41章 暗闇のコンチェルト
強い――強い一音が聞こえた。
それは演奏を始めた第一音よりもよっぽど大きな、この神社全体に響き渡るような重い音。
鋼志郎が、力の限り鍵盤を押したのだ。
でもそれは、サビの第一音ではない。
全く見当外れな、旋律に至れないはずのただの単音。
会場内が静まり返る。
その音の大きさに、その音の迫力に。
詞音は……詞音だけは、悟る。
その音を、彼女は知っている。
(……この音……)
鋼志郎は、淀みなく旋律を奏で始める。
光も何もないこの世界で。
鍵盤は見えないはずなのに、楽譜なんてないはずなのに。
それでも彼は間違うことなく音を紡ぎ続ける、世界に音が広がっていく。
――鋼志郎はかつて言っていた。
『これだけだよ。俺が一番好きだった曲で、一番練習した曲で、一番印象深い曲だからな。この曲だけは目ぇ瞑ってても弾けるし、ピアノを弾かなくなってもまだ演奏できる』
何度も何度も反復練習を行うと、次第に指が動きを覚えて楽譜を見ずとも弾けるようになる。
それでも繰り返し演奏を続けると、今度は鍵盤を見なくても弾けるようになる。
そしてまだ演奏し続けると、楽譜の内容を忘れたとしても、いつまでも感覚だけで演奏ができるようになる。
それが、この曲だった。
(――闇倉、確かに俺たちの世界は真っ暗かもしれない)
将来なんて全く分からない。
他人を信じられない世界のように見えるのかもしれない。
でも、世界が真っ暗でも、届くものは確かにある。
音は世界に響くだろう。
言葉は世界を彩るだろう。
例えつまらない純黒の世界だとしても。
自分の世界が真っ暗だと悟っていても。
『琴浦君も音楽やってみなよ。楽しいよ!』
誰かの言葉が、闇の世界から救い出してくれる。
『俺はお前と一緒に演奏したかったんだ』
誰かの言葉が、闇の中の道標になる。
だから、闇の世界を共に行こう。
二人なら、きっと何処までも行けるはずだから。
「……ばーか」
涙混じりの声で、そう呟いて――、
詞音も、鋼志郎の音に重ねて演奏を始める。
彼女だって目を瞑っていても弾ける。
この世界で一番好きな曲だから、初めて鋼志郎と心を通わせた曲だから。
二人が初めて愛した曲を。
お互いの演奏を聞いて、心を奪われた曲を。
――ラプソディ・イン・ブルーを、奏でる。
光のない世界に、音が響いている――。
鋼志郎の演奏は不規則だ。
だけど詞音はそれになんとか合わせられている、ギリギリのところで演奏を破綻させないでいられる。
だって鋼志郎が奏でる演奏は、あの時、詞音が聞いたものと同じものだったから。
詞音に伝わるよう、わざと同じ奏法で弾いているのだから。
詞音は記憶の糸を辿りながら音を綴り、鋼志郎の演奏を際立たせていく。
……あの時の演奏は憶えている、初めて聞いた時のワクワク感はまだ消えていない。
その時、鋼志郎が鍵盤の一番低い音を盛大に鳴らす。
それはラプソディ・イン・ブルーの一部ではない、演奏の為に出た音ではない。
それは合図。
彼の企てた、最後の作戦。
その音が響き渡り――数秒後、空に一輪の花が咲く。
猩々緋色、空色、向日葵色、牡丹色、萌黄色。
様々な色の花が音を立てながら空を彩る。
それは打ち上げ花火だった。
花火係だった鋼志郎が、タイミングを合わせて打ち上げてくれるように頼んだ最後の演出だ。
花火の閃光が世界を照らす、純黒だった世界に色が差し込む。
鮮やかな光彩を背にして演奏する二人の姿は、息を呑むことすら忘れる程美しくて。
もう誰も言葉を発さなかった、ただ舞台上の二人を見ていた。
幻想的な、情緒的な、甘美な、神秘的な、おとぎ話のようなありえない光景。
それが只々、人々の心を包み込む。
そんな中、海司だけが我に返る。
そして今しかないと全てを悟る。
ここまでは二人だけの演奏だ。
ここからは、みんなの奏でる旋律へ。
あらん限りの大声で、海司は空に向かって叫ぶ。
「Clap! Your! Hands!」
それは普通の人が聞いてもきっとわけが分からない言葉だろう。
幻想的なこの時間の中で叫ぶには場違いな言葉だと思っただろう。
でも……鋼志郎だけは、その意味を悟った。
だってその掛け声は、二人が友達になったきっかけを作った、あのバンドの掛け声で――。
二人は笑った。
お互いの姿なんか見えるはずもないのに、確かに目線を合わせてニヤリと笑った。
海司の声を聞いたクラスメートたちが一斉に手拍子を始める。
みんな一斉に高々と手を掲げて、リズムに合わせて全力で手を叩いていく。
人混みの至る所から、散り散りになって待機していたクラスメートたちの拍手が響く。
島民たちは、そんな文化を知らない。
でも同じようにして手を叩き始める。
少しずつ、けれども確実に手を叩く人数は増えていく。
気づけば……みんな手を叩いていた。
停電が起きたことすら忘れて、花火舞う音の世界で手を叩く。
「――みんな! 一緒に楽しもう! 演奏も、花火も、手拍子も!」
停電事故がまるで演出だったとでも言うように、鋼志郎はそう叫んだ。
手拍子が広がっていく、熱狂がじわじわと広がっていく。
先程まで演奏に熱中していなかった者も、その異様な光景に取り込まれていく。
幻想的な世界の中で演奏する二人の子供、そしてその周りで手を叩く者たち。
興味がなかった彼らもこの光景から目が離せない、気づけば手を叩いて音を出す。
この曲を知っている者はいないだろう、誰もが初めての旋律だろう。
だがその蠱惑的な光景が、演奏者と一体化する楽しさが、楽しそうに演奏する二人が。
この曲への愛を与える。
それは、クラシックの演奏会ではない。
隣の人と話しながら聞くような、ジャズピアノの様式でもない。
それはロックバンドのスタイル。
奏者と観客が共に心を重ねて音楽を作り上げる、楽しさを徹底的に追求した音楽スタイル。
手さえ叩けば誰でも演奏者、音さえ出せば誰でも楽手!
二人が演奏する二重奏なんかじゃない。
そうさこれは協奏曲、二百人が奏でるコンチェルト!
ステージの上に立つ者だけじゃなくて、ここにいる誰もが主役になれる!
花火の音を掻き消すくらいに、みんなで心を通わせ音楽を作り出す!
海司だってまもりだって、クラスメートのみんなだって!
式鳴島に住む誰もが、他の島に住む誰もが!
島と関係ない記者だって、利益ばかりを追究する文人だって!
手さえ叩けば主人公、真っ暗な世界で音を繋げ合う仲間になる!
みんなで盛り上がる、一緒に紡ぎ合う!
綾なす世界は理想郷、今夜限りのシャングリラ!
(これが……)
しみったれた毎日だった、先の見えない日々だった。
バカをやることでアイデンティティを確立していた、そんな空虚な日々だった。
けれどもほら、今は島民のみんなとバカなことをしている。
こんな未来が来るなんて。
(……これこそが、俺たちの世界だ)
鋼志郎は、心の底から喜びに打ち震える。
詞音だってそうだった。
今この瞬間なら、今まで生きてきた全てを肯定できる。
(私は、この世界に――)
自分の人生に、意味なんてないと思っていたけれど。
意味のない毎日が、続くと思っていたけれど。
(――この闇の中に、生まれてきてよかった)
強く、刻み付けるようにそう思う――。
まるでいつまでも続くかのようなその熱狂。
しかし終わりはやってくる、ラスサビはもう始まっている。
……もう少しだけ、続け。
そう願ったのは、……観客席から、実の娘の演奏を見守る男だった。
「……ねえ、奏ちゃん」
手拍子を重ねながら、妻が奏一に話しかける。
「あの子たちなら大丈夫だよ。……二十年前、奏ちゃんは音楽に人の心を変える力なんてないって思ったかもしれないけど……二人なら、きっと大丈夫」
「……ああ」
それは多分、きっと、今この中で奏一が一番知っていた。
音楽の道を目指すなんてバカなことだと思っていた。
現に二十年前、誰の心も動かすことすらできやしなかった。
だから娘には同じ絶望を味わわせるわけにはいかなかった、だから音楽を奪おうとした――。
――でも、こんなにも世界は華やいでいる。
二人の演奏で誰もが手を叩いて、笑顔が溢れている。
それは奏一がかつて望んでいた光景、それが今ここに顕現している。
……音楽を楽しむ、か。
奏一は……ようやく、自分の心に絡まっていた鎖を解きほぐす。
演奏の精度だけを考えて、人を楽しませることを考えられなかったかつての自分と。
その失敗をいつまでも引きずり続けて、強引な手段でこの島を復活させて挽回しようとした今の自分と……今、決別する。
「……完敗か」
静かに、奏一は手拍子を重ねた。
それは敗者が勝者に送る拍手のように。
「闇倉奏一さん。娘さん、いい演奏しますねえ!」
そんな奏一に近づいてきたのは文人だった。
彼も楽しそうに手を叩き、この世界の一部と化している。
「……二十年ぶりか、北空」
「ええ、あなたがあのステージに登った時以来ですねえ!」
「……あいつらの演奏で、この島は救われそうか?」
「こればっかりは分かりません、記事の反響次第ですね。……でも、多分大丈夫ですよ。いい写真とエピソードと演出でした、きっと救われると思います」
「根拠はあるのか?」
「長年の勘ってヤツですね! はっは!」
文人は手拍子を止めて、懐からメモを取り出した。
「記者連中からね、今回の敵役だった奏一さんから一言貰ってこいって頼まれちまいまして! ……何か一言ありますかね?」
「そうだな……」
奏一はステージを見ながら、数秒間だけ考えた。
誰もが盛り上がっている、みんなが手を叩いている。
曲はもう終わろうとしているのに熱狂は冷めやらない、永遠に終わらないかのような雰囲気だ。
もうすぐこの時間は終わるだろう。
だがこの熱狂は記憶と記録に残り続ける。
来年も祭が開かれるはずだ、きっとお盆の帰省に合わせるだろうから二人はまた演奏をすることになるだろう。
来年も、再来年も、そうなるはずだ。
楽しい時間は、毎年やってくる。
だから、奏一は少しだけ口角を上げて、言った。
「記事の端に書いとけ。心の底から楽しみたい奴は、来年も伊豆鳴祭に来いとな」
ラスサビが終わり、曲はもう終わろうとしていた。
奏一は歩き出す。
喧騒から離れて、ステージの舞台裏へ続く道へ。
「みんな!」
鋼志郎が叫ぶ、世界で一番楽しそうに叫ぶ。
「今日はありがとう! ……またいつかこの島で!」
この島を去る前に、餞の一言を。
終局を綴りながら、千々に乱れる様子もなく。
「笑顔で会おう!」
そう、笑いながら叫んだ。




