10章 肚の探り合い
「おー鋼志郎、はよっすー」
翌朝。
鋼志郎が教室に立ち入るなり、粋のいい挨拶が幾重にも重なる。
「ようみんな。今日も今日とてピースフルなようで何よりだ、いっぺんその元気を海司辺りに分け与えてあげてほしい」
クラスメートたちに挨拶を返す鋼志郎と、彼に肩を貸されつつリビングデッドみたいな形相をしている海司。
基本的に低血圧な海司は朝に弱く、結構な頻度でこうして都市伝説になりそうな顔で登校するハメになる。
「コーシロぉ、もうここでヘーキだから。サンキュなー」
まだ青白い顔をしている海司だが、さすがにクラスメートの前で肩を貸され続けるのは沽券にかかわるのか、一人でふらふらと自席へ向かっていく。
その途中何度か壁に激突して出産する牛のような声を上げていたが何とか席に辿り着いていた。
クラスメートたちが鋼志郎を囲み、何かを話しかけている。
そのテンションはもはや修学旅行の一日目並、溢れんばかりの若さは倦怠的な島暮らしの子供でさえも活発にしてしまう。
そんな彼らの様子を、言葉もなく詞音は見ていた。
その瞳からは何の感情も読み取れない、光の無いくすんだ瞳にしか見えない。
「闇倉さぁー」
と、彼女に声をかけたのは海司であった。
詞音は数秒間を空けてから、ゆっくりと海司のほうに視線を寄越す。
海司は低血圧故に机へ突っ伏しながら、詞音のほうを見ずに言葉を続けた。
「お前ン父親、元気でやってるぅー?」
「……なんでそんなこと、アンタに訊かれなきゃならないの」
「んー? ま俺も別に知りたいワケじゃないけどぉー、なんかお前の父親が商工会乗っ取ろうとしてるって聞いたんだよねぇー。ほらウチの親父商工会の会長だからさぁ、失脚されると困るしさりげなくかつ大胆に探り入れっかなーってぇ」
耳が早いことこの上ないな、と詞音が目を眇める。
しかし探りを入れられたところで、自分の父親が企てた計画なんて知らないし、どんな改革なのか輪郭すら分かっていない。
「……それは真実だけど、これ以上言えることは何もない。私だってあの人が何を考えているか分からないもの」
「ふーん……」
そこでようやく海司が詞音に視線を向ける。
視線を向けるだけでは飽き足らず頭頂部から上履きの踵まで、もはや視姦と呼べるようなレベルで観察していた。
勿論詞音はこの上なく嫌そうな顔をして目潰しを試みる。
「セットされてない髪と少し汚れた服、それと寝不足のクマに涙の跡かぁ。なるほど闇倉からじゃこれ以上情報出てこなさそうだ。他当たるわ、情報提供おつ―」
げえ、と思わず詞音も声に出して反感の意を示してしまう。
多分……海司は悟っているのだろう。
昨夜学校で何があったか、そして闇倉家で何があったか。
商工会会長の倅という彼の立場を考えればさもありなんだ。
でも詞音は、何も知られていないかのように居丈高に肘をつく。
彼女が昨晩闇倉家を追い出された事実は弱みとなる。
しかしだからといってその弱みを突かれても動揺してはならないのだ。
それが彼女の処世術でもあり、六年前、一人で生きていくことを誓ってから定めた信条なのだから。
二人の視線がかち合い、見えない火花を散らす。
多分本物の火花が散っていたら二人とも全身大火傷を負っていたであろう程、二人の刺々しさは凄まじかった。
そんな心臓への負担が大きすぎるムードが広がっていく中、
「よー、お前らなに熱く視線通わせてんの? おませな関係なの?」
クラスメートたちから解き放たれた鋼志郎が、ポケットに手を突っ込みながら二人の元へ近づいてくる。
二人の険悪さに気づいていないのか、その表情は喜色満面、酒屋帰りのオッサンみたいな表情だ。
「……」
すっかり興を削がれた二人はいつもの表情に戻り、鋼志郎へ視線を向けた。
「いやぁー、コーシロの悪口をどっちが多く言えるかで競い合ってた」
「近年稀に見るベストバウトだったわ」
「何!? お前ら俺に不満があるの!?」
あるわボケ、と言いたげな顔をした詞音だが、運よく鋼志郎は海司のほうに視線を向けていたので気づかれなかった。
それに見ていた海司が薄く唇を歪めて笑ったが、それが詞音の神経を逆撫でする。
いよいよ本当に二人の熾烈な争いが始まりそうな空気になった瞬間、教室の扉が開いて先生が入り込んでくる。
「オラオラマリファナパーティーみてェに騒いでんじゃねーぞ席つけ小僧共ォ。出席はもう面倒くさいから諦めるとして、朝の連絡だけすんぞォー。耳と心傾けろー」
出席簿で肩を叩きつつ、気だるげそうな口調でまもり先生がそう言う。
「今日からしばらく校舎の耐震工事あっから放課後は速やかに帰ンだぞォ、ガッコに残ってたらお前ら永遠に人工透析が必要な体にしてやる」
教育委員会が聞いたら小躍りしながら教員免許を剥奪してきそうな脅しが聞こえた気もするが、実際耐震工事なんて全くの嘘八百だ。
むしろ嘘過ぎて八百どころか嘘千六百くらいだろう。
その意図を鋼志郎と詞音だけは汲み取っていた。
水と油の二人が仲良く楽器を弄っているのを生徒に目撃されたら騒ぎが大きくなるに違いない。
そうしたら興味津々の生徒たちが首を突っ込んできて練習時間が奪われるに決まっている。
「んじゃ授業始めんぞー。教科書忘れたやつは隣の奴に机くっつけてもらって見せてもらえー、あと誰かアタシの教卓の横に席くっ付けてくれ」
教科書忘れてんじゃん、と誰もが言いたくて、でも呑み込んだ。
一見恙なく授業が進んでいく。
でも誰も気づいていない変化が一つあった。
鋼志郎が教科書を盾にして、こっそり入門書を読んでいることだった。
膝の上で手を動かし、架空のピアノで鍛錬を積む。
無論実物が無いので気休め程度にしかならないが。
(時間がない……時間がないんだ……)
昨晩、一度は捨てた電子ピアノを回収して、海司に手伝いを要請して家まで持ち帰った。
親には盛大に文句を言われたが懸命な説得で何とか事なきを得て、久々に入門書を開いて夜分遅くまで練習をしていた。
そして理解した。
何年間ものブランクは、並大抵の努力で埋められるものではないと。
元々師を持たない我流の演奏だ。
人に聞かせられるよう最適化されているわけじゃない。
それをたった一週間でお披露目するのは、正直言って無謀以外の何物でもないだろう。
しかし、死にかけの島を救うなんて無茶には、それくらいの無理は必要不可欠。
今すべきことは文句を吐き散らすことではない、一秒でも多く指を動かすこと……。
「……」
そんな彼を、流し目で詞音が見つめている。
彼女の手には、教科書のカバーをかけたピアノの入門書が握られていた。




