15章 胸襟を開いて
「……頭、冷やそ」
どれだけ苦悶に苛まれていたのだろうか。
気づけば、鋼志郎が去ってからもう一時間が経過していた。
父親からの言葉を思い出す度、頭痛はぶり返す。
……思い出しても得などありはしない。
それでも脳内を過ぎる尖鋭な言葉を掻き消すように、彼女は頭を振った。
そして着替えと物陰にこっそり干していたタオルを手にして、倉庫を後にする。
しばらく歩いて昇降口を出て、校舎裏へと歩いて行く。
そこには静かに水面を揺らすプールがあった。
虚空に鎮座する月が写り込んで、波の揺らぎによってその形を蠢かせている。
昼間は天道様を写して青々と輝いているのに、夜になれば水は全て純黒。
月を内包して蠱惑的に、そしてどこか物恐ろしく揺らぐばかりだ。
プールの脇には更衣室とシャワーがある。
……お湯など出ないが、身を清める手段はこのシャワーしかない。
今が夏であることに感謝をしながら、水で汗を洗い流す他なかった。
闇に覆い隠されながら服を脱いでいく。
人など来るはずもないから別にどっちだって問題はないのだろうが、式鳴島の夜が闇深くて助かっていた。
さすがに煌々とした自然光を浴びながら、屋外で素っ裸になるのは忍びなさ過ぎて困る。
冷たいシャワーが詞音の体に降り注ぐ。
本当は暖かい水が降り注げば越したことはないが、例え暖かくなくてもリラックスできる唯一の時間だ。
詞音は先程まで浮かべていた沈痛な表情を少しだけ和らげる。
「……これで、シャワーとボディソープでもあれば言うことなしなんだけど」
「じゃ、使う?」
横から伸びてきた手には、シャンプー、リンス、ボディソープが握られていた。
ボトル単位ではなく詰め替え用をそのまま持ってきたらしい、全て未開封の状態だった。
「どうも」
詞音はひょいとその三種を受け取り、顔を近づけて銘柄を確認してみた。
小さく顔を顰めたのは、そのシャンプーが自分の髪質に合っていなくて、翌日髪がギシギシすることを知っているからに違いない。
でも、知っているからに違いない、と冷静になっている場合でもなくて。
「……ん? ……えっ」
ぎゃーーーーーーー……と、鬱蒼とした学校周辺に甲高い声が響いた。
普段の人格と真逆の叫びが詞音の発したものだと、遠くから聞いて気づくものなどいないだろう。
唯一気づいたのは、隣に立っていた人物だけ。
「どうした! 変態でも表れたか!」
「お前! 変態はお前!」
詞音がブン投げつけたリンスの袋がその人物の顔面にクリティカルヒットした。
多分、ボトル単位で持ってきていたら前歯全部持っていかれていたレベルの勢いだ。
「なんで……なんで琴浦がここにっ」
脇にかけてあったタオルで全身を覆い隠し、残ったシャンプーとボディソープも剛腕投手のオーバースロー並みの勢いでブン投げる。
しかし小癪にも今度はキャッチされてしまった。
せっかく渡した洗面用具を突っ返されてしまった鋼志郎は意外そうな表情――いや、闇が覆い隠して詞音には表情なんて判別できなかったが。
「なんでって、物資を渡しに来たんだけど。え、もしかしてボディソープじゃなくて石鹸派?」
「そういう問題じゃ……なくてっ! なんでこんなところにっ。なんでこんな時間にっ。しかもなんでシャワー浴びてる最中にっ!」
冷静さがウリの詞音もさすがに対応しかねるようで、ぐるぐるお目めで混乱しながら当然の疑問をぶつけまくる。
「闇倉がガッコに寝泊まりしてるのは薄々分かってたからなあ。色々入用だと思って持ってきたんだけど校内にいないし、なんか校舎裏で音するし……って思ってこっち来たら、洗面用具欲しそうにしてたからとりあえず渡したんだが?」
「もっとこう……遠くから投げてよこすとか……その前に声をかけるとか……なんかあるでしょ……!」
「バカめ、シャワーの音が聞こえた時点で相当オギオギしていた俺にそんな冷静な判断能力などあるはずもない!」
などと胸を張って言っているが、詞音からすればたまったものじゃない。
なんだかまだ文句を言いたげな詞音に向かって、鋼志郎がシャンプー等を投げ渡した。
「とりあえずそれ使えば。俺はこっちでちゃぷちゃぷ遊んでるから」
水の張ったプールに足を浸し、鋼志郎は夜空を眺めた。
月に纏いし星々は珠玉の如き灯で、永遠に瞬き続けているように思える。
でも、子供の頃から変わらない星空だと思っていたけれど、きっと知らない内に数々の星が消滅しているはずだ。
人知れず式鳴島が消えかけているのと同じように、きっと空も変わり続けている。
「……でもまさか、闇倉があんな女子みたいな声上げるとはな。第二次成長でも来たか?」
「曲がりなりにも女なんだから、驚いたらあんな声くらい出るでしょうが……こっち女なんだからあんまりデリカシー無いこと言うな」
鋼志郎は先程の詞音の様子を反芻する。
まるで年頃の女の子みたいな狼狽と叫声、そんなものが今の詞音から飛び出してくるとは思わなかった。
子供らしさも女らしさも、かつての詞音が持っていた性格を全て捨てきったような面持ちだが、きっと捨てたんじゃない。
心の奥底にしまい込んでいるだけなのだろう。
関わり続ければ、隠されたあの頃の詞音がひょっこり出てくるかもしれない。
「……それで、なんでわかったの」
不満げな声が詞音側から聞こえてくる。
主語はないが、何を言いたいかは伝わった。
「朝からお前の様子が変だって海司に相談してみたら、学校の中でも調べてみたらって言われたんだ。そうしたら校内倉庫にタオルが干してあったから、多分学校に寝泊まりしてるんだろうなってアタリをつけただけ」
「……そう」
「正直半信半疑だったけどな。……いるだろうって確信したんじゃなくて、いたらきっと困ってるだろうなって思って確認しに来ただけだ。杞憂だったら一番良かったんだけどな……」
……詞音が学校にいると気付いたのには、もう一つ理由がある。
自分がかつて内向的だった頃、親と喧嘩をするたびに学校まで家出していたからだ。
その時は心配した海司が学校まで来てくれて、親に叱られるまで一緒にいてくれた。
夜の学校に独りぼっちでいるのがまだ怖かった頃だから、とても心強かったのを鋼志郎は今でも憶えている。
(ああ、だから海司は気づいたのか。今の詞音があの頃の俺と一緒だから、学校にいるって察することができたんだな……)
あの時海司は、何があったのか親身に聞いてくれて……誰も来ない場所に二人でいたからこそ、吐き出せることもたくさんあった気がする……。
「……それで……何があったんだ?」
まるで愛い孫に語り掛けるように、鋼志郎は優しい声で問いかける。
詞音は手櫛で髪を梳かしながら、一瞬だけ唇を強張らせた。
それは誤魔化しの言葉を言おうとした証、でも直前で踏みとどまる。
学校に寝泊まりしていることがバレているのだから、今更誤魔化しようなんてない?
それとも鋼志郎に嘘をついても深く追究されて余計困ることになりそうだから?
そのどちらでもなかった。
詞音が胸中に浮かべる言葉は、さっき鋼志郎が放ったもの。
『いたらきっと困ってるだろうなって思って確認しに来ただけだ』
少しだけ、自分の中の何かが氷解するのを感じていた。
「……昨日……あの後、父親と喧嘩になって……」
ぽつりぽつりと、言葉を覚えたての幼児が話すかのように、詞音は言葉を拙く紡ぎ始める。
鋼志郎は言葉を挟まず、優しい相槌を打ちながら聞きに徹していた。
彼女が言葉に詰まった時は焦らないように黙りこくる、そして辛抱強く言葉の続きを待つ。
全てを語り終えるには、詞音が髪と体を洗い終えるまでの時間を要した。
永い時はかかれども、鋼志郎は彼女の言葉を全て聞き終える。
「……そんなことがあったのか」
言いたいことは山ほどあった。
実の娘にそんなこと言う父親についての文句とか、詞音を慰めるような言葉とか。
……でも、きっと、全部詞音は望まない言葉なのだろう。
同調も慰問も共感も、今の彼女には届かない。
六年前のことを知らなくて、詞音と父親の関係も知らなくて、……そんな自分がかける言葉なんて、薄っぺらいものになると分かっていた。
だから、こう呟く。
「……学校のシャワーな、切り替えに時間かかるけど、温水にすることできるんだよ。昔プールで巨大カップ焼きそば作ろうとした時に知ったんだ」
「……」
「後でやり方教えるから。……明日から暖かいシャワー浴びてくれよな」
「……うん」
同調も慰問も共感も、鋼志郎から発されなくてよかったと詞音は胸を撫で下ろす。
今そんな言葉をかけられたら、きっと、糾弾してしまうから。
六年前の出来事を、……自覚のない彼に、あたってしまうだろうから……。




