29章 運命の朝
……目覚めが最高だとしたらどれほどよかったか。
決戦当日だというのにいつも通りの起床。
まるでなんてことない日常が今日も始まるかのように、油蝉の声も、暑苦しい空気も、全てがいつも通り。
緩やかに意識を覚醒させていく鋼志郎は、そんなことを思って少しだけ笑った。
今日が大事な日だからって、それに合わせて天気も荒れ狂われたらたまったもんじゃない。
しばらく窓から嫋やかな景色を眺めてから、彼は自室を出てリビングへと向かった。
そこには古びた電子ピアノが佇んでいる。
何年間も放置されていたあの頃より、一週間酷使され続けた今の方がよっぽどくたびれて見えた。
もし今日、全てが失敗に終わったならば、このピアノを捨てる時が来るだろう。
そうしたら二度と、音楽に触れることはなくなるはずだ。
……親に怒られないようヘッドフォンを付けて、鋼志郎はピアノを弾き始める。
今日弾くべき曲じゃない。
産まれて初めて耳にしたクラシック楽曲で、詞音が奏でていた想い出の旋律。
ラプソディ・イン・ブルーを、あの頃を思い出すかのように――。
窓から吹き抜ける風に髪を揺らしながら、詞音がヴァイオリンを奏でていた。
演目はラプソディ・イン・ブルー。
子供の頃から大好きな想い出の曲。
何度だって弾いてきた、指が憶えて瞳を閉じても演奏できるくらいに。
……この曲をこの島で一番上手く演奏できるのは自分だと自負している。
一番長く練習し続けてきたのも自分だと確信を持って言える。
でも……一番ワクワクする演奏をしたのは、鋼志郎だった。
彼の弾いたラプソディ・イン・ブルーを聞いた時、自分と違うベクトルで秀でたものがあるのだと思った。
それは自分には理解できない奏法、そして演奏に込める想い。
……だけど、練習を重ねれば重ねる程、鋼志郎の演奏からはそれが消えていった。
今の鋼志郎が奏でる旋律は、あの時より上手くなっている。
けれど、あの時のようなワクワク感は薄らいで、今やただピアノが少しできる人程度の演奏になっていた。
「……私のせい、か」
きっと自分の指導が原因だったのだろう。
彼の持ち味を消してしまった。
上手く演奏することに拘り過ぎて、粗削りな原石を砂に帰してしまった。
彼自身が楽しく演奏できければそれは生み出されない音色なのだろう。
音楽経験をひけらかして、できっこないのに指導の真似事をした末路がこれか。
今日上手くいかなかったら、そう伝えようと思った。
責任を感じるなと告げたかった。
刹那――漆黒の楽譜が脳裏を過ぎる。
鋼志郎の持ち味を活かした唯一の楽譜を。
「でも……弾けっこないよ、あんなもの……」
あと数時間で演奏会は始まってしまう。
今更、間に合うことなど何もない……。




