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31章 二人の選んだ未来

 長々と続いた商工会会長の開演口上も終わり、ついにメインイベントが始まろうとしていた。


 ステージに向けられたライト以外が全て消灯する。

 薄暗い部屋の中でステージだけが煌々と照らされて、人々の注目を否応が無しに集めていた。

 いよいよ始まるその重圧に、海司が緊張で手を汗ばませている。


 伸るか反るかも刹那の内か――そう覚悟して、ステージを強く見据える。


 ……見据えた目が……少しずつ見開かれる。


 割れんばかりの拍手の中、ステージ脇から出てきたのは琴浦鋼志郎。

 その顔は晴れやかだ、緊張などまるで感じていないかのように涼やかな面持ちでいる。

 それは重要なことじゃない。


 信じられるだろうか。

 ヴァイオリンを持った詞音がその隣を歩いているなんて。


「おい……二重奏の練習したなんて話、聞いてねえぞ……」


 そんな練習したことない。

 二人で合わせて弾いたことなど一度たりともない。


 けれども目の前の出来事が現実なのだ。

 夢よりもあり得ない光景が此岸なのだ。


 拍手に応じるように、二人が一礼をする。

 拍手の中には戸惑いの声が幾つも重なり合っていた。

 予定によれば今日の公演はピアノ独奏じゃなかったのか?

 彼らには、当たり前のようにステージへ出てきた詞音の存在が不可思議なものに見えるだろう。


 それを見て笑うのは、まもりだけ。


 漆黒の楽譜の意味を理解した。

 だから学校に泊まる詞音を止めなかった、練習する時間を確保させる為に。


 まもりは知っている。

 あの楽譜を見た詞音が、万が一の、億が一の、那由他が一の確率の為に練習をしてきたことを。

 ヴァイオリンソナタの練習を重ねた事実を。


 そして鋼志郎にあの楽譜を見せて詞音が演奏する可能性を匂わせた、過去を教えてやり遂げる心に火を点けた。

 そんな鋼志郎を見て詞音は表舞台に立つ決心をした。


 全ては計画通り?

 ……計画なんて呼べるものじゃない。

 二人を信じた、二人はそれに報いた。

 だからこの光景は、二人が作り出した新たなる日々の幕開け。


 頑張れ、若者。


 声に出さず、彼女はそう呟いた。


 鋼志郎たちが準備を始める。

 ピアノ前の椅子に腰かけて高さを調節したり、ヴァイオリンのアゴ当てを何度かやり直したり。

 まるで勿体ぶるように二人は準備をしていく。


 その途中、二人の視線が通った。


 ステージに上がる前に言われたことを、鋼志郎は思いだす。


『琴浦、今までの練習は忘れなさい』


 二人は楽譜を広げる。

 鋼志郎が使う楽譜は普通の楽譜、詞音が使う楽譜は黒に塗れたもう一つの楽譜だった。


『最初あなたがラプソディ・イン・ブルーを弾いた時のように、自分の好きに弾きなさい。正しく弾くとか演奏記号を気にするとかそんなことしなくていい』


 拍手が疎らになり、やがて静寂が訪れる。

 二人はもう演奏準備を終えた。

 後はただ、漕ぎ出していくだけ。


『あなたが楽しいと思う演奏をしなさい。自由に、何にも縛られることなく』


(――分かったよ、闇倉)


 いつでも弾き始められる詞音が鋼志郎を見る。

 始まりはまだかと問うように。


 その足は震えていた。

 その手も震えていた。

 焦点も覚束ない、脳裏に想起されるのは六年前の光景。

 ステージ上から見る客席はまるで敵陣の群れのよう、かつて彼女に植え付けられたPTSDの種が発芽していた。


 でも、やらなければ。

 でも、やり遂げなければ。


 心の中で何度も何度も詞音が囁く。

 自分に言い聞かせた言葉は闇の中に吸い込まれ、段々誰に対しての言葉かすらも分からなくなっていく。


 こんな状態でやり遂げられるのだろうか?


 でも……やり遂げなきゃ……。


「……」


 突如――鋼志郎は立ち上がる。


 そして司会進行用のマイクを持って、観客全員の真正面に立つ。


 その姿はまるで舞台俳優のよう、観客に向かって迫真の演技を見せつけるアクターのような立ち振る舞い。

 でもこれは演奏会だ、楽器を放棄して人前に立って何の意味があるのか。


 観客も、詞音も。

 今更何をし始めたか分からずに鋼志郎を注視する。


「皆さん! 今日はお集まりいただき誠にありがとうございます!」


 鋼志郎の放った声は若さが溢れるほどにまで大きかった。

 でも特徴的なのは声量だけではない。


 彼は笑っていた。

 竹馬の友に向けるかのように笑顔で溢れていた。


「今日演奏する曲はLike all peopleです! 昔大ヒットした曲で、最近カバーされました! きっとCMとかで聞いたことがあるかと思います、歌ったことがある人もいるかと思います!」


 あの曲か、と老若男女問わず心当たりがあるような表情をする。


「だから……皆さん、思い出してください! この歌を聞いていたあの頃を、楽しかった思い出を! カバー版を聞いた皆さんは最近の楽しい思い出を! そして――」


 一瞬息を吸い込んで、鋼志郎は叫ぶ。


 クラシック界ではありえないはずの一言を。


「お喋りしながら! 話しながら聞いてください! 我々の演奏をBGMにしてください!」


 ――床に座る観客たちの手には、レクホールに入る時渡された飲み物が握られている。

 ジュースもある、お茶もある、なんならアルコール入りの飲み物だってある。

 望めばつまみも菓子もある。


 まるでそう、話しながら料理を楽しむジャズバーのように。


「……座って演奏を聞くだけじゃなくて! そんな我々ばかりが楽しい時間なんかじゃなくて! もっと、みんなで――」


 マイクがハウリングするくらい強く強く、楽しそうに鋼志郎は叫ぶ。


「みんなで今日のこれからを! 楽しみましょう! 今日これで演奏ができなくなっても! 楽しかった思い出だけは皆さん持って帰ってください!」


 ……馬鹿な。


 そう呟いたのは奏一だった。

 話しながら演奏を聞く?

 そんな音楽への侮蔑行為、到底許されるわけがない。


 音楽は技術と感情の結晶体だ。

 奏者が綴った旋律を、観客たちはその身で感じて酔い痴れるだけ。

 会話なんて以ての外、咳払いさえ問題外!

 音楽に身を委ねさせることがクラシック奏者の本懐だ、空間の主役は音楽たり得なければならない!


「最後まで一緒に楽しみましょう! 聞いてください、『Like all people』!」


 マイクを戻し、鋼志郎が所定の場所へ戻ってくる。

 何事もなかったかのような表情で、今度こそピアノと向かい合う。


 詞音は――正直、鋼志郎の行動が理解できなかった。


 だって、ありえるはずがない。

 クラシックの醍醐味でもある演奏前の静寂を自ら打ち消すなど、そして己の口から鑑賞方法を指定するなど。

 クラシックコンサートは奏者の旋律と鑑賞者の賞賛のみが交差する場所、それが在るべき原則なのだから。


 ……でも委ねたのだ、彼に全てを託したのだ。

 彼が想う理想なら、それに付き従うだけ。


 気づけば、緊張で渦巻いていた詞音の視界がはっきりと形を成していた。

 琴浦の言葉が緊張を掻き消したかのように。


 ……掻き消したかのようではない、現に掻き消したのだ。


 クラシック界ではありえない一言を叫んで、詞音を混乱させることによって。


(……これが琴浦の目指した音楽か)


 そして、合図もなく鋼志郎の手が振り上げられ……。


「――――」


 力強い一音が室内に木霊する。


 それは背筋を震わせるほどの鈍い重低音。

 本当にピアノから放たれた音なのか、鼓膜だけでなく骨をも震わせるような重量感が世界を揺らす。


 ありえない程の音を出したのはピアノだけではなかった、それに呼応するようにヴァイオリンも鋭く高い音を出している。

 重なり合う盛大な音が観客たちの意識をはっきりと色濃く認識させる、これから始まる一度きりの即興曲を刻み付ける!


 音が幾重にも繋がっていく。

 単音はやがて旋律となり、旋律はやがて曲を作り出す。

 五秒もすれば誰もが思い出す、どんな曲だったかを思い出す。


 誰もが……鋼志郎の思惑とは裏腹に、黙ってその演奏を聞いていた。


 でも、ぽつりと誰かが言葉を落とす。


 ――懐かしいな。


 誰かがそう呟いた。

 何十年も前に一世を風靡した楽曲が、今目の前で新しい姿となって蘇ったのだ。

 そんな郷愁にも似た思いを感じるのも当然のこと。


 ――これ、倅が赤ん坊の時、よく聞かせてた曲なんだよ。

 あいつあの時これ聞いたら泣き止んでたんだ。


 そう言っていたのは商工会の会長だった。

 うへえと張本人の海司が嫌そうな顔をする、そして野次を飛ばすような声で父親に言葉を返した。


 ――昔の話すんなクソ親父ー。

 余計なこと言うと久しぶりに夜泣き再開すんぞー。


 どこかの島の何かの代表が微笑ましそうに笑った。


 商工会の面々がひそひそと話し始めるのに合わせて、少しずつ、少しずつ、話し声が聞こえてくる。

 最初は遠慮するかのように小さな声で、でもステージ上から聞こえてくる音は大きくて、声を大きくしないと中々聞こえなくて……。


 黙っていられることなんかできるだろうか?

 久々に別の島の人たちと、ビールを片手に再会したのだから。

 少しくらい笑ったって、少しくらい話したって大丈夫だろう。

 だってこの大音量の中だ、それに話していいと言われたのだ。

 だから大丈夫、大丈夫のはずだ。


 みんな少しずつ言葉を交わす。

 思い出話でも、最近の話でもいい。

 別に曲に纏わらない話でもいい。

 久しぶりに他の島の友人に会って気楽に話す時間ができた、アルコールも入って楽しい気分、それだけでもう話すことはたくさんある!


 その光景を、奏一はあり得ないものを見るような目で見ていた。


 ……こんな演奏会が、許されるはずがあるものか。


 酒を片手に話しながら?

 まるで花見にでも来たみたいに、酒飲みのオヤジたちが楽しそうに酌み交わして?

 そんなコンサートがあるものか、こんなものコンサートではない!


 その斜め後ろで海司が噴き出した。

 もう間違いない、鋼志郎がやりやがったのだと。


 確かに奏一の思う通り、これはコンサートなんかじゃない。

 だって鋼志郎が影響されたのはDDTなのだから、コンサートの礼儀作法なんて欠片も知りやしないのだから。


 これはライブだ。

 しかも形式ばったものじゃない、学園祭の垢抜けないバンドライブのような初々しさ。

 楽しさだけが最優先のライトな熱狂場。

 椅子を用意せず地べたに座らせたのもその一環、仲の良い知り合い同士で塊を作らせる為の策謀。


 最初はわけが分からなかった、演奏が始まったら喋り出すよう商工会の面々に頼んでくれなんて願いの意図が掴めなかった。

 けれどもこれか、これこそが鋼志郎の作戦か。


 やりやがったな、コーシロ。


 ステージ上で一心不乱に打鍵する友を見て、彼は紙コップを掲げた。

 まるで酒が入っているかのように、楽しそうに笑い転げながら。


「――――ッ」


 鋼志郎の演奏は止まらない、休まらない。

 音量調節なんて考えないし、リズムだって自分勝手にアレンジする。

 楽しければそれでいい、盛り上がっていればそれでいい!


 その隣で詞音が少しだけ音を緩めた。

 先程まで鋼志郎に同調するかのように激しい旋律を奏でていたのに、今度は音を抑えてサポートに回る。


 それが唯一の解だった。

 鋼志郎のメリハリを矯正する、唯一の方法。


 鋼志郎の放つ音量は、数値で例えるならば九十から百を推移する壊れたラジオのよう。

 だがその裏で詞音が十から百の音量を自由自在に重ねていく。


 即ち、合計は百から二百。

 通常の演者と同じ程のメリハリを作り出す。


 無論そう単純な話ではない。

 少しでも二人の息が合わなければすぐに綻んでしまう脆弱な奏法だ。

 ピアノとヴァイオリンの音が乖離して、上手く噛み合わない可能性だってある――。


(でもッ! それは私の役目!)


 それはまごうことなき超高難易度。

 でも成立する!

 詞音の卓越した演奏技術が鋼志郎の欠点をカバーする、初めてのセッションとは思えない程丁寧に!


 初めてのセッション?

 ……そうじゃない、詞音にとっては幾度目になるかも分からないセッションだ。


 だって詞音は、漆黒の楽譜を相手に、毎日練習をしてきたのだから……!


(何もかもが楽譜通り……お父さんの刻んだ通り!)


 ――漆黒の楽譜には、秘密があった。


 プリモ、セコンド。

 第一奏者と第二奏者、それはピアノ連弾用の記載。

 でもピアニストは一人しかいない、じゃあつまり誰と誰?

 鋼志郎と詞音に決まっている!

 その楽譜にはピアノに合わせる為のヴァイオリンの旋律が刻まれている!


 あの楽譜には、鋼志郎がアレンジして弾くであろうパターンとそれに合わせたヴァイオリンの演奏が全て記載されている。

 楽譜が真っ黒になるくらいにまで、幾通りものアレンジパターンが上書きされている。

 それをアレンジごとに分割して、そこからヴァイオリンの旋律だけを拾い出して練習するなんてまごうことなき超高難易度!


 それは奏一の挑発。

 理解できるものならしてみろという邪悪な書き方、本気で島を救いたいならこの程度の艱難は乗り越えてみろという試練。

 それでも彼女は理解した、だって父の書いた曲を演奏するのが夢だったのだから。

 父の楽譜を一番理解しているのは自分なのだから!


 だから詞音は想起するだけでいい。

 鋼志郎はどのパターンを選ぶ?

 今このパターンを選んだから、きっと次はこのパターン。

 彼女はそれに合わせてリズムを崩すことなく音を追随させていく、父の刻んだ導きに沿って鋼志郎と共に奏でていく。


 緊張なんて感じている余裕はない、一分一秒先を合わせることしか考えられない。


 トラウマすら吹き飛んでいくほど、詞音は目まぐるしく演奏を予測する。

 ただ目の前の旋律に心を向ける、その他全ての感情が薄らぐほどに。


 けれどもその中に楽しさだけが色濃く残っていた。


 誰かと音を重ねる楽しさ。

 音楽のことだけを考える楽しさ。

 鋼志郎からどんな演奏が飛び出してくるのか予想していく楽しさ。


 奏でる。

 弾き連ねる。

 ……そして、楽しむ。


(ああ、全部が全部、現実じゃないみたい……)


 まるで桃源郷。

 穏やかな感情だけが詞音の心に流れていく。


 緊張していた。

 吐き気を覚えていた。

 手だって震えていた。

 人前で弾くことなんかできないと思っていた、ステージに上がってもそうだった。


 けれども、鋼志郎がみんなの前に出て、言葉を放ってから全ては変わった。


 ――みんなで今日のこれからを楽しむ。


 もう、怖がらなくてもいいんだ。


(私も……楽しんでいいんだ)


 正しい演奏をすることだけに命をかけるんじゃなくて、美しい音色だけを追い求めるわけじゃなくて。


 ……楽しみ、喜び、奏でる。


 初めて楽器に触れた時……きっと、その感情を覚えていたはずだから。


 音が広がっていく。

 空間内が楽しさで溢れていく。

 みんなが楽しさを求めていく。


 きっとまだまだ楽しくなれる、だって演奏している鋼志郎がこの中で誰よりも一番楽しそうなのだから。


 鋼志郎はもう笑うことすら隠せずに、ただピアノを弾く喜びだけを感じて演奏していた。

 その指が奏でる音は人の心をワクワクさせる、初めて聞いた詞音がそう思ったように。

 だって弾いている本人が誰よりも何よりも一番ワクワクしているのだから、この先どんなアレンジで曲が変わっていくか、本人さえも楽しみにしながら奏でていくのだから!


「……琴浦君は、演奏の才能はないのかもしれない。……でも、誰よりも楽しそうに演奏して、……聞いている人を湧き上がらせる」


 奏一の隣で、妻がそう呟いた。


 その言葉を聞いて、奏一は独り言のように呟き返す。


「……詞音は楽しさを想起させる演奏などできない。だが屈指の演奏技術が備わっている」


 二人の演奏は互いを補い合う。

 感情を鋼志郎が担って、技術で詞音がカバーする。


 不完全な少年少女の演奏は合わさることで完全に至る。

 二人が一つとなっていく。


 気づけば会場内は話し声で溢れていた。

 けれどもそれは演奏を蔑ろにしているわけではない、演奏に聞き惚れながら楽しい時間を過ごしている。

 中には演奏に聴き入る人もいた。

 それでもいい、どんな形でも楽しんでくれるなら!


 皆で楽しもう!

 最後の最後まで!


(ああ、終わってほしくない――!)


 懇願するように鋼志郎は思っていた。

 こんな時間が永遠に続けばいいのにと。


 それでも終わりはやってくる。

 この演奏の終わりも、この島の終わりも。


 曲調が激しくなる。

 みんなに話す時間を与えるように、幾重ものアレンジを重ねてサビからBメロを繰り返していた。

 だから演奏時間は想定よりも長くなっていた。

 けれどもいつまでも続けられるわけじゃない、曲はループを抜けてラスサビへと突入する。


 ここを弾き終われば全て終わる。

 詞音と交わす演奏が終わってしまう。


 何故だか、鋼志郎は涙を流したくなった。

 けれども笑う、それでも笑え。

 残り少ない時間なのだから最後まで楽しみ尽くすのが礼儀だろう。


 ラスサビに突入すると、あれほどまでにざわついていた会場が静寂を取り戻していく。

 話に飽きたわけじゃない、この二人の最後の演奏を聞き漏らさんとする為に。


 鋼志郎が詞音を見る。

 ……それは一瞬の出来事、長く鍵盤から目を話すことなんかできるわけもない。


 でも、……そんな刹那のことだけど、……詞音も鋼志郎を見た。


 二人の視線が確かに重なる。


 鋼志郎が笑った。

 いつものように、いつも以上に楽しそうに。


 それを見て――、

 ……詞音も、笑った。


 六年を経て、彼女は笑顔を浮かべた。


「――――」


 二人が同時に息を吐く。

 最後の一音を刻むために。


 曲の終焉を飾るその一音は、重く重く、会場内に響き渡った――。


「……」


 一瞬の沈黙。

 そして――、

 それを打ち破る盛大な拍手が観客席から上がった。

 割れんばかりの歓声と、止むことが無いようにも思えるスタンディングオベーションが伝播していく。


「皆さん! ……ありがとうございました!」


 そんな鋼志郎の声はきっと届かない、拍手の音で今はもう何も聞こえないのだから。

 それでも鋼志郎は何度だって言葉を放った、声が枯れて血の味がしても。

 でも言葉は幾度となく掻き消された、耳が壊れるほどに、痛く思える程までに拍手は鳴りやまない。


 詞音は……呆然と、観客たちの方を見ていた。


 それは見た事のない光景。

 ……六年前に演奏を終えた時は、誰も拍手なんかしなかった。

 白けた雰囲気が漂い、自分をステージから追い出すような視線ばかりが彼女を射抜いていた。


 でも……今は違う。

 みんな笑っている、みんなが讃えている。


 この拍手は全て、自分たちに与えられたものなのだ。


 呆然とした顔が……少しずつ歪んで……一筋の涙が頬を流れる。


 涙の止め方なんて分からなかった。

 しゃくり上げることも止められなかった。

 ……詞音はもう感情を隠そうとはしない。

 両目に大粒の涙を称えたまま、勢いよく立ち上がる。


 万感の拍手に包まれながら、彼女は叫んだ。


「ぁ……ありがとうっ、ございまし……た……ッ!」


 涙が零れて途切れ途切れになる言葉。

 それでも観客たちは歓待するように、より一層拍手を強く掻き鳴らす。


 鋼志郎も涙を堪えて詞音に拍手を送った。


 憧れの人に、過去を乗り越えて演奏をやり終えた彼女に、ささやかな祝福を送る。


 詞音も――涙で顔をくしゃくしゃにしながら、鋼志郎に拍手を送った。


 それは、八年間を報う時、そして六年間を報う時。

 永く縛られた因果から解き放たれていく姿。

 八年前願った共演を、六年前果たせなかった演奏を、少年少女は成し遂げる。


 今がきっと、彼らの人生で最高の時――。


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