36章 『観客』の終焉
――全てのことは、やり終えた?
これで自分の仕事は全て終わり?
ようやくやり遂げた?
後は鋼志郎と詞音に全てを委ねて、自分は観客として見ているだけ?
……違う。
まだ一つだけ、やり残したことがある。
これが最後の姦計だ。
祭の前に行うべき、自分に与えられた責務。
長野海司が学校の廊下を歩いている。
明日は祭、開催日は日曜だ。
だから前日である今日は必然的に土曜日で、午後になった今、生徒たちは各自家に帰っているはず。
なのに、教室内は少しだけ騒然としていた。
こうして廊下にいる海司さえでもそれが分かるのだから、きっと中にはそれなりの人数がいるのだろう。
聞こえてくる音はそれだけではない。
二階からはピアノとヴァイオリンの旋律が聞こえてくる。
祭前日の今、鋼志郎と詞音はラストスパートをかけて練習に身を入れているのだろう。
二人は演奏に集中している。
だから、今一階の教室で何が行われようとしているのか、知る由もない。
まもりだって悟れない、彼女は授業が終わるなり祭の準備に駆り出されたのだから。
海司だってそうだ、前日なのだから準備も佳境のはず。
なのに何故今ここにいるのか、それはこれからクラスメートたちも知ることになる物語――。
「……」
教室の扉の前に立って、海司が深く深呼吸をした。
いつもは何も憚れることなく入れる教室なのに、今は何故か冷や汗を掻いている。
ここしばらく、文人に提案をしたり、各島の代表者の前で要項を説明したりと色々なことがあった。
けれどもその時だって彼は内心冷や汗を掻きまくっていた。
そうなるのも当然だ。
だって彼の性格は外交的ではないのだから。
無理をしていたのだから。
……自分は鋼志郎やかつての詞音みたいにはなれない、そう思って裏方仕事に徹していた。
でも今だけはもう一度、自分を偽らなければならない。
人前に立つという緊張を乗り越えて、最後の一仕事を終える時だ。
最後にもう一度だけ深呼吸して、海司は扉を強く開いた。
……教室内には生徒たちがいた。
全ての生徒が揃っているわけではない、一部空席になっている。
多分帰ってしまったのだろう、海司が裏で手紙を回して呼びかけたにも関わらず。
「いやあみんなお疲れお疲れ。忙しい中残ってもらって悪いね、なるべくパパッと用件終わらせるからねぇ」
……好意的な返事はない。
どこか白けたムードが漂っている。
どころか返ってくるのは少しだけ不満そうな声だった。
「全く、本当に忙しいんだよなー。俺はやる気なかったのに祭の委員会に参加させられたんだぜ、これから電気設備の取り付けを手伝わなきゃいけないんだよ。早くしてくれるかなー」
声として不満を発する者は少ないが、大半は同じことを考えているようだった。
ある者は携帯を弄り、ある者は近くの友人とお喋りをして、ある者は時計をチラチラ見ている。
ほとんどの人が海司の話に集中する気はなさそうだった。
……そりゃそうもなるだろう。
祭の人手が足りないからって子供たちも様々な役に任命され、自由気ままに遊びたいのに放課後は拘束され続けているのだから。
遊び盛りの中学生にとって、受動的に参加させられた行事の手伝いなどやりたくもないだろう。
「分かった、手短に用件を話すよ。実は今度の祭の時、コーシロたちの演奏を成功させる為に、みんなに協力してもらいたいんだよねぇ。みんなの協力があればきっと当日上手くいくと思うし、コーシロを助けると思ってさ」
「祭の時くらい自由にさせてほしいんだけど」
誰かがそう呟いた。
少しだけ同調の声が上がった。
祭の手伝いに勤しんでいる者は、当日は思いっきり羽を伸ばせると自分を納得させているのだろう。
なのに当日も色々役目をこなしてくれと言われれば、不満だって上がるのは当然だ。
準備を頑張って、当日も協力して……それで結局名を上げるのは鋼志郎と詞音だけ。
クラスメートたちはその他大勢の、雑誌の片隅にすら書かれない存在なのだから。
どれだけ頑張っても意味なんて見いだせない。
島を救うとかそんな大義名分も、中学生にとっては自分の身とは遠い問題。
だって彼らは後数ヶ月もすれば本土に向かう、この島で生き続けるわけでもない……。
「みんなの協力が必要なんだ。是非助けてほしいと思うんだけどねぇ……」
「商工会の人たちに頼めばいいじゃん。俺たちに頼むより大人に頼んだ方がいいでしょ」
そうだそうだと議会みたいな声が上がって、何人かの生徒が席を立った。
これ以上話を聞く気などないようだ。
……海司は、自嘲した。
コーシロがいなければ、俺の支持率なんてこんなもんか。
――鋼志郎はかつてこう述懐していた、クラスメートたちは批判をしないイエスマンになっていると。
でもそれは一番クラスで目立っている奴に異を唱えたらハブられるという、相互の思い込みが生んだ現象だ。
鋼志郎さえいなければ、クラスメートたちはバラバラだった。
……いつもならみんなに肯定されていた海司も、鋼志郎がいなければこの通り。
(……腰巾着風情が一人で粋がっても、誰もついては来ないか)
当たり前か、唾棄するような笑いが込み上げた。
「みんな」
帰ろうとした人たちを呼び止めるように、先程までより大きい声量で呼びかける。
でも、何を言えば彼らの心を変えられるのだろう。
呼び止めたとて、感情に訴えかける言葉など――。
『だって俺、人に媚びない遜らない謝らないが信条だもん』
心の中で、かつて自分の言った言葉が想起される――。
(そうだな、それが信条だ)
でも、だからどうした。
「――みんな、……お願いします。力を貸してください」
海司は、深く深く頭を下げる。
その姿を見て、帰ろうとしていた人たちも動きを止める。
……初めて見る光景に、誰もが混乱を隠せない。
「みんなの力が必要なんだ。大人たちの力なんかじゃない、ここにいる――ここにいないみんなも含めて、全員の力が」
言うべき言葉なんか考えていないはずなのに、つかえることなく口から零れていく。
ああそうか、これがきっとそうなんだ。
初めて海司は、……自分の本音を知って、打ち明ける。
裏方仕事に徹する自分が抱いていた、本当の心情を。
「コーシロに任せてるだけじゃない、闇倉に担わせるだけじゃない。俺たち全員で、クラス全員でこの島を救いたいんだ。……俺のこの姿を写真に撮っても構わない、いくら馬鹿にしても構わない。……だから、ここにいない人にも連絡を取って、俺の本音を伝えてほしい」
……クラスメートたちの表情が僅かに変わっていく。
初めて見る姿には、初めて見る表情が向けられる。
海司の本気を汲み取って、……不満を言えない空気が広がっていく。
「……記事の一面にでっかく、クラス一丸となって島を復興させたって書かせてやるくらいに、そう書かざるを得ないくらいに、俺たち全員でやり遂げたい」
……それでも、言葉は返ってこなかった。
ただ戸惑いの空気が広がるだけ、帰り辛い雰囲気が蔓延しただけだ。
彼らの背を押すには、まだ想いが足りない。
だから、……海司は口にする。
「……今まで、俺たちは何のために生きてきたんだ?」
返答など返ってこなくて。
返答など期待していなくて。
「この島で生まれて、漫然とした日々を過ごして、他愛もない毎日を終えて。刺激と言えばコーシロが時々やるバカなことだけ、自分では何も生み出せてない。いてもいなくても特別変わらない、特筆する必要すらない薄い日々を謳歌していただろう」
でも、そんな日々に意味などあるのか。
誰もその答えは見つけられない。
「本土に行けば何かが変わると思っていた。高校生になれば本当の自分が始まると思っていた。自分の人生じゃ自分が主人公なんだから、それに足る物語が始まると思っていた」
きっとみんなそう思っていた。
島を出れば人生が一変すると信じ込んでいた。
「いつかチャンスが来るだろう。いつか自分が主人公となる瞬間が来るだろう。……そんな妄信を、いつまで続ければ大人になれるんだ?」
いつまで現実から目を背ければ、世界は変わる?
違う、世界を変える為に必要なのは、自分が変わること。
自分が変われば世界は変わる。
きっと、そういう風にできている。
「……俺たちが! 変われるチャンスは、今しかないんだ!」
詞音だって変わった、過去を踏み越えてステージに上がっていった。
誰だって変われる。
変わる意志さえあれば、誰だって。
「俺は……この島にいられる最後の今! みんなと一緒に全部やり遂げたいんだ! 鋼志郎の無茶を見ている側じゃない! 俺たち全員で! 無茶をやり遂げたい!」
初めて出した大声は、何故か涙腺を刺激して。
涙を堪えながら叫んだ言葉は、言葉とは裏腹に頼りなく揺れていた。
「観客としての毎日を! 終わりにしたい!」
――校舎の上でペットボトルロケットを発射する鋼志郎の姿が、みんなの脳裏に想起されていた。
あの時自分たちは校舎の下にいた、そこから見える景色はいつもの見飽きた田舎景色。
でも、屋根の上に登れば変わるだろう。
この島の素晴らしき景観が、そして水平線の向こうに浮かぶ本土が、ようやく見えるだろう。
海司は……ずっとその景色を見てみたかった。
目立つ友人の周りで黒子となる日々でもいいと自分を騙してきた、そんな欺瞞で閉塞的な毎日を生きてきた。
でも、大勢の前で演奏をして、賞賛を受ける二人を見て羨ましいと思った。
……その感情は、嘘なんかではない。
彼だって、この島を救いたいと思っている。
……いや、きっともう、彼だけじゃない。
誰かが小さくやろうと言った。
誰かが屋根の上に登る決意をした。
他の誰かが、今度は大きくやろうと言った。
もう一人、誰かが屋根の上に登ろうと誓った。
あの時鋼志郎は一人だった。
でも、今はきっと、一人じゃない。
気づけばみんながやろうと言った。
気づけばみんなが水平線の向こうを見据えていた。
「……今度は全員でバカをしよう。みんなで無茶をしよう」
この島を去りゆく前に、やがて散り散りになるみんなで。
「そうすればきっと、見える景色は変わるから」
そして――、
その日がやってくる。




