34章 過去を弄ぶ者
「……父の思いに報いる為には、君たちが祭を成功させる以外にないだろうね」
言葉を失っている二人に対して、文人はそう告げる。
ここで二人が失敗してしまえば、何もかもが二十年前の再現になる。
音楽には人の心を変える力などないという証左になるだろう。
「その為に協力してほしいんだ」
まるで最初からそれが目的であったかのように、文人は言葉を考える様子もなくそう言う。
「今回、我々は君たちの頑張りを象徴とすることで祭事の復活を促し、新聞記者まで呼び寄せた。だから記事の中心は当然の如く君たちだ、二人が伝統祭事復活の為に尽力をしたという感動ストーリーで今回の企画は成り立っている」
……正直言えば、二人は祭を蘇らせる件を露知らなかったわけだからその表現は正しくないのだが、文人にとってはそっちのほうが都合のいいストーリーだった。
それを理解しているから鋼志郎も詞音も何も言わない。
「ここまで君たちはよくやってくれた。実の父と対立してまで島を救おうとした、一週間で演奏にまで漕ぎ着けた、そして演奏会での大立ち回り。このドラマは島起こし的にとても美味しいものだよ。でもね、これだけじゃまだ助成金を引っ張り出すまでの規模には物足りない。ただの地方での頑張りとして扱われるだけだ」
物足りないと言われても二人は困るばかりだった。
それが自分たちのやってきた全てであり、できる限界のことだったのだから。
これから何を言われるか分かっていない二人に、文人は小声で告げる。
「……足りないのはね、バックボーン。過去だよ過去」
少しずつ、文人が何を目論んでいるかを理解していく。
過去と言われて六年前の事実を想起できない程、あの一件に関心のない人間ではない。
でも――と鋼志郎は詞音を見る。
詞音は息が詰まったように身じろぎもせず、静かに笑う文人の顔を見ることしかできていなかった。
「闇倉家の過去を記事に書かせてもらえると、とても助かるんだけどね……?」
「それは……」
放った言葉も途中で止まる。
八年前、詞音と鋼志郎が交わした約束だけならまだ何の問題もない。
だが二十年前に奏一が島起こしに失敗した事実を、六年前に詞音が心を壊す程の憂き目にあったことを、……詳らかに記すというのは、あまりに無体だった。
それを晒すということは即ち、化膿した傷口を存分に弄られるようなもの。
記事として永遠に残り、一生消えない公然の経歴となること。
……人の心を慮るなら、それは伏せておくべき過去。
だが彼らを村起こしの商品として見るのであれば、記さずにはいられない垂涎の事実……。
「無論、島が不利益を被ることは書かない手筈だ。六年前君に演奏を強要した事実や、有名なコンクールに捻じ込み出場させたことは隠蔽するよ。島の評判が落ちることはないだろう」
「島、島って……今、そういう話じゃないですよね……!」
思わず机を叩いて鋼志郎がそう言い返してしまう。
島の評判、島の未来。
そんなものより詞音の心の話をすべきだろうと。
……でも文人は首を振った。
そして青さを軽んじるような目で鋼志郎を見る。
「鋼志郎君、今そういう話をしているんだよ。島を本気で救いたいと考えているならば、その為に犠牲になってくれと言っているんだ。……もしその勇気がないなら別にいいよ。当たり障りのない記事を書くことになるだろうけどね」
それは決して選べない選択肢だった。
その誘いを断れば今までの全ては水泡に帰す、何もかもが無意味な徒花に成り果ててしまう。
でも、詞音の過去を公にすることも、鋼志郎にとっては選び難い選択肢で……。
「……好きにしてください」
だが、詞音はそう言い切った。
その表情に迷いの色は浮かんでいない。
屹然とした面持ちで文人の顔を見据えている。
この中で未だ逡巡に陥っているのは鋼志郎だけだった。
「……いいんだね? 君の過去は感動を生むための玩具になるよ? 偽善的な同情と憐憫の眼差しが君に向けられるだろう、その生温い無自覚な悪意に晒されても平気なのかい?」
「決別した過去をどう弄ばれようが、過去の話なのでどうでもいいです。記事を見た誰かに同情されようが、こっちからしてみれば過ぎた話にいつまで拘ってんだって気持ちですね」
それは文人に向けた言葉でも、記事を読んだ人に対する言葉でもないだろう。
過去に囚われ続けていた在りし日の自分へ告げる、決別の言葉。
この世界が、未来が、先も見えない純黒なのだと信じていた、馬鹿な自分への譴責。
「……はっは、それはこちらとしても助かるよ。ご協力感謝します」
「こちらこそ、島の復興に尽力していただいて感謝します」
文人と詞音が含みのある表情で頷き合う。
でも鋼志郎は未だ憮然とした表情を浮かべていた。
そして文人はしんみりとした空気を吹き飛ばすような勢いで笑う。
「じゃ、そういうワケだから午後の取材もシクヨロ! 僕は記者さんたちに遠慮なくガンガン質問していいって伝えてくるから! はっは、気張ってねー!」
淹れた紅茶を飲むこともなく、文人はさっさと控室を出て行ってしまう。
本当は休憩しに来たわけではない、タイトなスケジュールで動いている彼は、ただ詞音にそれを確認する為に来ただけだ。
用が終わればいつまでも居残る必要なんかなかった。
「……いいのかよ、闇倉」
大人が消えた控室で、鋼志郎は詞音にそう呟く。
「お前の過去が白日の元に晒されて……本当に、いいのか……?」
「琴浦」
窘めるような声で、詞音は鋼志郎の名を呼んだ。
「私たちはもう後戻りなんてできない。全てを擲ってでも伊豆鳴祭を成功させて、この島を蘇らせなきゃならない。……でしょ? 私の過去を露呈するくらいなら、経費としては安いもの」
「……そう、だな……」
本人が納得しろというのならばそれを無下にすることなどできるはずもない。
でも鋼志郎の胸中には黒ずんだ自責の念が怨念のように纏わりつく。
いつだって、何かを失い続けているのは詞音の方だった。
この六年間様々なものを失い続け、そして今また過去の暴露によって尊厳を失おうとしている。
自分は何を失ったのだろう?
鋼志郎は回想するが、何かを失った憶えはなかった。
自分がやったことと言えば精々ここ一週間必死に練習しただけ。
同じステージに立つ二人なのに、その一点だけはどうしたって不平等なままだった。
「なあ、闇倉……」
「なに、どしたの」
「……………………ごめんな」
演奏会をしたあの日から。
……いや、六年前の事実を知った時から言いたかった一言だった。
自分はずっと知らなかったから謝れなかった。
六年前の原因を作った張本人だというのに、それを知らずに平然とした顔をして生きてきた。
……そんな自分を見て詞音はどんな思いだったのだろう?
聞きたいけど、聞くのが怖かった。
鋼志郎は視線を合わせることもできず、俯いてしまう。
詞音も、六年前のことを言っているのだと気付いたのだろう。
しばらく口を閉ざして虚空を見つめる。
――鋼志郎のことは嫌いだった。
でも、彼のおかげで詞音は音を奏でる楽しさを知った。
人と音楽を共有するその価値を理解できた。
きっとそれは、彼がいなければ永遠に知ることのできなかった感情だろう。
そして、彼がどれだけ詞音の音を追っていたかも知った。
八年前のあの日から、彼は詞音と演奏することだけを夢見続けてきた。
そんな相手から、謝罪なんて――。
「……さっき私は、もう過去とは決別したって言った。だから謝罪なんてもう受け取れない」
「でも、それだと……」
「だから」
食い下がる鋼志郎を黙らせるように、強い口調で詞音は短く一言そう言った。
そして鋼志郎の顔に優しく触れて、俯いていた顔を自分に向き直させる。
「……全部終わったら、友達になって?」
「……」
「迷惑も面倒も全部許せるような、そんな友達に」
「……ああ……」
泣きたいのを堪えて、鋼志郎は頷いた。
初めて話した時から、八年間。
互いに関わることのない関係になってから、六年間。
ようやく、二人の時間は動き出す。
歪で相反していた二人が、……やっと、本当に触れ合えた。




