14章 孤独の校舎
……夕日が水平線に沈み、闇の緞帳が島の景観を塗り潰す。
気づけば時計は八時を指し示し、放課後帰らずにいられるリミットに達しようとしていた。
さすがにこれ以上居残ると親から不審がられてしまうだろう。
ピアノ疲れを解すように肩を回して、鋼志郎は一息ついた。
「それじゃ……俺はそろそろ帰るかな。今日は付き合ってもらってありがとな」
「……えぇ」
詞音は目を伏せたまま曖昧に頷く。
心ここにあらずというか、別の問題について考えこんでいるかのような表情。
……何に悩んでいるかが分からないほど、鈍感な鋼志郎ではない。
演奏中ずっと考えていた、詞音に対して上手い口実がないものかと。
しかし適切な答えなど見つからなかった。
だからこれ以上言葉をかけることなんてできない。
まるで詞音からの言葉を待つようにゆっくりと鞄を背負って、一度彼女の方に振り返る。
それでも言葉は交わされなくて、名残惜しそうな声で鋼志郎が呟いた。
「じゃあ。……また、明日」
「ええ、また明日」
後ろ髪を引かれるように――鋼志郎は教室を出て行った。
扉が閉じ切って、遠ざかっていく足音が薄らいでいき――気づけば純然たる静寂が校舎を包んでいた。
人の気配など微塵もない、詞音の一挙一動だけが今この世界にある人の存在表明だ。
日中はあれほど生徒たちが騒がしいのに、夜になれば死に絶えたかのように静けさが包んでいる。
……その緩急激しい相違に最初は戸惑ったものの、何年間も夜な夜な学校に通い続けている内に慣れているつもりだった。
……でも昨日、家を飛び出してこの学校で寝泊りを始めてから、今まで気にならなかった閑寂が浮き彫りになっていた。
その原因は、まだ分からない。
「……」
詞音は倉庫の奥から大きめの、登山の際に使うようなバックパックを取り出した。
その中に詰まっているのは様々な生活用品、寝袋に缶詰めに幾つかの着替え。
一晩寝泊りするだけなら必要十分量はあるだろうが、これから一週間ずっと続くことを考えると心許ない量だった。
(……今の私にはもう、帰る場所なんてないんだ……)
昨日。
帰宅した後に父親と大喧嘩をした彼女は家を飛び出してきた。
家族以外の繋がりを捨てていた彼女に、自分を泊めてくれる相手なんて思いつくはずもない。
だから、こうして学校で隠れるようにして生活をするしかなかった。
飛び出してきた理由は――いくつかある。
父親に反旗を翻した娘が、同じ屋根の下平然と過ごせるわけがないこと。
今はお互い顔を見合わせれば一触即発になるということ。
そして、父親の本音を知ったこと。
ずっとヴァイオリンを止めさせたがっているのは知っていた。
そして自分がそれを拒絶して、一人で演奏し続けていることも知られていた。
何度だって止められたけど、その制止を振り切って学校に忍び込んできた――。
でも昨晩、はっきりと言われた。
……その時の情景は嫌でも思い出せる。
『お前を音楽の道に進ませる気はない』
それは詞音にとって、この上なく酷な宣告だった。
『音楽など捨てろ、あんなものは見せかけだけ絢爛豪華な茨の道に過ぎない。あんなものに追い縋るなど、人生を棒に捨てるにも等しいだろう』
――そんなこと、できるわけがない。
だって詞音は全てを捨てて音楽の道を選んだのだから。
友も捨てた、笑顔も捨てた、何もかもを犠牲にした。
そうして手に入れたのが今の演奏技術だ、全ての邪念を捨てることで彼女は卓越した技量を手に入れたのだ。
もしも音楽を捨てるならば、もう、詞音には何も残らない。
もう、彼女には音楽しか残っていない。
『……音楽しかない? バカを言うな、音楽すらお前にはないだろう』
奏一の声が激しい耳鳴りと共に響き渡る。
声を阻害する雑音は何もない、恐怖すら感じさせるほどの静寂が校舎を包んでいるのだから。
『人前で演奏ができない半端者が、よく音楽の道に進みたいと言えたものだ』
その言葉を聞いた時――詞音は全ての言葉を失った。
反論も言い訳も、激昂すらできなくなる。
口を開くことさえも、言葉を思い浮かべることさえもできやしない。
あの時もそう。
今思い返してもそう。
詞音は、零れかける涙を堪えることしかできない。
『お前がそんな世迷言を言い続けるならば、……俺はお前の親でいるつもりはない。親子の縁を切って一人で生きていけ。今すぐにだ』
――だから、詞音は家を出るしかなかった。
音楽の道を捨てることなんてできない、それは自分の持つ唯一の存在理由を捨てることだから。
音楽の道に進むことなんてできない、六年前から自分は人前で演奏なんかできないのだから。
でも、どちらも選べないからと言って、選択は免れない。
「私は、……どうしたらいいの……?」
胸中で呟くだけにしようとした言葉だったが、意図せず口から零れ落ちていた。
今だけ降服して、本土に行ったらこっそり音楽でもやっていく?
無理だろう、父親の圧力で潰されるに決まっている。
親が許さなければ音大にだって進めない、プロになるなんて夢のまた夢だ。
……音楽を続ける未来なんて、どこにもない。
……いや……そもそも、人前で演奏できないポンコツに、選ぶ資格などありはしないか……。
そう自嘲して、嘲笑おうとして、笑えなかった。
「……」
何度か携帯電話が震える。
……母親からの連絡が何通も入っていた。
母親は最後まで止めようとしていた。
父親との仲を取り持とうとしていた。
でも、お互いを受け入れられない二人に、どんな言葉も通じるはずがない。
だからせめてと言わんばかりに、詞音にバッグを持たせたのは母親だった。
本当はその身一つで家を飛び出そうとしていた彼女に、最低限の所持物を持たせたのだ。
それすらもなかったならば、今頃詞音はもっと侘しい思いをしていたに違いない。
母親からの連絡を見る。
……友達の家に泊まっているという嘘は通じているのかいないのか、その友達の両親に連絡と謝罪がしたい旨の連絡が来ていた。
本当は学校に寝泊まりしているんだよ、なんて言えるはずもない。
言えば今すぐ駆けつけてくるに違いない。
だから適当に誤魔化して連絡を返す。
大丈夫、後一週間だから。
一週間後、きっと家に帰れる。
きっと……音楽を奪われて、死に体となった自分が、そこにいるから。




