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第34話 ネルソンの足跡

 俺は資料の山を見下ろした。


 ガルダの地図。


 ネルソンの手記。


 第一次調査団の報告書。


 第二次調査団の接触記録。


 黒曜石ジジイの論文。


 主流派の反論。


 人間性論争の年表。


 最初は、ただガルダの登山口が爆発する話を調べていただけだった。


 ゲームの湿地が爆発するかもしれない、という不安から始まった。


 それが、ネルソンが登山口を使っていなかった話になり、先住民が飛び道具を使わない理由になり、岩を投げるふりの実験になり、爆発湿地の経験知になり、先住民への偏見になり、調査団の誤読になり、黒曜石ジジイの論文になり、最後は「人間とは何か」にまでたどり着いた。


 広がりすぎだろ。


 ネルソンの足跡、どこまで刻まれてるんだよ。


 山頂に旗を立てただけじゃない。


 登山口を避けた足跡が、地質学に残っている。


 岩を投げるふりをした手つきが、民族学に残っている。


 先住民の叫びを警告として聞き取った判断が、人間性論争に残っている。


 クレバスを三段跳びで越えた男が、学会の谷まで飛び越えている。


 俺は椅子にもたれ、天井を見た。


 ネルソンは政治家ではない。


 学者でもない。


 哲学者でもない。


 たぶん本人は、難しい思想史に足跡を残すつもりなどなかった。


 ただ山を見た。


 地面を見た。


 人を見た。


 叫びを聞いた。


 そして、見たものを見たまま報告した。


 それだけだ。


 それだけが、当時の世界では異常に強かった。


 偏見の分厚い雪を踏み抜き、報告書の嘘を割り、学説の岩壁にひびを入れた。


 俺は窓の外を見た。


 水平線の向こうに、ガルダがある。


 遠すぎて、今日も地平線に立っているように見える。


 あの山は大きい。


 五万メートル級の大霊峰。


 雪崩があり、クレバスがあり、毒ガスがあり、猛禽がいて、湿地が爆発する。


 だが、ガルダの本当に怖いところは、それだけではないのかもしれない。


 あの山に近づくと、人間は自分の無知を見せつけられる。


 自然についての無知。


 他者についての無知。


 自分たちの常識が、どれほど狭い足場だったか。


 それを、山は黙って突きつける。


「山、スゲーな」


 俺はつぶやいた。


 それから、少し考えて言い直した。


「ネルソンも、だいぶスゲーな」


 認めたくない。


 だが、認めるしかない。


 あの男はおかしい。


 間違いなくおかしい。


 でも、山に入ったときのネルソンは、たぶん誰よりもまっすぐ物を見ていた。


 ガルダの湿地で、岩を投げるふりをした男。


 それが、百五十年後の俺に、先住民の叫びを聞かせてくる。


 歴史ってやつは、足音が遅れて届くことがあるらしい。

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