第2話 おはよう
きぃ、ぎぃ、と定期的な音が鳴っている。
その音に誘われるように、長めの睫毛の合間からとろりとした瞳が顔をのぞかせた。ぼんやりと開いていた瞳孔がきゅっと収縮して、その上に揺らめく炎の光が映り込む。ぱちん、と薪の爆ぜる音がして、焚き火の枝の山が少しだけ沈み込むようにした。
「ようやくお目覚めか。よかったな、明日まで起きなきゃお兄ちゃんは諦めるところだったぜ」
炎が揺らめく瞳の上を、睫毛が二度、ゆっくりと往復する。縮まったままの瞳孔がゆるやかに動いて、焚き火の横に座った男の上で焦点を結んだ。男は手にした小さなハンドルのようなものを回し続けている。きぃきぃと鳴る音は、どうやらそこから聞こえてきてるようだった。
「せん、せ――」
「さてアンタ、手は動くか」
再び、長い睫毛がまだ微睡みを残した瞳の上を往復した。返事の代わりにゆるゆると両の手が持ち上がり、爪の間に土が入り込んでいる指が一度、二度と握られる。
「あ、の。おに、ちゃん、は――」
ひび割れた唇からこぼれ落ちた、嗄れた声に応えはなく、持ち上がったばかりの両手に釣り竿のリールのようなパーツが押し付けられた。
「回せ。2時間だ」
「……え、と」
「俺は寝る。手を止めたら"お兄ちゃん"は死ぬからな」
仰向けの腹の上に乗ったリールのハンドルを、汚れた手がぎこちない動きでゆっくりと押した。きぃ、と音が鳴る。痛みに耐えるように、眉間にかすかに皺が寄った。
がさがさとした音の後にすぐに聞こえ始めた寝息に合わせるように、きぃきぃと鳴る音がまた響き始めた。
* * *
耳障りなアラーム音が響く。まだ睡眠を切望する腕が、覚醒を促す音を止めようとふらふらと彷徨った。だが拡張脳が鳴らすその音は、脳の覚醒レベルが一定以上になるまで止める術はない。
諦めて身を起こすと、拡張視界上にタイマーの表示が曖昧に像を結んだ。
90分。濁った呼気を肺から押し出す。ゆっくりと息を吸うと、明け方の冷たい空気が身体を満たした。
いやいやと持ち上げた視線の先では、明けの空が白み始めていた。昨日と変わらず雲ひとつなさそうな快晴に、わずかに安堵する。
まだ墜落の残り香が色濃い空気の中には、環境音のようにきぃきぃとした音が鳴り続けていた。傍らの女は仰向けで寝転がったまま、手回し発電機を回し続けている。長い睫毛が色濃く掛かったままの瞳はまだぼんやりと虚ろで、どこに焦点を結んでいるかはわからなかった。
男はふいと女から視線をそらすと、両腕を持ち上げてぐうっと背中を伸ばした。
欠伸交じりに立ち上がり、ひしゃげた貨物コンテナに向かう。雑多に散らばっている箱を幾つか漁って、銀色の包装の細長い包みを引き出すと、雑に包装を剥いて灰褐色の塊に齧りついた。虚無を噛んでいるような味と食感を意識の外に追い出しながら、さらに箱をごそごそやる。
ウォーターパックをひとつ取り出し、少し考えてからもうひとつ取り出した。さらにハイカロリーペーストのチューブを一本掴み取ると、やる気のなさそうな足取りで焚き火の横へと戻る。
既に燠火になっているそれの横に水と食料を雑に投げ出すと、粘土のような携帯食料を咥えたまま女の横にしゃがみこんだ。軽く指先を拭ってから、無遠慮に着衣の裾をめくり上げる。
「止めんな。回しとけ」
短く息を呑んで身を竦ませた女がそれでも回し続けている手回し発電機の下に、めくり上げた布地を押し込みながら男は冷ややかに言い放つ。あらわになった痛々しい縫い痕を、朝の空気が冷たく撫でた。
荒れた指先が縫い痕をかすめて、その少し上の方を這う。ぐ、とそれが押し込まれたのと同時に、押し殺したような重い吐息が頭のほうから落ちてきた。
「痛むか」
「だ、だいじょう、ぶで」
「我慢できるかとかじゃねぇんだよ。痛みは」
「……あり、ま、す」
「10段階で言ったらどんくらい」
「…………なな、くらい」
大丈夫と言ったわりに強めの申告には特に反応しないまま、男は縫い痕の少し上のあたりから伸びた細い管に手を掛ける。ドレーンチューブを通る液体の量はかなり減っていて、色も悪くなかった。昼過ぎには抜けるか、とひとりごちる。
男はよし、と言ってめくり上げていた裾を乱暴に引き下ろした。再び漏れた押し殺したような呻きは無視して、あちこちが焦げて縮れた赤髪の波打つ頭の横へとウォーターパックを放る。
女は相変わらずぐるぐると腹の上の発電機を回しながら、力なく微笑んだ。
「せん、せ。ありがと、ございます。たすけて、いただいて」
やわらかな感謝の言葉に、男はものすごく嫌そうな顔をしてそっぽを向いた。少し光を取り戻してきたブルーグレイの瞳が、そんな男と手元の発電機を順番に見る。
「お兄、ちゃんの。ため、ですよね、これ。正直、に言うと……ここまで、してくださるとは、思ってなくて」
「……アンタ結構失礼なやつだな」
「ふふ……すみ、ません」
男は口元をへの字に曲げたまま、どさりと座り込んだ。はぁー……と、深い深い溜息をついてみせる。
「誰もが善意で手を差し伸べてると思ってんなら、大したお花畑だな。そんなんだから食い物にされんだよ」
無精髭でざらついた男の口の端がいびつに吊り上がるのを、ブルーグレイの瞳が不思議そうに見つめた。さらに小馬鹿にしたような視線を送って、男は肩をすくめる。
「あー、そうさな。回復にゃ気力ってやつが大事だ、アンタにひとついい話をしてやろう」
「いい……はなし」
「そうだ、聞いて驚けよ。お前の"お兄ちゃん"な、別にどっこも悪かねぇぞ。ただ18年間冷凍睡眠してるだけの、極めて健康体の少年だな。準備さえすればいつでも起こせる」
「…………え?」
きぃきぃと鳴り続けていた音がぴたりとやんだ。男は上り始めた太陽にちらりと目を向けてから、女の腹の上の手回し充電器を取り上げる。
「でも、お兄、ちゃん、びょうき、なおらないから、って、ポッドに」
「だぁーからぁー」
おろおろとした女の途切れ途切れの言葉は、嘲りの色が濃い声に遮られた。
「アンタ騙されてた、って言ってんの。惑星開拓機構のよくやる手口だよ。適当な病気でっち上げて冷凍睡眠ポッドに突っ込んだら、維持費代わりに家族を働かせんの。アンタ親はどうした? 働き過ぎで死んじまったか?」
「りょうしん、は。前の、開拓星で、事故で……」
「そいつぁ御愁傷様。選択肢のねぇ連中は、危険度の高い仕事に放り込まれるのが常だからな。ここだってそうだ。宙域危険度Aランク、こんなとこに来るのはバカか借金持ちか罪人くらいだぜ」
そう言って男は、自分の首に巻かれた強化繊維製の首輪に親指を向けて見せた。母船が粉々になった今となっては全く意味をなさない罪人の証は、忌々しいことにまだ外せていないままだ。
ブルーグレーの瞳に、かすかな嫌悪の色が灯る。
「ど、どうして、そんなこと。わかるん、ですか。せんせ、が、わたしを、だまして、るんじゃ」
その返しに、男は軽く片眉を上げてみせた。
「へぇ。人を疑う知能はお持ちだったか。大変結構だが相変わらず頭は悪いな。いいかね、密閉したポッドの中の"お兄ちゃん"は箱の中の猫だ。閉じたままなら幾らでも状態を騙せるが、開けちまえば何も騙せやしない。起こせるって言ってること自体が、俺が嘘をついてない証拠なんだよ」
「こんきょ、は」
「ポッドと拡張脳繋げば中身の状況なんてすぐに分かんだよ。お前みたいな貧乏人は拡張脳なんて無縁だろうから知らんかもだが」
「おるたな……かくちょう、のう」
「そうそう。よくオベンキョしてんな。まあ俺の言葉を信じるかどうかは、アンタの好きにすりゃいいわ」
男はウォーターパックに残っていた水を飲み干すと、傍らに投げ捨ててあったハイカロリーペーストのチューブを掴みながら立ち上がった。女に見せつけるような動きで、10歩程度歩いたところにあるポッドの上にチューブを置く。
「昼過ぎにはアンタにくっついてる全自動医療モジュールがドレーンを抜くはずだ。抜けたら起きて少し動け。"お兄ちゃん"のとこまでペーストを取りに来て、またそこに戻る程度でいい。まだかなり痛むだろうが持ち前のクソ度胸で乗り切れ」
「せんせ、は」
「俺は水を探しに行く。アンタの手術でかなり消費しちまったからな。正直猫の手も借りたいんでな、アンタはとにかくとっとと回復してくれるとありがたいね」
言いながら男は、ポッドの傍らに広げてある太陽光発電パネルシートをごそごそと調整した。
「"お兄ちゃん"の充電は今の天気が続くならソーラー頼りでも昼は保つ。昨日時点じゃぁ電力の収支がマイナスになるのはだいたい14時間だった。5時間くらい発電機回しときゃ夜は寝られるだろうな」
「起こせる、んじゃなかった、んですか」
「言ったろ、準備が要るんだ。冷凍睡眠から目覚めた直後は免疫が機能してねぇからな。免疫ゼロのヤツを土の上に寝かせるか?」
「…………いいえ」
女は一度目を伏せてから、ポッドの傍らに立つ男に静かな目線を向けた。
「ありがと、ございます、いろいろ、と。おきを、つけて」
男は再びひどく嫌そうな顔をしてから、くるりと踵を返した。不機嫌そうな足取りで遠ざかっていく後ろ姿を見送りながら、女のひび割れた唇がぽそりと呟く。
「……そっかぁ。おにいちゃん、おきれるんだ……」
次回の更新は5/22です。それではまた、次回。
☆冷凍睡眠技術
人体を凍結保存し現状維持しておく技術。
星系間航行などの長期移動や、治療法が見つかっていない場合や経済的理由などで怪我・病気の治療が困難な場合、時代を跨ぎたい場合などに用いられる。
凍結時には血液を特殊な不凍人工体液に入れ替える必要があり、解凍時には免疫システムが一時的に全ダウン状態となる。代謝により徐々に自前の血液に戻すことで免疫系を回復させる。
電源さえ生きていればかなりの長期凍結が可能で、辺境惑星等では自己修復機能を備えた核融合炉と共に数千年スパンで凍結されている個体が発見されることもある。




