13章 バイエル
なんなら上手くなるついでに致命的な仲の悪さが改善するくらい仲良くなったりして――。
――なんて甘い考えも、開始五分で吹き飛んだわけだが。
「なんで何回言ってもジャズ風になるの? 入門書の楽譜にアレグロとかヴィヴァーチェとか書いてある? どんな風に弾くべきかはちゃんと記載してあるんだからその通り弾いて。テンポもちゃんと電子メトロノームに合わせること」
「ひぃ……ひぃ……」
「ひぃひぃ言わないの」
闇倉式音楽レッスンはスパルタ以外の何物でもなく、ちょっとでも楽譜と違う演奏をすれば即ペケが入る精密演奏系特訓だった。
先程から入門書を使って練習をしているが、どう頑張っても指摘が入り続けてしまう。
「……琴浦の欠点はね、夢中になるとジャズみたいに指が飛んだり跳ねたりして、メロディを好き勝手アレンジしてしまうこと。それとこの前演奏した時もそうだったけど、楽譜の指示を無視しすぎ。記載通りに鍵盤押せばいいやって思ってるかもしれないけど、然るべき弾き方をしなくちゃ楽譜が可哀想でしょ」
「いやそのー……ジャズ風味になるのは無意識なのでー……改善のしようがー……」
「無意識なんて意識すれば無意識じゃなくなるでしょ、落ち着いた演奏ができるように意識し続けなさい。落ち着いた演奏と派手な演奏が使い分けられればメリハリつけられるでしょ、琴浦のはもうハリハリ。JPOPなんて特にメリハリ必要なんだからもっとメリりなさい」
確かに鋼志郎の演奏は張り一本、映画で言えばずっとアクションシーンが続くような勢いだ。
緩急をつける為に落ち着きは要ると思うが、どうにも演奏するとテンションが上がって仕方ないのだ。
運転とかしたらトバすタイプなので仮免試験には十分気を付けるべきだろう。
「はい今のところスラーが滑らかじゃなかった、もう一回。ついでにセンツァが割と徒疎かだから常にタイミングを意識し続けること。分かった?」
「ううう……演奏というより正確さを競ってるみたい……」
「それでいいの。正確な演奏ができて三十点、演奏記号から作曲者の意図を理解して五十点、文献から当時の作者の心情を理解して八十点、演奏を通じてそれが伝えられて百点なんだから」
「国語のテストみたぁい……」
しかしさもありなんとも思う。
鋼志郎が昨日耳にした詞音の演奏は全て正確無比で、そのままCDに焼いて楽譜とセットで売れるほどお手本らしいものだった。
演奏技法と正確さだけで言えばもはやこの島で燻るべき演奏力ではないだろう。
一方の鋼志郎は完全我流で楽しければオッケーのカジュアルプレイヤー、精密さよりもその場のノリを優先するタイプだ。
二人の演奏方針は真逆と言える。
……それからもしばらく、弾いてはやり直しが続いた。
練習量がものを言う入門書故に、地道なトライアンドエラーは飽きるほど繰り返される。
むしろ飽きた。
飽きたから、鋼志郎はピアノを弾きつつ詞音に問う。
「あのさ闇倉―、一つ聞きたいことがあるんだけど」
「なに、手短にね」
「昨晩何かあったのか?」
当たり障りのないことを問うかのような口調だが、その視線はしっかりと詞音の顔に注がれている。
僅かな動揺をも汲み取ろうとするかのように。
そしてその狼狽は確かにあった。
今の今まで全く平静を保っていた詞音が、一瞬だけ言葉に詰まるような表情をしていたのだ。
だから鋼志郎は悟る。
彼女の微細な違和感が、心做しではないのだと。
「……なに、突然」
「泣いた跡残したりとか整わない髪で学校来て、何も違和感持たれないほうがおかしいだろ。……なにがあったのか分かんないけど、悩みがあるなら俺で良ければ聞くぞ」
「…………」
詞音は、……しばらく、言葉を発さなかった。
海司にバレていたのだ、鋼志郎にもバレているのだろう。
泣いた事実も寝床を失ったことも、隠しきれない昨晩の証左なのだから。
「……別に、昨日家に帰った後に父親と普通に喧嘩して子供らしく泣いただけ。それで朝寝坊してセットできなかっただけ。心配することじゃないでしょ、昨晩あんな啖呵切れば家がギスギスするのも当然だし」
「そりゃそうなるだろうけど……昨日ああも威勢よく父親に食ってかかれた奴が、普通に父親と喧嘩しただけで泣くものかな。そこはかとなく違和感があるんだけど……」
そう言う鋼志郎の語気はどんどん弱くなっていた。
違和感はあれど確証なんてない。
だからあまり強く追及することもできない。
それでも話の取っ掛かりを提示したのは、詞音が助けを乞うことを期待したから。
でも彼女はあっけなく首を横に振って、淡々とした表情を浮かべている。
「…………私は大丈夫だから」
そんなことを言われてしまっては、鋼志郎だって何も言えなくなってしまう。
……弱みなんか見せられないのだろう。
相手は本来宿敵なはずの鋼志郎なのだから。
でもそんな虚勢を張っても、今夜から直面するであろう問題は解消されないのだが。
「…………」
「…………そこ、スタッカートが弱い」
その後はどうにも言葉少なく、物静かなレッスンが続いていった。




