏。
夜空を往く蝶が街灯に惹きつけられるように、鋼志郎は扉の取っ掛かりに手をかけてしまう。
この扉を開けてはならないのに、もし教師と鉢合わせすればこっ酷く注意を受けるというのに。
それでも鋼志郎は、扉を開いた。
「……………………」
過去の備品が面並び、経年劣化で汚れた室内倉庫。
扉を開けた衝撃で埃が舞った、白い塵芥が綿雪のように舞い散った。
その奥には、アンティークな椅子に座り、ヴァイオリンを演奏する者がいる。
蒼く長い髪が揺れる。
深い紫に染まる瞳には影ばかりが入り込み、そんな目で一心不乱にヴァイオリンの弦を注視している。
演奏で血流が良くなって、ミルク色の頬に頬紅を塗ったような朱が差していた。
不覚にも一瞬綺麗だと思ってしまった。
いつも不愛想な顔ばかりしていたから、顔が良いという事実をすっかり忘れていた。
こうして彼女の真剣な顔を見て、鋼志郎は思い出す。
かつて彼女が明るかった頃のことを思い出す。
闇倉詞音の過去を、思い出す。




