第9話 本当はどうしたいか
荒野には穏やかな静寂が満ちていた。時折、熾火からほんの小さなぱちりとした音が鳴る。夜鳴き虫がおずおずと鳴いては、そのぱちりに水を差されたように押し黙った。
焚き火の横では、首まで赤くなったルトリシアがころりと横倒しになって眠っている。きついアルコールの匂いと、穏やかな寝息が妙にちぐはぐだった。
少し離れたコンテナの壁際では、ハロルドが寄りかかるようにして崩れ落ちていた。組んだ腕から落ちたらしいカップが、傍らに転がっている。
ざく、ざくと小さく土を踏む音がして、水を汲みに行ったリズが戻ってきた。熾火の上に、焚き付けと一緒に薪を数本重ねる。ふうふうと細い筒で空気を送り込むと、ぼうっと焚き付けに火が移って濃い暗闇を橙色の光が払った。ぱち、ぱちと爆ぜる音を聞きながら立ち上がると、ハロルドの前まで歩いていって、しゃがみ込む。
「……先生?」
水をくれ、と言ったのはハロルドだった。軽く肩を揺すってみたが、力なく頭が揺れるだけで碧の瞳は瞼の奥に隠れたままだ。リズは困ったように眉を下げると、穏やかに微笑んだ。
「ふふ、先生まで寝ちゃうなんて困ったな」
困ったな、という声はだがしかし、どこか満足げな色を孕んでいる。しばらく辛抱強く揺すり起こそうとしていたが、やがて諦めたように立ち上がった。
焚き火に歩み寄ると、長い枝で熾火を崩して薪に空気を含ませる。ぱち、ぱち、と鳴る音が強くなり、きらきらと火の粉が宵闇の空に舞った。
ちらり、とリズのひび割れた眼鏡の奥から覗く暗褐色の目が、無防備に眠るルトリシアに吸い寄せられるように動いた。無造作に敷かれた防水シートの上に、茜色の髪が緩やかに散らばっている。飲んでいるうちに熱い、と脱ぎ捨てた薄手のジャケットがすぐそばでくしゃくしゃになっていて、タンクトップ一枚の胸が穏やかに上下していた。こくり、とリズの喉が鳴る。
眼鏡の奥の目が、ハロルドの方をもう一度眺めた。深く眠っているようで、さっきより頭の角度が傾いている。リズの口元が緩い弧を描いた。ルトリシアに向き直る。そのまましばらく眺めていたが、もう一度こくりと喉を鳴らしてから、そうっとした動きでルトリシアの胸元に指が伸びた。
「……よう。お楽しみにしようってか?」
タンクトップの襟元に指が触れる直前で、リズの後頭部に冷たい金属の感触が押し当てられた。びくり、と肩が硬直する。そろそろと両手が挙がった。
「……起きてたの、先生」
「馬鹿だよなぁ。女に手を出したいなら、男を始末してからにしろよ」
かちり、と安全装置を外す音に、リズの喉が三度目の音を立てた。
「……ごめん。好きなコが無防備に寝てたから、つい魔が差しちゃっただけなんだ」
「酒にヤク混ぜといてなァにが魔が差しただ。しかも替えたカップのほうに仕込みやがって。白々しい」
焚火をかすめたぬるい風が、二人の間を吹き抜けた。空気の温度が、急激に下がったように感じるのはたぶん錯覚なのだろう。
銃を頭に突きつけられたまま、リズは緩慢な動きで振り返った。眼鏡の奥の細まった目はぞっとするほど冷たくて、普段の穏やかさや人の善さといった色がごっそりと抜け落ちている。
「……いつ気付いたの?」
「いつも何も。拡張能のスキャンに引っ掛かっただけだっつの。何を盛られたか分かりゃあ、対処のしようは幾らでもある」
「ああ……オルタナってそういう機能もあるの。厄介だなぁ。あーあ、わざわざ腕まで撃たれてあげたのに」
銃口を突き付けられている事なんてまるで気にしていない様子で、リズはこきりと首を鳴らした。苛立ったような筒口がぐり、と頭皮にめり込む。少し顔をしかめてから傍らで熟睡しているルトリシアをちらりと見たリズの口元に、酷薄な笑みが浮かんだ。
「ねぇ先生。この子の事、随分大事にしてるよね?」
「……あん?」
笑いの色を含んだ問いかけに、ハロルドの眉がぎゅっと寄った。リズの眼鏡の奥で、眇んだ目が三日月型の弧を描く。
「先生はさ、僕と同類でしょ? わかるよ。この子とは別の人種だよね。ろくでなし。悪いやつ。きみからは食う側の人間の匂いがする」
脳味噌から数ミリの位置に銃口を置かれているとは思えない穏やかな声に、薄く甘い毒が溶かし込まれていくようだった。
「こんな何もないトコでさ? 女のコなんて唯一のエンタメじゃん。なのに、触りもせずに大事に囲い込んでさぁ」
「さすがド辺境。ド低脳すぎて脳味噌が下半身とくっついてんのか? 嫌だねェ、性欲でしかドーパミン出せない猿はよ」
「そうだよ? だから使わないなら譲ってよ」
「嫌だね。俺にも人手が要るんでな」
にべもないハロルドの返事に、リズはにこりと口の端を持ち上げてみせた。
「こんな善意の塊みたいな子、一人で大事に飼ってたってどうせ長生きできないって。僕にくれるならウチの集落に口利きしてあげるよ? 大丈夫、トゥグ族より話が通じるし、ラックログ……ああ、先生達が宙族って呼んでる人達ね、彼らより融通が効くから、ウチは」
「よく喋る口だなぁ、えぇ?」
「痛いよ、先生」
ぐりぐりと突き付けた銃口をさらに抉り込んで、ハロルドはリズの顔を覗き込む。
「お前んとこの集落、壊滅したんじゃなかったのか?」
「嘘だよ?」
「だろォな」
くす、と笑って怒らないんだ、と言ったリズは覗き込んできた碧の目をじっと見返した。
「ね、先生。僕のこと、最初から疑ってたの?」
「別に。誰も信用に値しねぇと思ってるだけだよ」
「嘘つき。あのコのことは信頼してるくせに」
ハロルドは目を眇めた。本性を表してからというもの、この男は一度もルトリシアの名前を呼ばない。個人としてではなく、女というラベルを貼って価値だけを見ている。それがどうしようもなく不快で、不快に思う事自体がまた耐えられないくらいの嫌悪を呼んだ。それが同族嫌悪という類のものだと、この男は絶対に認めないだろう。
何もかもリズの言うとおりだった。自分はこいつと同じ悪い人間で、他人は識別する必要がなく、使い潰すもので。より生存に有利な行き先があるなら、この吹けば飛ぶような構造を維持する意味なんてひとつもない。
「ね、先生。どうすべきか……ううん、本当はどうしたいか、よく考えてみて」
「……ああ。そうだな」
頭に突きつけられていた銃口が下がった。リズの口元の笑みが深くなる。かちり、と安全装置の掛かる音。銃把をベルトに捩じ込むと、つい先日と同じようにリズの肩に腕を回した。
「お前かーなーり、悪いやつだな。ええ?」
「ふふ。先生ほどじゃないでしょ?」
共犯者の目で見返したリズに、ハロルドはにっと笑い返した。
「それはまぁ、ホントにそう」
ぷつり、と皮膚を細い針が食い破る音が、ほんのかすかに闇の中に落ちた。躊躇いのない指が、注射器のシリンジを一息に押し込む。ぱっ、と腕を離すと引き抜かれた注射針の痕を押さえながら、リズがたたらを踏んで後ろに下がった。
「……っ、あ゙、何、を」
「何って……ホントはどうしたいかよく考えろって言ったの、アンタだよな? コレ、ずっと試してみたくてなぁ」
ハロルドは白衣の内側から小さなガラス瓶を取り出して軽く揺すってみせた。茶褐色の瓶の中で、液体に沈んだ眼球がころりと揺れる。リズが訪れる前夜、歩いてきた死体から転がり落ちた眼球。瘴気の濃縮体だと、遠くに捨てるべきだと、リズが教えたそれ。
ひび割れた眼鏡がかしゃんと落ちて、その向こうにあったリズの目が嫌悪と絶望に歪んだ。
「……っ、くっそ、ソレ捨ててなかったのかよ、道理でしょっちゅう襲撃来ると、馬鹿じゃん、うぁ、あ゙、」
ぬぢ、と粘着質な音がして、リズのシャツの袖が膨れ上がった。三日前にトゥグ族の鏃が肉を抉った箇所。ぶち、ぶちと布を引き千切りながら変異した組織が溢れ出る。
「お、やっぱ傷口から変異すんなぁ。損傷箇所を補おうとして暴走すんだな」
楽しそうに目を光らせてハロルドは一歩踏み込んだ。リズの身体がぐっと前傾して、背骨が異常に盛り上がる。
「あ゙、ぁ、く、そ、」
くつくつと笑って、ハロルドは両手で覆われたリズの顔を覗き込んだ。首元から這い上がるように青紫のひび割れじみた血管が浮き上がり、片方の目が赤く染まっている。
「あんたのことだからさぁ。どーせ独り占めしようってコロニーとやらには報告してねぇんだろ?」
「……っ、あ゙、はは……どう、かな……」
せめてもの反撃だと言いたげに、痛みと絶望に歪む口元を曖昧に笑わせてみせたリズに、ハロルドは満足げに頷いた。
「それがもう答えだっつの。あー、辺境の猿は愚かだねぇ」
「ぐ……っ、は、ぁ゙、あ、あぁぁ゙ああ゙っ、」
もう人の言葉は出なかった。爪の際から細い繊毛が這い出して、それに耐えられないかのように血が吹き出す。血塗れの指が喉を掻いた。
「じ……ね……」
めきめきと盛り上がった背骨が枝分かれして、鞭のようにしなった。それがハロルドに届く前に、だぁんと闇を切り裂く重い銃声が響く。
一発。二発、三発。
重いその音に押されるように、リズの身体が三度たたらを踏んで、それからどさりとくずおれた。リズがここにやってきた日にハロルドに預けたライフルの筒口から、薄く煙が上がって焚き火の煙と混ざり合う。
ハロルドはライフルを降ろすと、拡張脳上で回していたカウンタータイマーを止めた。電脳上の分身に変異推移の解析を任せて、思い出したようにルトリシアを振り返る。
茜色の髪を無造作に散らばらせて横になったまま、ルトリシアが深い眠りから戻ってくる気配はなかった。それを認めて、一仕事終えたとばかりに首をごきごきと鳴らす。手を伸ばして、ルトリシアの眠る防水シートの端に飛んだわずかな血痕を親指の腹で拭い取った。
「さぁて、片付けっか。ネズミも移動させねぇと」
欠伸混じりにそう呟いた声が、宵闇に溶けていった。
次回の更新は7/10です。それではまた、次回。




