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38章 薄橙色に染まる横顔

 神社は祭の雰囲気に満ちている――。


 夜になるにつれ喧騒は増していき、神社はかつての賑やかさを完全に取り戻していた。

 その合間を縫うように、重厚、しかし軽快な太鼓の音が、人々の喧騒と争うようにして響き渡っていた。


 赤、橙、青、黄――屋台の光がキラキラと輝き、まるで宝珠のようにも思える。


 そんな光を浴びて、より一層美味しそうに面並ぶ屋台の食べ物。

 リンゴ飴、チョコバナナ、綿菓子、焼きそば、お好み焼き、ハリケーンポテト、他にもたくさん、たくさん……。


 祭の雰囲気と笑い声。

 ラムネがはじける音と、篠笛の軽快な音。


 今日の式鳴島はいつになく賑やかで、そして笑顔が溢れている。


「……まだかな」


 クラスメートたちと束の間の交流を楽しんだ俺は、神社入口に聳える鳥居の足元で空を眺めていた。

 式鳴島の空はいつだって満天の星空に覆われているが、今日だけは祭の極彩色に負けたのだろう、星がいつもよりくすんで見えた。


 ……いや、きっと星がくすんで見えるんじゃない。

 この世界がどうしようもなく眩く見えるだけ。

 今この瞬間だけは、式鳴島は目くるめく星空よりも綺麗に彩られていた。


 余所の島と合同で行っているが故、人通りは多い。

 十年前の伊豆鳴祭に比べれば月と鼈並みの人数差だ、こうも人波がぎゅうぎゅう詰めだと、目当ての人物が来ているのかどうかすら判別できない――。


「ん?」


 その時鋼志郎の携帯に一通のメッセージが入った。

 待ち人からの連絡で、中身は簡素な一言。


『たすけつ』


 多分助けてと打とうとしたのだろう、推敲もできず送ってくるとは相当な状況のようだ。


 人波を見てみると、誰かが腕を上げて携帯を振っていた。

 あの携帯には見覚えがある、つい数日前にアドレスを交換した時に見た、本人が選んだとは思えないドピンクの携帯だ。


 鋼志郎は人波をかき分けて進み、その腕をしっかりと掴む。

 そして強く引っ張って、ヌーの群れの如き人波からその人物を引っ張り出す。


「わぷっ」


 引っ張り出された勢いそのままに、詞音は鋼志郎の胸板に顔をぶつけた。

 半抱擁に近い感じで、傍から見れば神聖な場所で若干サカったカップルに見えなくもないかもしれない。


「よう、災難だったな」


「……人多すぎ……早死にするとこだった……!」


 もうすでにぐったりとしている詞音に、そこらの屋台で買ったお茶を一本手渡した。

 直前までずっと電気設備係としての職務を全うしてきたのだろう、相当喉がカラカラなようで、彼女はものの数秒で五百ミリペットを全て飲み干してしまった。


「ありがと。……それで、こんなところに呼び出してどうしたの? あと一時間くらいで本番来るけど」


「でも、あと一時間もあるだろ? ……俺たちの演奏が終わったら、そろそろ祭も終わりの時間だ。だから祭をゆっくりと楽しむには今しかないって思ったんだ」


「……さっきまでクラスメートと楽しく屋台巡りをしてたって聞いたけど?」


「耳聡いな。まあそれはそうだけど、……それよりも、詞音と一緒に祭を楽しみたかったんだ」


 えっ、と詞音が一瞬だけ表情を変えた。

 しかしそれを覆い隠すかのように、すぐにいつもの平坦な表情を取り戻す。


「だめかな?」


「……いい、……ケド」


 詞音は目を逸らしながらそう呟いた。


 内心鋼志郎は驚いている。

 今まで電気設備係をしていたんだから休みたいとか、直前だから少し練習したいとか、そもそもなんで一緒に祭を回らなくちゃならないのかとか、そんな数多の常套句で断られるだろうと思っていたから。


「……ありがとうな」


 何故お礼を言われたのか分からないとでも言いたげな詞音と共に、鋼志郎は歩き出す。

 人波を突っ切っていくルートは諦めて、少し大回りでも安全に屋台の並びに行ける道を。


 二人、肩を並べて歩いて行く。

 提灯が二人を鉛丹色に染めていた。


 暗闇に光る数多の光。

 どんな宝石でも成り変われない程、夜闇に映る清澄な閃耀は煌びやか。


 遠くから流れる祭囃子、雅楽の音色、子供の声。

 どの島よりもくすんでいた式鳴島は、今だけはどんな島よりも赫灼たる光に溢れていて……。


 いつもと雰囲気の違うこの場所は、式鳴島ではないどこかへ来たかのよう。


 まるで天国に来たかのように、桃源郷がここにあるかのように。


「……ねえ、琴浦」


 屋台までの道のりを歩きながら、詞音がそう囁いた。

 喧噪の中での小声はともすれば掻き消されないくらい、それでも鋼志郎は彼女の言葉を聞き逃さなかった。


「どうして私と一緒に祭を回ろうって思ったの?」


 遠くから聞こえる大太鼓の音は、心臓の音と全く同じリズムで。


 その強さも、きっと、全く同じ。


「……昔、言ってただろ」


 鋼志郎にとってそれは、まるで先日のことかと思えるくらい鮮明な記憶。

 だけどそれは詞音にとって、記憶の片隅にも残っていない日常のワンシーン。


「八年前、闇倉の演奏を聞いた時に色々話をしたよな。……その時お前は言っていたんだ、伊豆鳴祭に出てみたかったって」


「…………そんなこと、憶えてたの?」


 ――その感情は、憶えている。

 当時まだ明るかった詞音は一度でいいから祭に出てみたかった、屋台なんかを体験してみたかった。

 でも彼らが小学生になる前に、伊豆鳴祭は廃止になってしまって……幼稚園児の時に祭を楽しむことなんてできるはずもなくて……。


 願っていたのは憶えている。

 でも、叶わない夢だと思って諦めていた。


「憶えてたよ。ずっと」


 回想するように、述懐するように、鋼志郎は目を伏せた。


 だって――六年前、商工会に企画を出したのは、伊豆鳴祭を復活させて詞音と共に祭を回りたかったから。

 それが全ての始まりだったのだから。


「初めて闇倉の演奏を聞いた時から、ずっと憧れていたんだ。……だからピアノも始めたんだ。……ピアノを続けて続けて、上手くなれば、またあの時みたいな時間が過ごせるかなって思ってた。また他愛もない話ができるくらいの関係になれるかなって思ってたんだ」


 こんなことを今更言うのは、はずかしいけれども。


「また闇倉と話がしたくて、俺は今日ここまで生きてきたんだよ」


 ……そんなこと言われても気持ち悪いだけだよな、なんて言って鋼志郎は笑った。


 そして空を見上げ、果てのない宇宙を見つめながら、独り言のように呟く。


「だから、叶えたかったんだ。あの時闇倉が願ったことを」


 そう言って、鋼志郎は笑った。


 詞音も脊髄反射的に笑い返そうとして――それが、できなかった。


 どうしてだろう。


 なんだか、いま、すごく、胸が苦しい。


 自分は鋼志郎を嫌って、嫌って、嫌い続けていて――永遠に嫌い続けて、関わり合わないものだと思っていて――こうして二人で歩くことになるなんて、想像することも無くて――でも、その間も、ずっとずっと、彼はそんな他愛のない話を憶えていて――共に演奏できる時を夢見て生きてきて――。


 ……彼は、どう思っていたのだろう?


 六年前の一件は、確かに鋼志郎が発端だった。

 でも彼はずっとそれを知らなかった、だから

 彼にとっては、自分が急に変わったものだと思えただろう。


 理由も分からず、彼が憧れと呼んでくれた自分が誰も寄せ付けないようになって。

 明るくなった彼から何度話しかけられてもそっけない対応ばかり取っていて。

 正面切って大嫌いだって言ってしまって、それでも彼は笑っていて。


 笑っていて――でも、胸中ではどうだったのだろう。


 あなたは、何を感じて、何を思っていたの?


「……ごめんね」


 無意識の言葉のように虚ろに、それでも確かに自分の本心を呟いた。


「……ばか、謝るのは俺のほうだろ」


「ううん。……いまだけ……いまだけは、わたしに、あやまらせて……」


 詞音も空を見上げた。

 夜空に心惹かれたからじゃない、そうしなければ零れてしまう感情があったから。

 頬を伝う後悔の一滴が、堪えようもなく、一筋にも二筋にも流れていく。


 ……私は、今まで、なんて愚かなことを考えて生きてきたのだろう。


 この一件が始まるまでは、鋼志郎のことも、海司のことも、まもりのことも。

 ずっと見下して生きてきた、能天気に生きている彼らにはどうせ悩みなんかないだろうと軽視し続けていた。


 でもそう見えていたのは斜に構えていた自分が生み出した幻想で、本当の現実なんて何も見えていなくて。


 彼らがいなければ自分は、永遠に将来は真っ暗なのだと思い続けて生きていったはずだ。


 誰もが苦しみ、悩み、それでも表面上を取り繕う。


 私が苦しんでいたように、きっと彼らも苦しみ続けていた。


 ……それが分かっていなかった、自分だけが子供だったのかもしれない。


「……ごめんね、……ごめん、……ごめんなさい……」


 涙を流しながら詞音は空を見上げ続ける。

 ……そんな状態で真っ直ぐ歩けるわけもない。


 だから鋼志郎は彼女の手を握って、二人で一緒に歩き出す。


 煌びやかに彩られた屋台はあともう少しのところにあった。

 そこはかつて詞音が夢見た場所、彼女の願いが叶う場所。


 そんな場所に、涙なんて似合うはずもない。


「……闇倉、後悔はいつだってできるよ」


 握った手に力を込める。

 ……詞音も、少しだけ、強く握り返した。


「今は一緒に楽しもう。楽しまなくちゃ祭は損だ」


「…………うん」


 一度だけ、詞音は服の袖で目元を拭った。


 ……そして拭い終えた彼女は晴れやかな顔をしていた。

 いつもより少しだけ普通の女の子になったかのように、在りし日よりよっぽど柔らかい表情で。


「行こ、琴浦」


「ああ」


 繋いだ手を放すことも忘れたまま、二人は屋台の群れに向かって歩いていく。


「何か食べたいものとかあるのか?」


「全部ね」


「ばか、欲をかきすぎるな」


「だって、全部が楽しそうだし、美味しそうなんだもの」


「……そうだな」


 彼女はまるで普通の女の子のように笑う。

 だから鋼志郎も、普通の男の子のように笑った。

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