40章 ラストラプソディ
祭の喧騒がより一層色濃くなる。
とりわけ能楽殿の前は人で溢れ、その間を縫って歩くことすら困難な程の人だかりができていた。
文人が大々的な広報活動に勤しんだのが功を成したのか、若き二人の演奏に興味を持った島人たちが大勢集っている。
みんな、そこにいる。
この一連の全てに関わってきた全員が、この島の行く末を見守るためにステージ上を見つめている。
苦難を共にしてきた、海司も、まもりも。
大人として計画に携わった、匠海も、文人も。
共に島を救う為集った、クラスメートたちも。
この企画への参加を支持した、周辺島のお偉いさんたちも。
息子の勇姿を見届ける、琴浦夫妻も。
そして、闇倉夫妻も。
全員がそこにいる。
これから始まる最後の一幕を待っている。
刻限はもう、すぐそこに迫っていた。
現在、十九時五十五分。
あと五分で全ては始まり、そして全ては終わる。
西洋楽器を巡る戦いの結末も、この島の未来も、二人の願った二重奏も。
……そんな人波犇めく光景を、舞台袖から鋼志郎は見ていた。
この前は精々五十名くらいの観客だった。
しかし此度の動員数は二百人を超えているだろう。
この島で生まれて初めて見る人の多さにさすがの鋼志郎も変な笑いが込み上げそうになる。
本当にこれが明暗の境界線、自分たちにとっての最終地点なんだとつくづく思う。
失敗すれば全ては終わり、成功すれば全ては丸く収まる。
このちっぽけな自分の手に、島の未来は重く圧し掛かっていた。
「おまたせ」
後ろから声を掛けられて振り向くと――煌びやかなドレスに身を包んだ詞音がそこにいた。
この時の為だけに、わざわざ商工会が文人経由で質のいいドレスを発注していたのだ。
それだけこの企画が、彼らにとっても手の抜けないものなのだと再認識させられる。
「似合ってんじゃん」
「琴浦もね」
鋼志郎も上物の燕尾服に身を包み、日頃の砕けた雰囲気とは真逆の出で立ちとなっている。
髪だってジェルで固めたオールバック、クラスメートたちが見ればきっと笑うだろう。
笑えばいいさ好きなだけ、楽しければなんだっていい世界なのだから。
「……そろそろだな」
アナウンスが響き渡り、演奏中の注意点を告げている。
それが終われば全ては動き出す、二人はステージ上に漕ぎ出していかなければならない。
言葉を交わす猶予は、もう僅かしか残されていなかった。
「ねえ、琴浦」
「どうした?」
「……今度こそ……この島、救えるよね」
答えに詰まったのは一瞬だった。
今までの失敗が脳裏を過ぎり――直後、演奏会での詞音の笑顔が呼び起こされて――。
「救うに決まってんだろ。お前、俺を誰だと思ってんだ」
その言葉を聞いた詞音が少しだけ表情を緩める。
思い当たる節があるような素振りで。
だから彼女も、あの時と同じ言葉を言う。
「世界で一番大っ嫌いなアホ。……うるさくて厄介で調子者で自意識過剰で馴れ馴れしくて面倒臭くて、……本っ当に相容れないヤツ。……でも」
あの時からは考えられなかったような、笑顔を浮かべて。
「この島唯一の、同志でしょ」
「ああ」
人溢れる演奏場を見つめながら、握り拳をぶつけ合う。
アナウンスは終わった。
これ以上会話は要らない、ここからは旋律だけの世界。
「さあ、行こう」
鋼志郎の表情は、まるでいつものイタズラを始める時みたいに。
二人並んで、ステージへ一歩を踏み出していく。
――舞台袖から二人が現れた瞬間、割れんばかりの拍手が世界を包む。
鋼志郎たちはもう自分の鼓動すら聞こえない、血潮の音すら判別できない。
いっそ清々しい程までに、総勢二百名以上の期待が耳の中を埋めている。
あまりにも強い照明が二人を照らす。
光の中でキラキラ輝く塵芥は風花の如く、そして満開の桜から舞った落花の如く。
夜の式鳴島は未来を暗示するかのように真っ暗だ、でも二人の立つその場所だけはスポットライトに照らされた光のステージ。
今この場所だけは、今この瞬間だけは、彼らの世界は燦然に染まり行く。
音と光が世界を包む。
これから始まる物語を、赫々たる燐光で照らすように。
「皆さん! 今日はお集まりいただきありがとうございます!」
マイクを手にして鋼志郎が叫ぶ。
言うべきことは決まっている、望むべきものは定まっている。
みんなに望むべきものはたった一つ、その一つさえあれば未来に繋がっていく。
鋼志郎は、演奏会の時と同じ言葉を全員に向かって伝える。
ルールなどなにもない、制約なんかに縛られない。
遵守すべきマニフェストはただ一つ、全力で楽しむことだけ。
「――みんなで楽しみましょう! 演奏を聞くだけじゃなくて、お喋りしながら!」
鋼志郎の前口上が終わろうとしている。
その最中一度だけ詞音は深呼吸した。
海司は表情を変えず、ただ握り拳を強く握った。
まもりは煙草の灰を落とすことすら忘れて、舞台上を見つめた。
奏一は鋼志郎の言うことが受け入れられないかというように、目を伏せた。
「この世界の誰よりも楽しみましょう! 聞いてください、『Like all people』!」
伝えるべきことを全て言い終えた鋼志郎は、ピアノの前まで戻ってきて、椅子に座って深呼吸をした。
彼が最初の一音を鳴らせば全ては始まる、その瞬間再び世界は音に包まれる。
気づけば拍手は消え去って、わずかな喧噪さえもない静寂が広がっていた。
始めに放つ第一音、その弾き方は決まっていた。
あの時と同じ、力の限りを尽くした音色。
(最後まで楽しもう)
そう思い、振り上げた手を――。
――思いっきり、叩きつける!
その瞬間始まる音の洪水、連鎖する重低音の響き。
拡声装置によって増幅された音は、この会場にいる全ての人に届く。
鼓膜を震わせ、心を揺らがせ、意識を捕らえて離さない。
今までで一番楽しい演奏を、今までで一番愉快なセッションを!
詞音も楽しみながら旋律を奏でていく。
今度は最初からフルスロットル、鋼志郎のように心の底から思いっきり楽しみながら、ガンガン変拍子を入れる鋼志郎の演奏に合わせていく。
一瞬でも気を抜けば全てが破綻するだろう、でもそれが楽しくて仕方ない!
楽しんで演奏すればそれは伝播する、見ている人の心に想いは伝わる。
曲を知ってる人たちも、曲を知らない人たちだって。
誰もが思う、あんなに楽しそうに弾く子供がいるなんて!
鋼志郎が前説で述べた通り、言葉を交わす人々もいる。
演奏に意識を向けている人もいる。
なんでもいいさ、食べながらでも飲みながらでも、休憩所で横になりながらでもいい。
なんなら楽しく鬼ごっこをしながらでもいい!
楽しければそれが正義なのだから!
一生忘れられない記憶になるように、良き思い出として心に刻み込まれるように。
二人の演奏は止まることを知らない、勢いは強くなる一方だ。
心の行くまま五線譜上の記号をアレンジしていく鋼志郎、それを裏で支えながらも新たな旋律を産み出す詞音。
二人の演奏は互いを補完して、完全なる演奏へと昇華していく。
(これが君たちの本気か……)
記者たちの為に設けられた脚立の上で、文人は酒を片手にそう思う。
(島を救おうとする本気の力、見る者を楽しませる魔性の演奏)
ちらりと横目で記者たちを見ると、ステージ上の二人に向かって何度もシャッターを切っている。
奏者が、そして観客が楽しんでいる姿を、一枚でも多く記録に残そうとしている――。
それは、二人の演奏が、……記者にとって記事に値するものだという証左。
(……でも、これで終わりなのかい?)
だけど、きっとそれは大成功ではないだろう。
文人にとってみれば単なる成功だ。
記事にはなる。
でも一面を飾るほどじゃない、多額の助成金が出るレベルではない。
こんなのは、この前の演奏会の焼き直しでしかないのだから。
だってよく見てみれば、二百人全員が夢中になっているわけではない。
ある程度の人数は食い入るようにステージ上を見ているが、一部の人は興醒めのような表情をしている。
そうなるのも至極当然だと言えよう。
二人の演奏がいくら楽しさを伝えるものであったとしても、それが全ての人に届くとは限らない。
集る人波が邪魔になって鋼志郎たちの楽しそうな姿を見ることができない者もいる、最初から音楽に全く関心のない冷やかしの人だっているはずだ。
この島を救うには、あの日を超える演奏をしなければならない。
(まだ何かあるんだろう? ……無ければ、このまま救えず終わりだよ?)
ステージ上では相変わらず迫真の演奏が続いている。
誰よりも楽しそうに弾く鋼志郎、決して乱れない演奏を披露する詞音。
全ての人々がそうであるわけではないが、島民たちもそれに夢中になっている。
そんな中、……海司は人混みを掻き分けて人混みのド真ん中に移動していた。
人だかりの中に点々としているクラスメートたちに声を届けるには真ん中に行かなければならないから。
彼はその時を待っていた。
曲がサビに入るその時を、曲が一番盛り上がるその時を。
「――――」
鋼志郎も肌で感じていた、まだ全ての人が夢中になっていないのだと。
だからサビで全てを出し切ろうと考えていた、最高潮のその瞬間を心の底から刻み込もうと思っていた。
勝算はあった。
まだ無関心な彼らを虜にする小粋な計画は練ってある。
だから勝負はサビに入ってから、そこからが本当の演奏になるはずだ。
――もうすぐ、サビが来る。
海司が合図を送る為に深く息を吸い込む。
記者たちは来たる時に備えてファインダー越しに二人を捉え続け、照明係は彼らをより印象的にするため光度を上げていく。
詞音があらん限りの技術を用いてBメロを刻み付け、鋼志郎は最後の作戦を起動する為に身構える。
各々の思惑が交差して、それぞれの死力が尽くされて。
島の未来を決める一瞬に今、突入する――。
――はずだった。
瞬間、世界は一変する。
全ての光が消えて、世界は闇に包まれた。
鋼志郎たちを照らす照明も、神社内に点々と配置された雪洞も、屋台が放つ淡い光も。
この神社内のありとあらゆる光が、消える。
見えるのは、空に瞬く月と星灯りだけ。
……全てが黒になる。
(停電……!?)
……過去最大規模の祭となった今回は、十年前と比べて電気の使用量も大幅に増加している。
加えて二人の楽器も拡声装置も全てが電化製品、膨大な電力を必要としていた。
だから、……その時、限界を迎えたのだ。
サビを神々しく照らす為、照明の光度が上がった瞬間が、臨界点。
「……」
――続行、できる?
詞音の頭の中でそんな言葉が浮かんだ。
続けられる?
この状況の中で?
幸い楽器のアンプだけは予備電源に繋がれているから音は出せるだろう、でもやれるのか?
でも会場内は騒然としている、そんな中演奏をしても聞いてもらえるものか。
それに第一……最大の問題があるだろう。
鋼志郎は今、鍵盤が見えない。
鍵盤が見えなくては演奏などできるはずもない。
ヴァイオリンだけならできるだろう、だがヴァイオリン独奏に何の意味がある?
……二人揃って演奏しないと、完成系にはならないというのに……。
詞音は、諦めたように空を見上げた。
……やっぱり、真っ暗か。
この島の未来も、自分の将来も。
変えられると思っていた、明るい未来が待っていると思っていた。
……でも結局現実はこんなもの。
期待させるだけさせて、最後に突き落す。
いつだって思っていた。
自分の未来は真っ暗なのだと。
本当に、全く、その通りだった。
変わろうと思うことはできる。
けど変えることなどできることじゃない。
……結局、世界は、こんなもの……。
「――――っ」
その時。
強い――強い一音が聞こえた。




