30章 審判の刻
人々の賑わう声。
幾人もの人間の話し声があちこちから上がり、それぞれが小声の会話だとしても、レクホール内には小うるさく感じるほどのざわめきが巡っている。
公民館のレクホールには多くの人物が座していた。
式鳴島商工会会長、副会長、会計、神奏島商工会青年部連合会、三弾島町内会、御演島観光課課長、弦ヶ島祭事担当委員会、伊豆諸島総合観光庁組合員、公民館運営側の人々、雅楽推進委員会所属の式鳴島音楽隊。
東京都総務局観光地域促進担当、北空文人。
式鳴島商工会総合連合会会長令息、長野海司。
講演者肉親、琴浦鋼ノ介。
令閨、琴浦桜子。
同上、闇倉奏一。
令閨、闇倉美代。
二人の為に設営されたステージの上には、学校から運搬されてきたグランドピアノが鎮座している。
対して観客側には五十名以上の人々が、椅子も用意されず地面に座って飲み物を煽り、思い思いその時が来るのを待っている。
どうして椅子が用意されていないのか?
普通に考えれば椅子は用意されてしかるべしだ。
だって観客側にいる者たちは各島の代表者ばかり。
まるで伊豆諸島の今後を定める定例会議が今日ここで行われるかの如くだ。
こんな異常事態普通はあり得ない。
……今日が普通でないことは、誰だって知っている。
先日、闇倉奏一発案の式鳴島復興の献策が俎上に載せられた。
無論商工会の面子でもない彼の提議を受け入れることなどあるはずがない。
しかし此度の演奏会の如何によって、まもりが商工会会長の座に就任すれば話は別だ。
彼の草案はまもりを通じて稟議にあげられることとなるだろう。
その計画を知る者なら……今日が普通でないことは、誰だって知っている。
そして同時に、海司から裏の計画を聞かされている者たちなら……今日が普通でないことは、この島の誰よりも知っている。
この演奏会は分水嶺。
ありとあらゆる因果を分かつ、不可避の決戦場。
「……」
海司は腕時計を見て、演奏開始まで残り十五分を切っていることを確認する。
泣いても笑っても後僅か、幾許も無くステージは幕を開ける。
恐らく今、控室では鋼志郎がアップをしていることだろう。
ガチガチに緊張していなければいいが、きっといつも通りの演奏などできるはずもない。
大衆に見られながら精細な演奏をする、その緊張感は素人の海司ですら計り知れた。
(頼んだぞ、コーシロ……)
控室――もとい、隣の会議室で鋼志郎がピアノを弾いている。
本番用のグランドピアノじゃない、家から運んできた電子ピアノだ。
音に差はあれど鍵盤に差はなし、本番前のアップ程度になら全然活用できる。
その顔には緊張が浮かぶ。
しかしそれは発表を間近に迎えた者に現れる適度な緊張で、全身が強張って指が上手く動かなるレベルのものではないようだった。
きっと小学生の頃の鋼志郎ならば失禁してしまうほどに緊張しただろう、だがここ何年間も矢面に立って様々なことをしでかしてきた成果がそこに現れていた。
一方――詞音の表情は、昏い。
鋼志郎の奏でる旋律は曲として成立しているものの、詞音の心を何一つ揺り動かせていなかった。
最後の最後まで直らなかったそのアンバランスな奏法、音程もリズムも鋼志郎式、技術の足りなさも相まってただのお遊戯会レベルの演奏でしかない。
「……」
これを、みんなに披露するの……?
これで、島を救うの……?
詞音は……もう、耳を塞いでしまいたかった。
今この耳に入る旋律も、これからステージ上で奏でられる旋律も、その後の落胆の声も全てが苦痛。
知っている、詞音はその感覚を知っている。
六年前、コンクールに出る直前と同じ感覚だ。
期待に釣り合わない演奏をするという不安、憐憫の目、嘲笑の坩堝。
失敗すると分かっていて挑む無意味な蛮勇……。
「……闇倉、上手くいくと思うか」
手を動かしながら鋼志郎がそう尋ねた。
詞音は――俯いて、目を閉じて、闇の世界を見ながら答える。
嘘偽りなど、今は誰も求めていないと知っていた。
「無理……だと、思う……」
「……そっか」
それでも鋼志郎は笑った。
仕方ないとでも言うように。
控室に公民館スタッフが入ってくる。
そして鋼志郎に呼びかけた。
「演奏開始十分前です。そろそろ準備してください」
「分かりました」
楽譜を小脇に抱えて、鋼志郎が席を立つ。
もう練習している時間などない、会場脇で出番を待たなければならない。
だが、歩き出す鋼志郎の服を、……詞音が掴む。
「……ねえ、…………逃げよう?」
まるで子供のような声だった。
鋼志郎は振り向かず、振り解かず、前だけを見つめていた。
詞音がこの手を放したら、今にでも演奏しに行ってしまうかのように。
「逃げ出さないよ。最後までやり遂げてくる」
「なんで……?」
詞音にとってそれは当然の疑問。
鋼志郎にとっては理外の疑問だ。
かつて誰にも受け入れられない演奏をして音を失った者と、それを知らない者。
二人の違いはそれしかない。
逆を言えば、音を失えば二人は同じになる。
失敗すれば、鋼志郎も、詞音と同じになる。
「なんで演奏するの……? 絶対無理だって、成功するはずないって分かるでしょ……? だったら不都合があったからでも……体調不良でも……なんでもいいから逃げ出せばいいでしょ」
「逃げて島は救われるのか?」
「……西洋楽器を諦めれば……救われるでしょ……」
「それで、お前は救われるのか?」
「私は……」
詞音の手が緩みかける。
でも、それでも離さない。
「闇倉。……俺が口の軽い男だってことは知ってるだろ」
それは痛いほど知っている。
鋼志郎が口を滑らせたからこそ六年前の一件が起こったのだ、彼を蛇蝎の如く嫌う根本的な原因なのだ。
「だからまた俺は口止めされてたことを話すぞ。……俺は昨日、六年前のことを全部知った」
「……っ」
「これから起こることは六年前と同じか? ……そう思うならそれでもいい。闇倉が通ってきたかつての痛みならば、俺も喜んで苦しみたい」
鋼志郎は、詞音の手を振り解いた。
彼女の制止を振り切って会場に行く為に。
負け戦へ身を投じる為に。
再び詞音がその背を掴もうとする。
でも届かない、指先を掠めて捕らえられない。
足が動かなくて追いかけることもできない。
六年前と同じように、眩暈と吐き気と振戦が身を襲う。
だから、叫んだ。
もう言葉しか届かない。
「ねえ! ……なんで琴浦は、そんな思いをしてまでピアノを弾くの!?」
振り返った鋼志郎は一瞬不安げな表情を浮かべていたが――いつものように笑う。
八年間伝えられなかった本当の想い。
それを伝える時は笑顔だって決めていたから。
「闇倉と一緒に演奏したかったんだ! 八年前、一緒に演奏しようって誘われた時から、そればかり夢見てきた! だから……やり遂げて、西洋楽器を守って! お前と一緒に弾ける未来を残したい! その為ならどんな低い可能性にだって立ち向かいたいんだ!」
一瞬だけ浮かべていた不安げな表情を見て、……記憶の奥底の何かが疼いた。
その表情を、詞音は知っていた。
八年前、その顔を見たことがある気がした。
夜の学校で出会ったあの一瞬を思い出して、その断片が想い出を手繰り寄せて――。
――闇倉詞音は、思い出す。
かつて彼と交わした言葉を、八年前の約束を。
琴浦鋼志郎との時間を、鮮明に思い出す。
『それでさ、いつか一緒に演奏しようよ。絶対楽しいよ!』
……あんな約束の為に、今まで頑張ってきたって言うの……?
あんなのただの口約束で、きっと冗談めかしで、日常会話だ。
取り立てて憶える必要性のない会話だ。
でも……鋼志郎はラプソディ・イン・ブルーを躊躇いなく弾いた。
楽譜も無しに曲が弾けるようになるなんて、相当練習しなければ身につかない技巧。
その根源にあるものは――、
――あの日あの時、私が弾いていた曲だから?
……なんて、バカな男……。
「…………」
詞音は立ち上がる。
もうその心に躊躇いなど僅かすらなかった。
「琴浦」
――怖い?
幼い自分がそう問いかける。
「どうした」
怖いよ。
幼い自分にそう囁いた。
「最後に一つ、お願いがあるの」
怖いけど、逃げてなんていられないんだ。
幼い自分を掻き消した。
「万感の抱擁なら演奏後にしてもらいたいね」
幼い自分が消えていく。
私は、闇の世界を歩き出す。
「二人で弾きましょう。この島の、最後の一曲を」
闇の世界を、鋼志郎と二人で歩き出す。




