26章 沈痛な静寂
……全く初見の一曲を仕上げるというのは、想像以上に重労働だ。
楽譜の内容を全て頭に書き込み、記憶と寸分違わず指を動かす。
両手で別々の旋律を奏でながら、その上曲の情緒を制御して利き手への印象を操作する……。
ただ覚えたことを書き写すだけの暗記テストでさえもあんなに大変なのだから、その難易度は推して知るべしだろう。
ましてや挑戦者はあんまり成績面に自信のないオタンコナスの鋼志郎なのだ、円滑に物事が進んでいくとは思えない。
だから、なのだろうか。
「……」
演奏会を明日に備えた決戦前日、詞音の顔が少し青ざめているのは。
奏一に宣戦布告をしたのが月曜日、そして日曜日が演奏会当日なので必然的に今日は土曜日で、学校は半ドンで午前解散となっていた。
つまり幸運なことにたっぷり練習ができるわけだが、詞音はそんなことに全く喜びの色を示しちゃいない。
彼女の目の前で鋼志郎が演奏をしている。
暗譜を終えた上、両手の動きを覚えたので『形になった』と言えなくもない完成度だ。
ほぼ初心者ということを鑑みれば相当上達したと言えるだろう、細部さえ気にしなければアタマからケツまで全て演奏が繋がっている。
でも最終目標は子供のお遊戯会ではない、この島を救うレベルの演奏だ。
今の鋼志郎がそのレベルに達しているのかを問われれば、誰もが悲しみに暮れるだろう。
結局、鋼志郎は染みついたクセを直しきれなかった。
最初の頃に比べればややマシになったのかもしれないが、それでも素人目……いや、素人耳から聞いても歪な演奏だった。
それはバンド演奏から、一部のパートだけを抜き取った時のような精細のなさ……。
「……っ」
きっと、鋼志郎もそれを感じている。
だからこんなに悔しそうな表情をしながらピアノを弾いている。
詞音にできることはせめて、その顔を見ないようにすることしかない。
昇った陽が傾いて、世界は夕焼けのオレンジ色に染まっていた。
室内倉庫でピアノを弾く鋼志郎も、その傍らに佇み目を伏せている詞音も、楽器も、楽譜も、何もかも。
言葉もなく、音だけが響く。
虚しさだけが、世界の音色に溶けていく。
その静けさを打ち破ったのは、扉の開く音だった。
無遠慮に扉を開けたのは長野海司、その顔はどこか疲れているようにも思える。
「闇倉ぁー、職員室に電話きてるらしいから来いってセンセが言ってるぞ。商工会を乗っ取りそうな腹黒さを持つ声みたいだからさっさと行った方がいいんじゃねって思うけどぉ」
「……ええ」
詞音が立ち上がり、海司と入れ替わりで倉庫を出ていく。
二人のやり取りを全く耳にせず打鍵を続ける鋼志郎の隣に、海司は躊躇いもなく座る。
本来ならピアノを二人で連弾する時に座る距離、いやそれよりも近いだろう。
だから海司の体は鋼志郎の邪魔になっていたはず。
……きっと、わざと邪魔をしたのだ。
その話を聞く為に。
鋼志郎が演奏を止め、少しずつ俯いて、俯いて、俯いて……鍵盤でもなく自分の手でもなく、自分の膝に視線が向いてしまう。
「海司……」
「おう」
「……ダメかもしれない……」
海司は相槌も打たず、先を促すこともしなかった。
今喋らせればきっと、鋼志郎の声は震えてしまうから。
その代わり、鋼志郎に喋らせないかの如く言葉を紡ぐ。
呼吸も忘れてしまったかのように一息で。
「暗譜は上出来、手の動きも及第点。問題のアドリブ癖と曲のアップダウンを正すには残り時間が足りないか。まぁ過程派から見りゃ、今のお前は充分頑張ってると思うよ。……っつー慰めじゃ、もうお前には届かんよなぁ」
ピアノを再び弾き始める前なら、島を救う責務を背負う前なら、きっとその言葉は有効だっただろう。
でももう鋼志郎はその域にはいない。
「……お疲れ様だな、コーシロ」
ここまで頑張ったのだから、もう十分だ。
そう言って止めてやりたい気持ちが海司の胸中にどれだけ溢れていることか。
「だけど、最後まで頑張れ」
だが海司は敢えて背を押した。
頑張ったことが美しい、結果がどうあれ努力したことが一番の喜びだ。
……そんな敗者の傷の舐め合いのような言葉は、ただ忸怩たる思いを増長させるだけ。
頑張るだけで自分を赦せるならば、この数日間には何の意味もないと思えてしまうだろう。
努力したいわけじゃない、褒められたいわけじゃない、労われたいわけじゃない。
成し遂げる為に、ここまで頑張ってきた。
毎晩夜遅くまで練習を重ねて、授業中も楽譜を見て手を動かして、時には明らかな睡眠不足で授業中意識が落ちて怒られて、練習をしすぎて指に疼痛が走っても練習し続けて、悔しくて歯噛みしても、無力さに涙がこぼれかけても、力不足に焦燥感を覚えつつも、それでも少しずつ前に進んで。
あと少しのところまで辿り着いて、それもまた自分の錯覚で……。
「明日。……コーシロが演奏する時、伊豆諸島各地の筆頭がやってくる手筈になってる。闇倉のオッサンはただの演奏会で島が救えるわけがないと思ってるだろうけど、明日は正真正銘最大のチャンスだ。これを逃すとオッサンのプラン以外に島が再生する道はないねぇ」
相当手荒なことしたから二度目はないしなと海司は自嘲するように笑う。
その様子が疲れて見えるのも、数多くの段取りをこなしたが故なのだろう。
「演奏が上手くいけばつけ入るスキはある。……だから、頑張れコーシロ。……頑張れ」
「……ああ……」
演奏をするだけで島が救えるなんて奇跡、起こるはずもない。
だが海司が万が一の可能性をかけてそれを可能にしてくれた。
演奏さえうまくいけば、きっと何らかの策で窮地から救ってくれるはず。
だから、頑張らなければならない。
鋼志郎の頑張りに応じて、共に頑張る仲間の為に。
でも……。
「少しだけ……少しだけ、休憩してもいいかな……」
「……ああ、好きにしろ」
肩を震わせる鋼志郎を、海司は見ようとしなかった。
ステージに立てば一人、孤独の戦いになるだろう。
だから今だけは泣いてもいい、友に肩を預けて泣いても構わない……。
「泣いてる場合じゃねェぞてめェ琴浦ァ」
感傷とか情調とかを完全に無視して扉を蹴り開けたのはまもりだった。
足音を立てながら大股で近づいてきて、鋼志郎の腕を掴んで引っ張り立たせる。
相手の瞳に大粒の涙が溜まっていようがお構いなしだ。
「えっ、なっ、なにっ、どしたんスか」
「どーしたもこーしたもあるか、闇倉のいない今の内に見せておきてェもんがある」
まもりは抱えていた茶封筒を鋼志郎の胸に押し付ける。
封筒の中には幾枚もの紙束が収められていて、開け口から見下ろしただけでは何の資料かを特定することはできなかった。
だけど海司には察することができた。
……でも、今更、何のために……?
「な、なんですか、ラブレターなら可愛い封筒に入れないと心にズキュンと来ないですよ」
「オメーの心臓をチャカでドキュンとしてやろうか。いいからさっさと中身見ろ、闇倉が戻ってきたら厄介なことになる」
妙に急かされるのでいそいそと封筒の中身を改めると……そこには海司の予想通り、漆黒の楽譜が収められていた。
現物は詞音が所持している、だからそれは複製品だ。
その楽譜を見た鋼志郎は、幾許かの時間をかけて、演奏足りえないものであると理解する。
「なんですかこの楽譜……こんなバカげた書き方、普通ありえない……!」
「歴としたプロの作曲家が作った楽譜だ。オメーの演奏法を知った闇倉奏一が、もう一つ拵えた秘蔵の楽譜だよ。……ここまで言えば分かるな?」
「俺の演奏法を知って描いた……?」
それを念頭に置いてもう一度楽譜を見てみる。
人力では決して弾き得ない楽譜を、実現すれば指どころかピアノが壊れかねないレベルで刻まれた音符と演奏記号を。
……フェローチェとトランクィッロが重ね書きされて……相反するスモルツァンドとマルカートが刻まれて……グランディオーソ、リゾルート、ジョコーソ……。
……プリモ……セコンド……?
「バカかッ、あの親父は!」
その意図を理解して、楽譜の裏に隠された言葉を受け取って、鋼志郎が全力で叫ぶ。
この楽譜は挑発だった。
弾けるものなら弾いてみろと、やれるものならやってみろという扇動。
確かに楽譜に書かれている通りの超極悪な難易度設定だ。
(でも……でも……でもッ!)
もしこの演奏が実現したなら、未来に望みを繋ぐことができるのか……!?
そう思う鋼志郎の胸に浮かんだのは淡い希望か、無理難題への錯乱か。
どちらにせよ、先程までの半ば諦めていた彼の心に、僅かな灯が咲いたのは確かだった。
「闇倉にゃァその楽譜を渡してあるが、オメーには見せなかったようだな。だからオメーに今聞くぞ。……明日、使われる楽譜はどっちだ?」
「……」
だって、しかし、だがッ、今からなんて時間が足りない……!
今すぐ取り掛かって間に合うのか!?
そもそも闇倉は俺にこの楽譜を見せようとしなかった、この楽譜を使う気はないってことじゃないのか!?
でもッ、だからといって……!
鋼志郎の脳内に駆け巡る逡巡。
二者択一……いや、無限の中の択一。
『だけど、最後まで頑張れ』
諦めるつもりなんて、あるものか。
「……この楽譜を、使っていると……信じます」
「……そうか」
まもりが満足げに頷く。
その顔は少しだけ、マトモな教師のように見えた。
「じゃ、頑張る若者にいいコト一つだけ教えちゃおうかねェ。今から話すことをゼッテー闇倉に漏らすんじゃねえぞ」
「なめんでくださいよ、俺は口と肝臓は固い男スよ」
「肝硬変じゃねえか。オメ約束は守れよ、楽譜の裏見てみろ」
「裏……?」
楽譜が両面印刷されていることなんて冊子形式でもなければありえないので、裏面は全くチェックしていなかった。
だがまもりの促す通り、楽譜の裏には何かが印刷されていた。
そこに書かれていたのは、商工会が部外秘として保持している企画経歴書。
「六年前の、企画経歴書……?」




