19章 漆黒の楽譜
その言葉に、まもりは同調するように頷く。
その隣にいる海司は、詞音の言葉を聞いてやっぱりとでもいうように軽く笑った。
……いや、笑おうとして笑えていなかった。
一笑に伏せるような規模の問題ではないのだから。
「長野、あなたと琴浦はDDTっていうロックバンドに傾倒しているのよね?」
「ずーっと昔からねぇ。そもそも俺がガキの時にコーシロにCD貸したのが仲良くなるキッカケだったんだ、ガッコの面々よりもDDTとの方が付き合いは深いんじゃないかなぁ」
「で、そんなあなたに聞くけれど、DDTの特徴は?」
通常、ロックミュージックはギターをメインにしたジャンルだ。
そこにドラムセットやシンセサイザー、ベース、ピアノ、キーボード、オルガンなどが足されて構成されていく。
「……DDTの最も大きな特徴は、世にも珍しいグランドピアノがメインのロックバンドってとこだねぇ。しかもロックなのにメインのピアノはジャズ奏法だ、何もかもがちぐはぐの超異端バンドってとこかなぁ」
「そう。琴浦はそれに影響され過ぎている」
鋼志郎にはピアノの師がいない、全て独学で学んでいる。
そんな彼が最初に知った音楽はDDTだ。
ピアノ、及びクラシックとの出会いは彼の音楽感性がロックに染まった後になる。
……昨日、鋼志郎に対して詞音は様々なことを言った。
例えばメリハリがメリ一辺倒だと。
でもそれはDDTが四人で構成されたバンドであり、他の楽器で調整を図っていたからだ。
他にもジャズのようにテンポが飛んだり跳ねたりするとも言っていた、だがそれはDDTのピアノがジャズ風味だったから。
「はっきり言って……琴浦は演奏会に向いていない」
ジャズバーやジャズクラブでグループを組んで演奏するならば大いに歓迎される演奏だろう。
……しかし今回は演奏会、ジャズによる過激なアレンジは毒となる。
ましてやアレンジをした上でメリハリのない演奏なのだ、素人が聞いても何の感動も覚えやしないだろう。
「……やはり、かぁ」
海司が独り言ちる。
鋼志郎の演奏を聞いたことのない彼だが、DDTの影響を受けている可能性は想定できていた。
だからCDを学校に置き、その可能性を警告したのだ。
「でも、それをアタシに伝えたのは功を成したな」
まもりが懐から取り出したのは、もう一つの楽譜だった。
昨日――詞音がまもりにメールで伝えた内容は、鋼志郎がDDTというバンドの影響を受けてメリハリがなく、ジャズ奏法になっていることだった。
だからその上で一つ依頼をした――。
「お望み通り作ってもらったぜェ。琴浦の奏法を考慮した楽譜を」
しかし、まもりの掲げる楽譜には、奏一の字で『高難易度』と書かれている。
わざわざ忠告書きするくらいなのだから、相当のものなのだろう。
その楽譜を受け取って、詞音が中身を改める。
その隣から海司も覗き込んで中身を確認する。
二人の目は、ゆっくりと見開かれる……。
「……ハハ、なにこれ、人を辞めないと弾けっこないじゃん……」
海司の口から漏れるのは、乾いた侘しい笑い声。
虚勢と呼ぶに相応しい力すら全く籠っていなかった。
「こんな、こんな楽譜を、……父さんが……?」
その楽譜は、……ドス黒かった。
五線譜の上に並んだ音符はあまりにも過密、きっと白い部分より黒い部分の方が多いに違いない。
それに、楽譜に刻まれた演奏記号も桁違いに多い。
こんなのプロでも弾けっこない、両手両足の指を使っても足りやしない。
きっと奏者が六人くらいいればようやく形になるレベルだろう。
……その楽譜の意図に気付けたのは詞音だけだった。
音符を眺めれば父親の感情が透けて見えるかのよう、これは父親からの遠回しな警告だ。
「…………」
漆黒の楽譜を握ったまま、詞音は俯いてしまう。
海司は鞄を握り、肩にかけて歩き出す。
……この場を立ち去ろうとしているのだ。
「闇倉ぁ、一つだけ聞いとくぞ」
「……」
「当日、どっちの楽譜を使うんだ」
詞音は……答えない。
永い、とてつもなく永い逡巡が彼女の中に渦巻いている。
「……俺は素人だからよぉ、お前たちの決断に口出す気はないね。でもお前たちに人の心を変えられるような演奏ができるならば、こっちでも色々やりようはあるわな」
海司の言葉に反応したのはまもりだった。
昨晩奏一が口にした、『音楽には人の心を変える力などない』という言葉が想起されている。
奏一はそんなことできないと決めつけている。
彼がそう断定した現実に、二人は立ち向かわなければならない……。
「演奏については預けた。俺は俺で色々やってみっから……当日、あいつに聞くに堪えない演奏させんじゃねーぞ。六年前のお前みたいに、あいつが塞ぎ込む様は見たかねーからなぁ」
そして扉を閉めて、海司はどこかへ向かって消えていった。
しばらく詞音の傍についていたまもりも、やがて腰を上げて歩き出す。
最後に一言だけ、言葉を残して。
「……最善を尽くせ。結果がどうであれ、悔いの残らない選択をしろ」
……そして、詞音は一人になる。
漆黒の楽譜を強く握りしめて、その手を震わせて、考えて考えて考える。
何が正解なのか、何が解決案なのか、何が妙手なのか。
でも――現実と照らし合わせて――鑑みて――予測する。
詞音は、顔を上げた。
それは決意を灯した面持ちではない。
まだ煮え切らず、曖昧に歪んだ表情だ。
「…………」
彼女は楽譜を自分の鞄にしまい込み、教室を出る。
そして階段を上がり、倉庫へと向かう。
倉庫の中からはピアノの音が響いていた。
まだまだ拙い、右手でメロディを掴むだけの段階。
この中で鋼志郎は抗っている、この島を救う為に努力をしている……。
……詞音は扉を開けて、開口一番言い放った。
「琴浦、その楽譜を完璧に仕上げなさい。……その楽譜のことだけを考えてなさい」
突然そんなことを言われ、鋼志郎は首を捻る。
その楽譜と言われても他に楽譜などないのだが、と言わんばかりの表情だ。
鋼志郎は知らなくてもいい、もう一つの楽譜のことなんて分からなくていいのだ。
それは詞音が決めたことなのだから、詞音の決断なのだから。
「……琴浦」
「なに?」
「がんばって」
たまげる鋼志郎に対して、詞音は目を合わせない。
ただ窓から外を見つめていた。
そこに広がる青々とした世界、太陽光が水面に反射し赫々たる光を放つ。
木々の合間から僅かに見える幾つかの民家、だが闇倉家をこの場所から見ることは叶わない。
それでも彼女は自宅の――父親のいる場所を注視した。
島の未来は真っ暗だ、詞音の未来も真っ暗だ。
それでも抗った、詞音たちは抗い続けていた。
まだ終わっていない。
終わらせてたまるものか。
(大丈夫……まだ、四日もある……)
私の音楽人生を、終わらせない。
私――たちの音楽人生を、終わらせない。
強く、そう願った。




