22章 束の間の休息
木曜日。
鋼志郎と詞音の楽しい音楽レッスンは今日も続いていた。
もとい、鋼志郎が泣かされていた。
「ひん……ひん……」
「ひんひん言わないの」
日頃から屈強なる日本男児を自負している鋼志郎が何故情けなく泣いているのかと言えば、有体に言ってピアノが上手くいっていないからだ。
ポロンポロンと音を奏でるピアノとポロンポロンと涙をこぼす鋼志郎、傍から見れば何か特殊なプレイに興じているようにも見える。
ようやく楽譜の内容を頭に叩き込み、両手で頭から弾き始めたところだ。
曲としての完成度はまだ蛹にも至っていない状態、満足な演奏ができるには時間を要するだろう。
「闇倉ぁ……なんか……なんかこう……慰めて? 託児所みたいな甘やかしで俺の気力を回復させて……」
「いい年こいて軟派なこと言わないの。時間ないんだから指が千切れるほど弾きまくるしかないでしょ」
「やだ! これ以上弾き続けると指より先に堪忍袋の緒が切れる! 俺もう無理、夜泣きに夜泣きを繰り返して幼児退行してやる! 俺が止まることは誰にも止められん」
誰が止まるのかよく分からないことを言いながら、鋼志郎が床に倒れて蹲ってしまう。
稚児の駄々を見る母親みたいな目で詞音がそれを見下ろして、脱力したみたいに肩を竦めた。
……情緒が不安定になる気持ちも正直分からないでもない。
ここ数日の練習詰めに、楽譜の完全暗譜、それを終えたら速攻で指に動きを教え込まなければならないのだ。
脳味噌つるんつるんの鋼志郎にとってはもう許容範囲をとっくに超えているのだろう。
「……今日はこれくらいにしときましょうか」
これ以上続けても逆効果だろうと思い、詞音はそう提案する。
いつもよりも遅くまで練習をしていたせいで、もう時刻も夜九時。
太陽の勢力が強い夏とはいえ外は黒ずんで、ぽつぽつと町灯りが見える頃になっていた。
気づけば腹の虫も鳴いているし、指導している側とはいえそれなりの倦怠感が体に圧し掛かっている。
今日の夜何食べよ……と詞音が考えている一方、その足元で弾きの苦しみに鋼志郎がもがき苦しんでいると、ガラスコーと教室の扉が開く。
「オース家なき子ー。晩メシ作りにきたぞー……ん? まだいんのか琴浦ァ」
入ってきたのはまもりだった。
相も変わらずラフな格好の彼女は両手にビニール袋を持って、ついでに小脇にIHを抱えている。
「琴浦オメ、あんま遅くなんねェ内に家帰れよ。親御さん心配すンだろ、後はお家で復習しろお家で」
「親には今度の演奏会のこと話して、帰り遅くなるって言ってありますよう。……てか夕飯食べるんですか? 俺にも食わせてくださいよ。今もうカロリックなものを摂取しないとマトモな二足歩行すら行えないレベルなんですよ俺」
「つってもオメー、家で親がメシ作ってんだろ? 親に二人分食わせる気か?」
「俺の親、胃袋二つあるんで大丈夫ですよ」
「バケモンじゃねえか」
まあ軽く摘まめるもんくらいは作ってやっか……と面倒臭そうに言いつつ、まもりが二人に手招きをする。
さすがに埃っぽい倉庫で料理を食べるのは耐えられないので移動するのだろう。
先程まで二足歩行できないと宣っていた鋼志郎が勢いよく立ち上がり、スキップ混じりでまもりの後をついていく。
その後ろに、なんだか億劫そうな詞音も追随していた。
「……琴浦も食べてくの? えー……」
「えーとか言うな。いいだろ、給食の時間から九時間くらいなんも食べてないんだよ俺、飢え死ぬぞ。……てかどして先生が夕飯作りにきてるの? 半同棲状態の大学生カップルみたいでなんかオギオギするんだけど」
「するな。家からお古のIH見つけたから持ってくるついでにご飯作るって言ってたの、だから私も先生のご飯食べるの初めて」
「となると気になるのは……」
「ええ……」
二人が深刻そうな顔で頷き合う。
あのものぐさ教師が作るご飯だ、当然の如く不安しかないに決まっている。
「闇倉、俺が死んだら式鳴島で一番見晴らし良くて高いところに墓立ててくれよな……」
「ちょくちょく雷落ちると思うけどいいの?」
先導されて辿り着いたのは職員室だった。
まもりの机は資料が散乱していたり、デカい灰皿に飲み会の大盛ポテト並の勢いで捨て殻が置いてあったりしてぐっちゃぐちゃ。
その机を見て片付けるのが面倒そうな顔をして、まもりはIHを校長の机に置いた。
「え、いんすか。校長の机でめちゃめちゃ料理しようとしてるけどそれいんすか」
「ヘーキヘーキ。いざとなれば琴浦がいつものイタズラをしたってことにすれば丸く収まる気がすっから」
「マジすか、これ冤罪が生まれる瞬間じゃん」
慄いている鋼志郎を尻目に、まもりは薄っぺらいまな板を取り出して、野菜をざくざく切り始める。
水気があるから多分洗って来たのだろう、意外とマメだ。
校長の机で調理し始めているのを除けば。
「オメーらはテキトーに紙皿でも置けるスペース確保しといてくんねえか。あと琴浦、オメーにはつまみ程度のモン作るけどどんなん食いてぇ?」
「好き嫌いとかしないタイプなんでシェフの気まぐれランチ的なものでいいっすよ」
「よし来た、シェフのまぐれランチ作ったらァ」
「一か八かで料理しないでもらえますかね」
とはいえまもりの手付きはこなれたものだ。
淀みない動作で料理を進めていくサマはいつもの気だるげな動作からは考えられないレベル。
洋風炒り卵や緊急性交が得意な女性と婚儀を交わしたいと常々思っていた鋼志郎も思わず目を見張る。
「やべえな……まもり先生が意外な女子力を見せつけたらいよいよこの島も終わりって感じがする。おい闇倉、何かいい感じの女子力を見せて俺を安堵させてくれ」
「何たわけたこと言ってるの。自慢じゃないけど私こう見えて家庭的なこと何もできやっぱ自慢じゃないから言うのやめとくわ」
致命的な欠点を開陳しかけるも寸でのところで回避し、詞音はダンボールを組み立てて机を作っていく。
果たしてダンボール如きでどれほどの重量を乗せられるのか、瀬戸際を攻める戦いになりそうだった。
「んでよォー、琴浦オメー調子はどうなん調子は。進捗の良し悪しによって美味いか不味いか変えるからちょっとそこ正直に言ってみ?」
「え、なんですかその誰も得しないシステム。……それなりですよそれなり。弾くだけならまあ何とかなりそうですけどー……」
ちらりと詞音のほうを見る。
鋼志郎からの視線を感じた詞音は、事実を包み隠すこともない淡々とした口調で言葉を引き継いだ。
「ここからどこまで正確な演奏ができるかにかかってますね。琴浦の暴れ馬みたいな演奏がどうにか落ち着きを取り戻せば、まあ三連単ぐらいの確率にはなるんじゃないでしょうか」
「弾き方の矯正ねェ、中々骨が折れそうじゃん。……正確な演奏っつったら闇倉奏一の専門分野だろ、娘なんだしそこんとこ色々教授されてんじゃねェのか?」
「まあ少しくら……えっ。先生、父の演奏聞いたことあるんですか?」
中々稀な光景だが詞音が素で驚いていた。
まもりはフライパンを空焚きしつつ、懐かしき日々を思い出すような顔で虚空を見つめた。
「まァーな、二十年前に一度っきりだけどよ。……アタシぁ少しばかり音楽に興味があったから分かったけど、スゲェ正確な演奏すんのなあのオッサン。リズム絶対に狂わねェし音圧も安定してっし、教材に使えそうなレベルでマジハンパねぇの」
それはまるで詞音の奏法を解説しているかのよう。
直接父から指導鞭撻を受けたわけではないが、どういう巡り合わせか父娘の演奏方針は同じ道を辿っていた。
血は争えないということだろうか、性格上の問題だろうか。
「……父は、どうしてヴァイオリンを辞めてしまったんでしょう」
かつて奏一がヴァイオリンを弾いていたと、詞音は母親経由で一度だけ聞いたことがある。
だがもう奏一はヴァイオリンを弾いたりはしない、作曲上の都合で音を確かめるため、弦を一擦りするくらいだろう。
母親に尋ねても理由を教えてくれず、本人になんてとても尋ねられない。
父が演奏を辞めた理由を、詞音は知らなかった。
「物事を辞める理由なんざ口にする必要はねェだろう。なんもかんも人生の巡り合わせだ、きっと闇倉奏一にも並々ならねェ理由があったんだろうよ」
なんてことを言いながら、手近のボトルをフライパン上に少しだけ垂らすまもり。
アルコールっぽい臭いがしたので料理酒かな、と鋼志郎が思った瞬間、まもりはぐびぐびとその中身を豪快に飲み始める。ボトルの側面にはフツーの酒っぽいラベルが貼られていた。
「先生、飲料用日本酒を料理酒代わりにするなよ! ていうか大吟醸ラッパ飲みしながら料理すんのやめて!」
「バッカ、まだ半分しか飲んでねーから中吟醸だよ」
「なんですかそのイカレた認識!」
帰りスクーターのくせにマジかこの教育者……と慄く鋼志郎の隣で、詞音はダンボールを組み立てることも忘れて考え込んでいた。
意図せず父と似通った己の演奏。
まさかとは思うけど、末路まで似通ることはないだろうか。
父のように演奏を捨てて、それ以外の道を歩むことになるのだろうか。
……ありえない話じゃなかった。
音楽以外の何かを持っていない自分が演奏を捨てれば、きっと父のように演奏以外の形で音楽に寄り添わざるを得ないから。
この島を救えなければ、きっと父と同じ結末を迎える。
もしかしたら自分の子供も……そんな連鎖が続くのかもしれない。
……残り後三日、それできっと、未来は決まる。




