17章 大人の姦計
紫煙燻る密室内……闇倉家のリビングには二人の人物がいた。
一人は家主、闇倉奏一。
そしてテーブルを挟んで真正面に座っているのは成田まもりだった。
和やかな雰囲気など一切ない、宿敵同士かのように鋭い視線が交差している。
「闇倉サンよォ、そういうわけだから楽譜くれませんかねェ」
切り出したのはまもりだった。
頼みごとをしている立場だが下手に出る腹積もりは一切なく、余裕を保ったままそう問いかけている。
対する奏一も全く余裕そうな表情、こちらは何一つ弱みなどないのだから当たり前のことだが。
「……お前たちがしようとしていることは理解した。だが俺が楽譜を作って提供する所以がどこにある? ネット上の楽譜でも何でも使えばいいだろう、敵を頼るな」
「そうケチ臭いこと言いなさんな。それだと不完全なんだよ、アンタにゃ分かんだろ?」
「成田教員、貴女の考えには同調しよう。琴浦鋼志郎は絶対に失敗する。……だが、それはこちらにとって好都合極まりない。わざわざ成功するよう手を引くのは不都合だ、俺はこのまま静観させてもらおう」
「それでアンタが満足するならそれでも構わんがね」
奏一が目を眇める。
……まもりの魂胆を見抜こうとするように。
「アンタの目的の一つは、詞音から音楽を奪うことだろ。だがなァ……このまま歪な状態で演奏会を行っても、結局不完全燃焼だ。あいつは音楽を捨てきれず、本土に行ってもズルズルと音楽を摘まみ続け、結局叶わない夢を追う一生になる」
「……親に似た馬鹿な娘だからな」
「それで構わないならこの件は白紙に戻す。だが一教師としてアイツを見てきたアタシから断言すると、強硬手段を用いて音楽の道を潰しても真っ当にゃ生きられねェだろうな」
「…………」
「アイツを変えてぇんなら、今度こそ全力で叩き潰す他ない。心をヘシ折ってアンタの考えを教え込むしかねェんだ。アンタも同じだろ、生半可に心を折られたせいでヴァイオリンの道は捨てたが、結局作曲家という音楽の道に進まざるを得なかったじゃねえか」
「……『音楽には人の心を変える力などない』、か」
何かを述懐するかのように、奏一が目を伏せた。
音楽は道楽だ、個人が嗜む稚拙な嗜好でしかない。
……それが奏一の持つ、音楽への解釈だった。
だから音楽家になろうと志す者は、全てが全て夢幻を追う無謀者でしかない……。
「それにィ、アンタが実の娘を追い出したって公言してもいいんだぜェ。そうなりゃネグレクト扱いでアンタは失墜、商工会の乗っ取りなんざ夢のまた夢だ」
当然の如くまもりは詞音が今どこで何をしているか知っているが、助けることができない立場にいた。
実家暮らしの彼女は詞音を匿うことなどできないし、誰かの生徒の家に預けると噂が広がって大事になる。
結局一番監視しやすい校舎にいさせることしかできないのだが、その現状を活用して攻め込んでいく。
「自発的に家出した証拠は押さえてある。友人の家に泊まっているという本人からの連絡もな。こちらはむしろ諦めて帰って来いと言っている立場だ、取沙汰されることはないだろう」
「寛容なこの島の範疇であればなァ。本土側に連絡行きゃ一発アウトだぜ」
二人揃って煙草の煙を吐き出す。
部屋の中に煙が溜まれば溜まるほど、息苦しく、重苦しい空間になっていく。
閉塞した密室内に乾いた沈黙が流れ、お互い肚の底を探り合うように視線を通わせていた。
そんな空気を壊したのは、扉を開けて入ってきた一人の女性だった。
「……奏ちゃん、折れてあげたらどう?」
奏一と同じくらいの年代の女性。
……この田舎っぽい島には似つかわしくないような貴婦人らしい印象。
でも彼女はこの島で産まれ、奏一と共に育った島民だった。
闇倉奏一の幼馴染にして妻。
二人分のお茶を盆に乗せた彼女は、子供を諭すような柔らかい口調で言う。
「あの子が家から飛び出るまで追い詰めたのは紛れもない我々なんだから、無下にできないでしょ? それにこのままじゃ巻き込まれた琴浦君に忍びない。……はい、お茶」
「……む。すまんな」
目の前に置かれたお茶を奏一はすぐ飲み下す。
煙を洗い流すかのようなその勢いを見て、煙草を吸い慣れていないのではないかとまもりは推測した。
吸い慣れていない煙草の吸引。
……奏一も現状にストレスを感じているのだろうか。
「……巻き込まれたというよりは、自ら渦中に突っ込んできたと言うべきだろうがな」
「でも、これからの未来にはそういう子供が必要なんでしょう? ……それに、昔の奏ちゃんもそんな感じだった気がするもの」
「…………」
眉間に手を当て、何かを熟考する奏一。
その瞼の裏にはどんな情景が映っているのだろうか。
この島の未来?
六年前の一件?
ヴァイオリンの道を諦めたあの日?
それとも……。
かつて自分が通ってきた絶望の道を、実の娘が歩くことになる情景……?
「……一つ条件がある」
目を開き、まもりをしっかりと見据えながらそう言った。
まもりの口角が少し上がる。
「琴浦には聞くに堪えうる演奏をさせろ。下手相手に楽譜を書くつもりはない、やるならば全力を出させろ」
「あァ、元よりそのつもりだ」
まあ、それはアンタの娘の指導力にもよるがな――と、まもりは内心舌を出す。
「……では話は以上だ。これより楽譜作成に入る、今日のところは引き取れ」
「あー、最後に一点、楽譜に注文付けたいんだけどよォ」
今丁度詞音から来たメールを見ながら、まもりがそう言った。
何かあった時の為に物資にアドレスを書いたメモを挟んでおいたのだが、まさかこんなすぐに連絡が来るとは思わなかった。
そして、あんな内容のメールが来るだなんて思うはずもなかった……。
「アンタ、DDTって知ってっか?」




