第10話 あいつなら出ていった
朝の光が、すっかり火の消えた焚火の跡を柔らかに照らし出している。
んぅ、とどこか間の抜けた声を上げながら、ルトリシアがもぞりと身じろぎした。それに応えるように建てかけの小屋の屋根に止まった小鳥がちち、と鳴いたが、続けて鳴ったざり、と土を踏む音に驚いたように飛び去っていく。
むくりと起き上がって、ルトリシアは軽く曲げた人差し指の横で目を擦った。その上からハロルドの声が降ってくる。
「おう、おはよ。起きたかよ」
茜色の睫毛の下で、ブルーグレーの目が一度、二度と瞬いた。すっかり目が覚めた様子で、まじまじと目の前に立ったハロルドを見上げる。
「先生が朝の挨拶を……!?」
「……失礼なやつだな。俺だっておはようくらい言う」
鼻白んだ様子でそう返すハロルドの髪はしっとりと湿っていて、こめかみから伸びた毛束の先からぽたりと雫がひとつ落ちた。どうやら朝から水浴びでもしてきたところらしい。
それを見ながら立ち上がろうとしたルトリシアは、頭を押さえて低くうめいた。
「うっ……頭痛い……」
「飲んだ事もねぇクセに、あんな強い酒呷りゃそうなるわな。ほら、診せてみろ」
「うう……すみません……」
ハロルドはしょもしょもとした様子のルトリシアの前にしゃがみ込んで、手首を取った。脈を見て、目を見て、口の中を見る。ふっ、と薄い笑みを口元に刷いた。
「ハイハイ、ただの二日酔い。水たくさん飲めホラ」
ハロルドは立ち上がると、無造作な動きでウォーターパックをひとつ投げて寄越す。ルトリシアはそれを受け取ってこくこくと喉を鳴らすと、ぷはっと息を吐いてきょろきょろと辺りを見回した。
「あれ、リズさんは……」
「……ああ。リズな。あいつなら出ていった」
ブルーグレーの瞳がぱちりと瞬いて、ハロルドを見る。半開きの唇から、間抜けな声が漏れた。
「――――え?」
「昨日あの後な、壊滅したっつーアイツの集落の生き残りから連絡があってな。なんでも恋人が生きてたとかなんとかで。ロクに荷物も持たずにすっ飛んでったわ。お元気で、だってよ」
ぺらぺらと饒舌に喋るハロルドを、ルトリシアはぽかんとした顔で見上げた。手の中のウォーターパックが、ふにゃりと変形している。
「……生き、残り」
まだ水で濡れて光っている唇が、やわやわと言葉を紡いだ。ハロルドはいつもの調子で肩をすくめる。そのジェスチャを見たルトリシアは、一瞬くしゃっと表情を歪めてから、拗ねたように唇を尖らせた。
「何で起こしてくれなかったんですか。私も――お別れくらい、言いたかったのに」
「いや起こしたよ? 言っとくがぜんっぜん起きなかったのアンタだぜ。結構すげぇ音とかしてたけど、アンタぐっすりだったからな? ったく、酔い潰れるまで飲みやがってよ」
嘘だった。すごい音――銃声が何発も響いた事以外は何一つ真実ではない言葉を、ハロルドの口は平然と吐き出す。そういう事ができる男だった。
リズの血が染み込んだ地面は、朝露でしっとりと濡れて静かに広がり何も語らない。いずれ白い花の蕾をつけるであろう若い緑の芽がいくつか頭をもたげているが、瘴気の濃いこの土地ではそれは特段珍しい光景ではなかった。だからハロルドがそう言えば、この話はそういう事になった。
どっちに向かったんですか、と問われてハロルドは小さく顎をしゃくった。建てかけの小屋と、ひしゃげた墜落船の反対側。視線の先に集落への道はなく、たぶんリズの死体が埋まっている。ブルーグレーの瞳がそちらを見て、二日酔いで青褪めた唇が、小さく別れの言葉を紡いだ。
「――お元気で、リズさん」
「寂しいか?」
独り言のつもりのその言葉を、ハロルドが拾い上げた。珍しく揶揄いや嘲りの色を含まない、純粋に尋ねているだけのような声。ふ、とルトリシアの眉が下がって、くしゃりと歪な笑顔を形作った。
「そりゃ、寂しいに決まってるでしょ。でも――」
そこで言葉を切って、ぱちぱちとブルーグレーの瞳を瞬かせた。こぼれそうな何かを飲み込もうとするように、手の甲がぐいっと乱暴に顔をこする。
「ちゃんと喜んであげなきゃ。大事な人が、無事だったんですもん。良かった。本当に、よかった……」
良かった、と繰り返すルトリシアを、ハロルドは暗い部屋から外の太陽を眺めるような目で見下ろした。ふっ、と小馬鹿にしたように鼻で笑う。
「相変わらず。吐き気がするほどの善人だな、アンタは」
「……それ褒めてます?」
「褒めてない」
知ってましたー、と頬を膨らませたルトリシアは、肩の力を抜いて吹っ切ったように両手を広げる。
「大丈夫! お互い生きてれば、きっとまた会う機会もありますもん。次に会えた時、お兄ちゃんを紹介できたらいいなぁ。その時は恋人さんを紹介してもらいましょうね」
「……ああ」
一拍置いてから、ハロルドは素直に頷いた。そんな機会は永遠に来ない事を、知っている。いつもの皮肉も嫌味も顔を出さなかったのは、きっとそれを知っているからなのだろう。何も知らないルトリシアだけが、その反応に嬉しそうに笑う。
「さって、と。ネズミさんにご飯を持ってってあげなきゃ」
ルトリシアは勢いよく立ち上がって、昨日の残りが入った鍋を覗き込んだ。レードルを手に取ったルトリシアに、ハロルドが軽く肩をすくめてみせる。
「あー……ネズミな。あいつも出てったわ」
「……え」
「リズの向かった方角と奴の集落が同じ方向でな。歩けるようになったから一緒に行くってよ」
「そう……なんですね」
レードルがからりと鍋の際を擦った。どこか空虚な金属音が鳴る。掬い取ろうとした動きが空振りして、所在なさげに中空に留まった。近くの梢に戻ってきた小鳥が、ちち、と鳴く。ルトリシアとハロルドの間を、秋の香りを孕んだ風が吹き抜けた。
「寒くなってきたな」
そう言うと、ハロルドは立ち上がってコンテナの方へと足を向ける。ほどなくして戻ってくると、まだレードルを持ったまま佇んでいるルトリシアに向かって革製のジャケットを放り投げた。
「ほらよ。リズの置き土産だ。アンタに使ってくれってさ」
慌てて差し出したルトリシアの手の中に、革製のジャケットが収まった。古い脂の匂いが染みついていてあちこち擦り切れたそれを、ルトリシアは大切そうに抱きしめた。
秋が深まり、冬が来る。この先、同じく冬を迎えるはずのリズが、冬の備えを置いていくということに違和感を感じてもいいはずだった。だが、ハロルドが置き土産だと言えば、それを額面通りに受け取るのがルトリシアという女だった。
「……ありがとう、リズさん」
綺麗事だけじゃやっていけないのは分かっている、とリズに語ったその口で、根拠のない善意を丸ごと受け容れている。
ばさり、と古い革が翻った。いつも着ているタンクトップの上から、リズのジャケットを羽織る。ルトリシアが着るには少し袖が長すぎて、手の甲がすっかり隠れてしまった。袖の先から覗いている細い指先を、ハロルドがじっと見つめる。
「……でけぇな」
「そりゃ、男のひとの服ですもん」
眉を下げて、またくしゃりと笑ったルトリシアに、ハロルドは鼻を鳴らして背を向けた。
「とにかく、だ。リズが居なくなったぶん、人手が要る。アンタはさっさと"お兄ちゃん"を起こす準備をしろ」
「……ええ、もちろん。資材はもうほぼ揃ってますから、あとは壁を建てるだけです」
「おう」
風が吹いて、ハロルドの薄く赤みを帯びた灰色の髪を揺らす。一歩踏み出してから、振り返らずにひらりと手を振った。
「薬も改良の目途が立った。小屋が出来次第、始めんぞ、ルトリシア」
もそもそとリズの服の袖をまくっていたルトリシアが、弾かれたように顔を上げる。
「今、名前で呼びました!?」
足早に去っていく背中は、何も答えなかった。
* * *
押し殺した吐息の合間に、微かに金属の触れ合う音が混じる。古い石壁はひやりと冷たく、上方から薄っすらと差し込む光だけが、手の届かないところに落ちていた。
静寂を割り開くように、こつり、と足音が落ちた。こつり、こつり、と薄くなったブーツの踵が階段を踏む音が一段ずつ降りてくるのに合わせて、薄っすらと差し込む光の上にボディライトの強い白光が重なる。
「よぉ。調子はどうだ、俺の可愛い実験動物ちゃん」
金属の触れ合う音が大きくなる。喉をひゅうひゅうと空気が抜ける音だけが、酷く怯えたように足音の主を迎えた。
古い遺跡の崩れかけた一室に据え付けられた、かつて祭壇かなにかに使われていたであろう石台の四隅には歪な金属の環が埋め込まれ、その上に寝かされた男の四肢を固定する金具付きの宇宙船用強化テザーが結び付けられている。リズの残した牢獄に、トラバサミで脚を噛み砕かれたトゥグ族の男は囚われ続けていた。
変異はしていない。目にはまだ、怯えという人間らしい感情が残っているのが見て取れた。
「よしよし、まだイケるな」
ハロルドは、引き裂かれた脚の回復経過を診てから満足そうに頷いた。ひゅうひゅうと鳴る喉を覗き込む。内視スコープを少し挿入すると、切られた声帯が回復しつつある様子が拡張視界に映し出された。
「……明日もっかい切るか。さあ、薬の時間だぞ。今日はもう少し量を増やすからな。明日まで人間でいられるといいな、アンタ」
次回の更新は7/17です。それではまた、次回。
☆トゥグ族
レテ各地の未開拓地で暮らす狩猟部族の総称。
人類とは遺伝的な差異はほとんど無く、外見上の特徴も首の後ろや腕の内側へ刻まれた牙状の刺青くらいしか存在しない。しかし、文明圏とは価値観が大きく異なっており、銃火器をはじめとした高度技術を忌避し、現在でも木製の弓や槍を用いた生活を送っている。
言語による意思疎通自体は可能だが、人命や所有権に対する価値観が根本的に異なるため、文明圏では「言葉は通じるが話は通じない」と評されることが多い。なお、彼らにとって人間は他の動物同様、狩りや捕食の対象である。




